夕暮れの潮風が僅かの湿り気を都内へと吹き込んでいた。
茜色に染まったタワーマンションから、弾むように幅広の階段を駆け下りる白いジャージ姿の少女は、人気の無い道を軽やかに駆け抜けて行く。この手の億ションに住む様な住人は、車での移動がほとんどで、表から出入りする事も少ない。
緑地帯沿いに走ると、すぐに橋がある。
埋立地から埋立地へと繋ぐ橋だ。
途端に、吹き抜ける潮風が強まり、目深に被ったフードがはだけ、黒く長い髪と整った少女の面相が日に晒された。それを、肩に乗った美少女フィギュアがそっと直す。
「お方様……」
「良いのう。いつの世も、この腐と生が入り混じった澄まし汁の様な淀みは。ほほほほ」
ピタリ、ジョギングの足を止め、手すりにもたれかかると、混濁した水面を眺めた。黒く淀んだ波間に、少女の瞳はその水底迄も見通し、蠢く有象無象の命を見出す。
小さきものを大きなものが喰らい、それをより大きなものが喰らう。その連鎖。そこに混じる下級の妖魔たち。実に他愛もない営みよと目を細めた。
「して、何かの?」
車道にワゴン車が停まり、中から数名の男たちが降り立つ。
身の丈は2mもありそうな、大柄な男ら。白いマスクにサングラス。ニット帽に手袋といった具合に顔を隠し、即座に少女を取り囲む。
僅かにのぞく肌が浅黒く、明らかに日本語とは違う言葉を二言三言。一斉に覆いかぶさるが、少女は抵抗らしき抵抗も見せずにワゴン車へと引き込まれた。
急発進した車の中では、ちょっとしたお祭り騒ぎだ。
興奮した男らは口々に異国の言葉を羅列し、慣れた手つきでリズミカルに身体を揺すりながらガムテープを少女に巻き付けていく。
その様を、少女は静かな目でじいっと見つめていた。
「ほほう。これはこれは……」
数刻後、その車はとある倉庫街に停車していた。
少女は薄暗い倉庫の中、一人静かに周囲を見渡す。ガムテープのいましめは床に落ち、その足元に。少女は、それを可愛らしいスニーカーで踏みしめ、数歩。
「いつの世も変わらぬものじゃのう」
愉悦に満ちた響き。
そこは透明なビニールシートで覆われた、ちょっとした工場か。医療用の寝台に、無数の容器に浮かぶ臓器の群。血袋。骨。関節。ありとあらゆる素材が、丁寧にパッケージされ、今にも。恐らくは一番奥にある巨大な冷凍倉庫へと。
「立ちや」
少女の命に、床に這いつくばっていた男らが、随分と不自由そうにゆっくりと起き上がった。その数は二十、三十。いや、もっとか。
「やれやれ。我が手を下すと、無駄が多い。実に勿体ない話じゃ」
「お方様。いつもながら、鮮やかな手遊びで御座います」
肩の美少女人形が、渋い男の声でそう告げる。それにちらり、穏やかな目線を投げかけ、少女は少し困った顔をする。
「見よ。こやつ等は、己が死んだ事に気付いてもおらぬわ」
そう告げて、虚空に手を伸ばし引き寄せると、そこには青白いもやの様なものが握られている。それをぐにぐにとこねくり回すと、もやからは男の悲鳴の様なものが漏れ出た。
「いかんのう。もっと死の恐怖を感じさせねばの。これでは命の無駄使いじゃ」
「お方様。これらの死鬼は如何いたしましょう?」
「まあ、その内に使い道も出来るじゃろて」
少女は、手の中のそれを少し眺め、傍らに立つ死鬼の一体に近付くと、その胸に押し込んだ。
◇
その夜、魔法少女人形はまたも電柱の上に降り立った。
まるで不夜城の如く、煌々と光が世界を照らすその中に超然と立つ。そこは監視カメラのある更に上の空間。そして、これから起こる事は、一切の記録に残らない。ちょこざいな術者共の妨害が無ければ──
「ふん」
一枚の呪符を、電柱の変電機に投げた。この辺一帯、一ブロックの電力を供給しているラインの節目に当たる。それを支配すれば。
途端に、都会の一角が暗闇に染まった。