走る。走る。走る。
泥を蹴り上げて進む。
走る。走る。走る。
呼吸が浅く速くなる。
走る。走る。走る。
横腹がきりきり痛む。
走る。走る。走る。
轟音が近づいてくる。
走る。走る。走る。
生暖かい空気が迫る。
走る。走る。走る。
背を押すような熱波。
「伏せてっ!」
「……きゃっ!?」
メルを抱えて地面に転がる。
アカリの背中を、紅蓮の奔流がかすめていく。
ジャケットが焼け焦げ、化学繊維の溶ける嫌な臭いがする。
* イエローカード! *
* <記者証>所有者によるモンスターの攻撃妨害 *
* あと2回でペナルティが執行されます *
アカリの脳に、<運営>のメッセージが直接流れ込んだ。
軽い頭痛。頭の芯を針で突かれたような痛み。
警告をもらったのは、<記者証>を取得したばかりの頃以来だ。
「……ミカアカ、大丈夫!?」
「ええ、大丈夫。それより走って!」
立ち上がって駆ける。
肩越しに振り返れば、<シュテンオニイソメ>の醜い顔面がすぐそこだった。
口から黒い煙をたなびかせながら、複層の顎をカシャカシャと鳴らしている。
自分が囮になれば――
一瞬、そんな考えが浮かぶ。
だが、無駄だ。
<記者証>持ちはモンスターの攻撃対象にならない。
メルめがけて、脇目も振らず襲いかかってくるだろう。
それならば。
「<
収束された強烈な光線を<シュテンオニイソメ>の顔面に浴びせる。
本来は遠距離にある被写体を照らすためのスキルだ。
この怪物に視覚があるかはわからないが、目眩ましになればいい。
* イエローカード! *
* <記者証>所有者によるモンスターの撹乱行為 *
* あと1回でペナルティが執行されます *
頭痛。
<シュテンオニイソメ>は長大な身体を左右の壁にぶつけている。
どうやら撹乱は通じたようだ。
しかし、あと一度でも何かをすればペナルティが執行される。
<運営>が下すペナルティの詳細はわかっていない。
よくて廃人化、マシな方で死。
同行の配信者が数十人まとめて異形に変貌したという噂もある。
「メル、先に行って!」
メルの小さな背中を突き飛ばす。
ペナルティを負うにしても、可能な限り距離は空けたい。
巻き添えにしてしまう可能性を少しでも減らしたい。
「……ミカアカが、逃げて」
「何言ってるの!? お願いだから言うことを聞いて!」
だが、メルはその場に留まる。
手印を組み、口訣を唱え<氣>を練りはじめる。
「土に潜みし金精よ、寄り寄りて集い銀線を成せ。
泥から、壁から、天井から。
髪よりも細い無数の銀糸が伸びる。
<シュテンオニイソメ>の全身を縛り上げ、その動きを封じる。
銀色に絡め取られた巨体が暴れ、そのたびに銀糸がぶちぶちと音を立てて千切れ、それをまた新たな銀糸が覆う。
「何してるの! そんなのいつまでももたない!」
「……時間、稼いでる。逃げて」
メルの唇の端から赤い血が垂れる。
固く握った手印からも鮮血が滴る。
文字通り、死力を振り絞った
「どうして……そんな……」
頭の冷静な部分がささやく。
メルはもう動かせない。
術を解いた瞬間、あの怪物は襲いかかってくるだろう。
もう万にひとつにもメルを逃がせる手段はない。
共倒れになるよりは、自分だけでも逃げるべきなのだろう。
「それができたら、こんなところにいないのよ……!」
万にひとつがないのなら、億にひとつ、兆にひとつの可能性に賭ける。
確実な死を受け入れるくらいならば、例え0が無限に並ぶ果てに1があるだけだとしても、その0.00...01%に賭ける。
「<
アカリの手から、強力な閃光が発せられた。
それを浴びた<シュテンオニイソメ>が身悶え、金属をこすり合わせるような絶叫を上げる。
* イエローカード! *
* <記者証>所有者によるモンスターの撹乱行為 *
* ペナルティが執行されます *
脳髄に直接焼き付けられる文字列と、痛み。
錆びた釘で脳をかき回される感覚。
鼻の奥から熱いものが溢れ出す。
口腔に鉄の味が拡がる。
足に力が入らない。
膝が泥に潜る。
冷たい。
* ペナルティを執行します *
* ペナルティを執行します *
* ペナルティを執行します *
<運営>のメッセージに混じってメルの声がするが、よく聞き取れない。
ギシギシと、金属音が耳を刺す。
顔を上げれば、怪物の顎。
中心に赤が揺らめく。
生ぬるいそよ風。
腐臭、熱気。
そうか、執行役はこの怪物なんだ。
どうやら手近で済ませたらしい。
これでメルから注意が逸れる。
この隙に逃げてほしい。
犠牲は私だけで十分。
果たすべき責任。
時間がゆっくりと流れている。
死の直前、こういうことが起きると何かで読んだ。
走馬灯は流れないようだ。
攻撃をかわせればもっと時間が稼げるのに。
コースケさんなら、正面から受けてもぴんぴんしてそうだ。
ソラさんなら、宙を舞って華麗にかわすのだろう。
だが、自分にそんな身体能力はない。
少しは運動すべきだったかと思う。
とうに手遅れのことを考えている間に炎が迫ってくる。
スローモーションで視界を埋め尽くしていく。
熱気に耐えきれず、目をつむる。
うずくまって、最期を待つ。
………………。
…………。
……。
熱さも、痛みもやってこない。
代わりに、声が聞こえた。
「うあっちぃぃぃいいい!! なんだこの気持ち悪りぃのは!?」
「えっ……?」
聞き覚えのある野太い声。
ここで聞こえるはずのない声。
巨大な盾を持ち、炎に立ちふさがる広い背中。
「アカリさん、すっごい鼻血!?」
「むぐっ!?」
抱え起こされ顔を拭かれる。
たまらず変な声が出てしまった。
「軽くうつむいてじっとしててね。鼻血はすぐ止まるから大丈夫だよ」
鼻の付け根と首の後ろを強くつままれる。
細いのに、力強い指。
アカリは呆然としたまま、尋ねた。
「どうして、ここに……?」
「そりゃあアレよ、ヒーローは遅れてくるもんだろ?」
「クロさん、たぶんそのセリフ噛み合ってないよ」
そこには、ニィと歯を剥いて笑う、クロガネとソラの姿があった。