紀子の予備のヘルメットを渡されたいずみは、それを被った上でジャンバーのファスナーを襟もとまで引き上げた。
ヘルメットは外気に冷やされてとても冷たく、暖房の効いた店から出たばかりのいずみを震えあがらせるに充分だったが、タンデムシートに腰を降ろすと紀子のつなぎから香り立つ黒革と彼女の香気に当てられ、思わず深く吸い込んでいた。
「ちゃんと捕まっててな」
「はい。こんな感じで、良いですか?」
そう告げられ、彼女の広い背中に思いっきり腕を回すと、むにゅっと上からのしかかる肉圧がががが。しゅ、しゅごい……
とても二三歳しか違わないなんて思えない!
色々サイズ的におっきいな~って思ってたけれど紀子さん、これは反則だよ~。とほ~。
そんないずみの胸の内など気付きもせず、紀子は大通りに抜けると徐々に速度を上げていった。
やがて信号で停車すると、ひょいと首を巡らせ、後ろのいずみに声をかけた。
「いずみちゃん、寒くない?」
「大丈夫です。紀子さん、凄く暖かい……」
「え? そう?」
「そうです」
いずみにとって、紀子の体温は数度高い様にも感じられた。ほかほかのおっきなカイロみたいで、抱き付いてると何だかうっとりと眠くなって来ちゃう。
「あいつの熱にあてられたかなあ~?」
「ふふふ……あ、青になりましたよ」
「おおっと」
ぼやく様に呟く紀子をせかし、バイクを再び走らせた。
たちまちぐんと速度が上がる。
まるで流れる光の河を泳ぐみたいだと、紀子の背の熱にひたりながら、いずみは瞳を閉じてその身を預けていた。
◇
静寂に人のすすり泣く声がそこはかとなく響き、壁一面にずらり並ぶガラスケースの中には大小様々な美少女フィギュアが、ひしめく様に並べられている。
そこはわずか十畳程の薄暗い一室。
窓際の机には一人、パソコンの画面に向かい、何やら前のめりに作業をしている。
「そう、であるか……」
もこもこに半纏を着込んだその人物が、かつかつとペンを動かしながらそう呟くと、どこからともなく、申し訳なさそうな響きが応えた。
「まさか仕留め損なうとは……」
「よい。うぬに責はないわ。のう? 地獄の?」
「すまぬ。つい興が乗ってな」
更に野太い渋めの声が、どこからともなく。
画面には線画が描かれており、半纏の主が左手の端末を捜査すると、それが面白い様にくるくると回る。その絵に、よどむ事の無いタッチで書き込んでゆく。
「貴様! ふざけた事を!」
「ほほほほほ。魔将ともあろう者が興じたか。余程、千年の眠りは退屈であったろうの」
「ふ……新鮮ではあるな」
そう応えた声の主が、部屋の中央に。その巨体を露わにするのだが、天井はそんなに高くない。前かがみになりながら、中央に向かい合う四つの机の一画にのそりと腰を降ろしたが。みしり……
「すまぬな。人間用のもの故、もろい」
「ああ、構わぬさ。で、儂はこれから何をすれば良い?」
「そうさのう~」
部屋の主は、逡巡する様にペンの動きを止め、モニターの上を、そのカーテンの閉じた窓の向こうへと目線を泳がせた。
すると、先ほどから地獄龍への風当たりが強い声が、いささか苛立ちを交えながら口を挟む。
「この様な愚物、ただただ敵の本陣を襲わせれば良いではありませんか!?」
「これこれ。そう急くでない。偶然とは言え、縁あってかような時の果てに知己を得たのじゃ。我が心身ともに解放され、ただ赴くままに富士のすそ野を駆けた折に出会うたのも運命よ。石仏かと思いきや、封じられたこやつであった。我が気付かねば、あと千年はそのままであったろうよ」
「面目ない」
「ははははは。お主を封じた者も大した奴よ。霊峰富士の霊気をもって封と為すとは、剣呑剣呑。あと数百年で完全に浄化されておったろうの。今は人を喰らい、傷を癒すが良い。なあに、一人二人消えた所で、騒ぎにもならぬわ。因果なものよの」
「はは」
かしこまる巨漢に、それを見ずに再び作業を開始する部屋の主。数百体にも及ぶ人形の群が、この光景を物を言わずに、じいっと見つめていた。
昔ならば人が何人も消えようものなら、すわ妖怪の仕業と大騒ぎになったものだが、この世ではアパートの隣の部屋で何が起きようとほぼほぼ気にする事は無い。異臭がし、虫が窓を埋め尽くしてようやく騒ぎになったりもする。部屋の主が帰らぬならば、何か月もそのままになる事も少なくない。
故に、妖魔が蘇った事を知る物も、そう多くはない。