八つに分裂し折り重なる世界。背後にはまるで虚無の様に闇が迫っていた。
へらへら笑う鏡の胸倉を掴み、ガンにらみを決めていた紀子は、ほうとため息をつき、手の力を抜いた。
「で、脱出する方法は無ぇの?」
「あ~、この手のは確か生門ってのがあって、そこから出れる筈なんだけど……」
「ど?」
「他は大体死んじゃう奴だから、こーいう時は式を飛ばして一つ一つ確かめるものなんだけど~」
「で、紙が無ぇと……」
「はい……レシートとかある?」
言われて紀子はポケットの中を改める。
バイクのキー。免許証入れ。小銭入れ。
それを眺め、呆れた口調で嘆く鏡。
「のりちゃん。君、本当に女の子? 普通ポケットティッシュとか持ってない?」
「うるせえ。正真正銘の女の子さまでぇ。それどころか、て、てめぇの大好きな魔法少女って奴だぜ」
「嫌だ! それは断固拒絶する!!」
「んだと、こらぁ!!」
自分で言って、大分恥かしい。紀子は、顔が紅潮するのを誤魔化す様に声を荒げるが、それを上回る勢いで鏡が返した。
「良いかい!!? 魔法少女ってね、夢が詰まってるんだよ!! のりちゃんに詰まってるのは筋肉と脂肪の塊じゃないか!!? 魔法少女はね、そんなでかいのを二つもぶらぶらさせてない!! もっとこう、つつましやかで可憐ではかなくて繊細!! そう、繊細な存在なの!!!」
「ば……っかじゃねーの」
怒りを通り越すとかえって冷静になるというのはこういう事なのか。
前で腕を組み、半ばのけ反り気味に鏡を見下ろした。否、見下したのだ。
夢じゃないだと? 夢はある。三船敏郎みたいな大剣豪に私はなる! オヤジが良く観てた時代劇の影響だと思うんだけど、子供心に燦然と輝いていた。あれは演技だって、今は分かっているけれど、憧れはまだ私の中で消えていない。
「馬鹿じゃないの!! 常識なの!!」
「おめぇのな……はぁ~……」
呆れるやら何やら。ただこうしていても、背後の闇が広がるばかり。
「で、おめぇの懐にゃ、もう何もねぇのかよ?」
「へ? な、無いよ」
「あ~ん!? 怪しいなあ~」
紀子はへたり込んでる鏡に、前のめりにねめつけた。
ずるり、確かに余計な脂肪の塊が二つ、下へとずり落ちる感覚があるのだが、それがどうした。こんなのでかかろうが小さかろうが、ガキを育てる為の器官でしかない。必要になったら大抵膨らんで、用事が済めばしぼむものだ。高校の保健体育の授業で、保険の先生がそう言ってたぜ。
今はそんな話をしてんじゃねぇ。
「おら、出せよ」
「何も無いって!」
「何も無い訳、無いだろ!? その腰の膨らんでるものを出せってんだよ!!」
まるでカツアゲである。
嫌がる鏡をむんずと掴む。いつもだったら変な術でするりと逃げられるところが、面白い様に簡単にくるくるとひっくり返せるものだから、ちょっと悪ノリで手荒に扱うのだ。
「やめ! やめて!! それだけは!!!」
「なんだ、あるじゃねぇか~。何だ、こりゃ?」
鏡の財布を取り上げたら、三枚の万札と何か変なチケットが……
「へ……鏡のくせに、結構持ってんじゃねぇか」
「返して!! 返して!! それ、今度発売される俺の嫁の予約券とその代金なの!!」
「んだあ。プリティなんちゃらだ。はっ、おめぇこんなのが趣味なのかよ」
苦笑して視線を鏡に戻すと、大の大人がマジ泣きしそうな顔をしてるので、胸にじわりと罪悪感の様なものが。
「ほら、返せば良いんだろう」
「ふわあ!! あああ!!」
慌ててそれらを抱かかえる鏡に、最早こいつに大しては諦めの境地の紀子であった。
「それ、式にして飛ばせば半々の確率で助かるんじゃね?」
「ダメ!! 絶対ダメ!!」
「はぁ~……死んじまったら元も子もねぇだろうが?」
「俺が死ぬ!!」
「あたしはまだ死にたく無ぇんだけどなあ~……」
鏡一人が自死を選ぶってのなら仕方ないが、巻き込まれるのはごめんだ。華も実もある十九歳。まだまだこれからって時に、はい死んだーと諦める訳にはいかない。
それに……
ずいっと一歩前へ出る紀子。
「へ? の、のりちゃん!?」
「おめぇはそこで縮こまってな。あたしは、こっちの方が性に合ってらあな」
ぐいっと手の中の、水晶の剣を持ち上げ、そこに映る己の顔を凝視した。
「へっ、我ながら良い顔してやがるぜ」
「何? 自分が美人だって言いたいの?」
「ば~か」
ひゅん。空を斬る刃。
「んな、当たり前の事じゃねぇってばよ」
「え~。ちょ、ちょっと! 待ちなってば!」
ずい。半歩。次は一歩とすり足で前へ出る紀子は、真っ直ぐに前を見据え、陽炎の様な光景の中へと進み出した。