「こなくそー!」
振り返り様、ぶんと唸るのりこの拳が、鏡の顔面に吸い込まれた。文字通り、すいっと。
「く……」
「はーっはっはっはっは! まだまだだねぇ~、のりちゃん!」
高笑いする鏡の姿がぐにゃりと歪み、その僅か1m程左にもう一人、鏡の姿があった。
その手が素早く印を結ぶや、更にその横にずらららっと鏡の姿が滑る様に流れ出、たちまちこの細い路地に立つのりこの周囲をぐるりと取り囲んでしまう。
「「「「「「「「はーっはっはっはっは!」」」」」」」」」」
「バ、バカ!! 何やってんだよ!!」
サッとのりこの血が下がる。
ここは真昼間の土曜日の秋葉原だ。背中にリュックを担ぎ、大きなアニメキャラの紙袋を手に下げた大きなお友達がぞろぞろと蠢いている、にも関わらずこんな目立つ魔術を!
シティハンターみたいな水色のジャケットの下にピンクのTシャツ。その胸には、どっかの魔法少女の笑顔がでかでかとプリントされている。それがミケーネ帝国の大軍団みたいにずら~っと横並びに立っているのだ。一般人に見られたら、こりゃ朝方のりこが書かされていた始末書どころの騒ぎじゃ無い!
「だいじょーぶ」
「大丈夫じゃない!」
「えっと……もしかして、鏡さんの術?」
傍で見ている筈のいずみは、きょとんとこのやり取りを眺めていた。
いずみの目には、横に一歩動いた鏡の居た場所を、思いっきりのりこが殴って空振りし、その後大慌てで左右を見回して騒いでいるのだ。
鏡が魔術で、のりこに幻影を見せているのだろう。そういずみは予想した。
反応が全力で面白いから、ついついからかってしまう。その気持ち、判る~。
でも……
にっこりといずみは、鏡に問いかけた。
「鏡さん。もうタイムカード、押して来たんですか? みんなカンカンでしたよ?」
「やっべ。まだだわ~。でもさあ、半日遅刻してんだから、あと少しくらい良くね?」
「で、のりこさんが居たから、からかいに来たと……気持ちは判りますが、そんな事していると嫌われちゃいますよ?」
「え~、嫌ってなんかないよねぇ~、のりちゃん?」
「死ね!」
「ほらね」
「ぷ……流石、2.5次元人……」
思わず吹き出してしまう。
高校一年生のいずみには、この二次元を愛し、三次元に生きる2.5次元人の鏡の突き抜けたマイペースぶりには到底敵うものではない。人生の厚みが違うのだ。その全てをかけて愛する『物』に愛情を注ぎ込んでいる怪人物の観念が、自分とは完全に別の方向へと突き進んでいる事を、元よりどうこう出来るものでは無いと感じていた。
あれも一般ではセクハラなんだけど、彼にとってはそういう類の性衝動とは違うのだろう。だが、この日本では犯罪だ。
しかし、この犯罪者を閉じ込めておく檻は、日本の警察に存在しない。
「のりこさん。また始末書ですよ」
「うぐ……ぐぐぐ……」
いつの間にか、のりこの手には水晶の剣が握られていた。鋭利で冷やかな刀身が、冬の冷気を帯びて白く残像を残す。
そんなのりこに、屈託のない笑みを浮かべ、鏡はふいっと目線を流す。
「で、何? ここが例の現場って訳?」
「だよ……」
「何?」
「そうだよ! そうですよ! 何だよ、笑いに来やがって!」
「そ~んな訳じゃないんだけどさ~……ふ~ん……」
そう呟く鏡の表情は、先ほどまでのへらへらとしたものから、まるで映画俳優の決め顔の如く、真剣なものに変じていた。だからどうしたという話ではあるが──
「これは……」
「何か判りますか? お伺いをたてたところ、ここでは無いと……」
「切り取られた痕跡があるな……どこかと繋げたか……」
「それは?」
「んだよ、もったいぶらずにさっさと言えって!」
怒りに頬を紅潮させてるのりこに、フッとまるで幼子をなだめる様な上から目線で微笑む鏡。
「てめぇ!!」
「のりちゃん。妖気を感じたんだよね?」
「ああ、そうだよ! この辺でな!」
「う~ん……土蜘蛛の類なら、もっと……て事は……」
そう呟きながら、鏡は壁面の上の方へと目線を泳がせた。それから、壁の立つ床面とのつながりの部分へと。
「何か見えるのでしょうか?」
「いや」
「んだ、それ!?」
「だが感じるね……一旦『もっと~』に戻ろうか」
「わ~、ご出勤ですね」
にこぽんと手を叩くいずみに、鏡は人生の悲哀に満ちた、苦み走った笑みを浮かべた。