「ぷはー、さすがにしんどかったぜ」
地面に突き刺さった猪頭の横に、クロガネはどっかりと腰を下ろした。
全身傷だらけの汗まみれだ。
「これで初心者向けってんなら、ダンジョンってのも舐められねえな」
「ホントだね、正直、あたしもちょっと舐めてた」
ソラが逆さまのまま動かない猪頭をちょんちょんと指でつついている
「すっごい剛毛。熊の毛皮みたい」
「熊の毛皮なんて触ったことあるのかよ」
「お土産物屋さんに剥製が飾ってあったりするよ」
そういえばそうか。
クロガネはぼりぼりと頭をかく。
この十年というもの、ソラの父親代わりを務めてきたつもりだった。だが、振り返ればプロレス漬けの毎日で、遊びや旅行に連れて行ったことなど数えるほどしかなかったなとふと思い出す。
「なあ、ソラ、今度遊園地にでも行くか?」
「いきなり何言い出してんの? 走馬灯でも見えた?」
ソラが怪訝な顔をする。
そりゃそうか。いくらなんでも唐突が過ぎた。
クロガネはぼりぼりと頭をかき、話題を変えようと視線を泳がせる。
すると、空中に真っ黒な球体が浮いているのが目に入った。
大きさはバスケットボールほどで、カメラのレンズのようなものがついている。
一言でいうなら空飛ぶ黒目玉だ。
「なんだ、ありゃ?」
クロガネは球体を指さして疑問を口にする。
「なんだろうね? あのイカの仲間かな?」
ソラがぴょんぴょん跳ねて追いかけるが、目玉はするするその手をかわす。
「虫取り網でも持ってくればよかったかなあ」
「よせよせ、捕まえたってしょうもねえだろ」
「それはそっか」
目玉を捕まえるのを諦め、ソラはクロガネのそばに移動する。
デイバッグから荷物を取り出し、クロガネの手当を始めた。
幼い頃から道場で遊んでいたソラにとって、怪我の手当はままごとよりも先におぼえた茶飯事だ。
「お、おい……俺様も手当しろよ……」
「あ、気がついたんだ」
「胸が痛え……肋骨が折れた……」
「いやいや、折れてないって。圧迫されて息が詰まっただけだよ」
骨折か単なる打撲か、ソラは一目で判断できた。
鎧は派手に壊されてはいたが、それが衝撃を吸収したのだろう。
本人の怪我は大したことがない。ショックで気を失っていただけだ。
「ポーション……回復ポーションよこせよ……十万で買ってやる……」
「えっ、そんなにくれるの!? 3層で買っておけばよかった。いまから買ってきてもいい?」
「ざっけんな! そんなに、待てるか……」
男は青い顔をしてわがままを言う。
ソラは面倒くさい男を助けてしまったと少し後悔していた。
「カ、カメラドローンが来てるじゃねえか……。おい、こっちこい」
男は空飛ぶ目玉に向かって手を伸ばした。
目玉はすいーっと男に近寄り、ぐるぐるとその周りを飛んだ後、今度は壊れた鎧の上でふわふわと浮いた。
「見てるやつ。回復ポーションだ。十万で買ってやる。ダッシュで持ってこい……」
男は息も絶え絶えといった様子だが、目玉が反応する様子はない。
今度はクロガネと猪頭の間を8の字を描いて飛びはじめた。
「なんかうっとうしいな、これ」
「ちょっとかわいい気もしてきた」
「マジかよ」
ソラのセンスはわからん、とクロガネは内心でため息をつく。
そして「よっこらしょ」と立ち上がり、ジーンズの泥を払った。
「着替え持ってくりゃよかったなあ。シャツがぼろぼろだ」
「そう? かっこいいよ、パンクロッカーみたいで」
ソラのセンスはわからん、クロガネは再び思う。
「それじゃ、下見も済んだし、ぼちぼち帰るか」
「そうだね。次はちゃんと衣装も持ってこよう。あとは照明」
「ヘッドランプが便利そうだが……見栄えがなあ」
「ランタンがいいんじゃない? LEDのやつ。満遍なく照らせた方が撮りやすそう」
「普通の懐中電灯も欲しいな。通路の先が見えないのはちょいと面倒だったぜ」
「お、おい! 何帰ろうとしてんだよ!」
クロガネとソラが帰り支度をしていると、男が声を上げた。
「怪我人がいるんだぞ! 助けろよ!」
「怪我人なあ……」
クロガネはぼりぼりと頭をかいた。
「俺の見立てじゃ、せいぜい青痣ができたくらいに思うが。ソラ、どんな感じだ?」
「クロさんと同じ。あんなの怪我のうちに入らないよ」
ソラは面倒そうにため息をつく。
プロレスラーに囲まれて育ったため、つまらないことで泣き言を言う男は生理的に受け付けないのだ。
「俺様ひとりにして、モンスターに襲われたらどうする! 訴えてやるからな!」
「ん、そういえばお前仲間がいなかったか? あいつらに世話してもらえよ」
「クロさん、この人と知り合いなの?」
「あー、知り合いっつうかなんつうかな」
入場口での揉め事をについて、ここで説明をするのは気が引けた。
ソラはああいう手合いが大嫌いなのだ。蹴り飛ばして今度こそ本当の怪我人にしてしまうかもしれない。
「なんだおっさん、俺様はてめえみてえなやつは……あっ」
男の方も気がついたようだ。
顔面蒼白になり、だらだらと冷や汗をかきはじめた。
「まあ、とにかくアレだ。このモンスターもやっつけたし、自分で帰れるだろ」
面倒事になる前に話を切り上げようと、クロガネは話題を逸らした。
逆さまになっている猪頭の身体をバンバンと叩こうとして――すり抜けた。
「おおっ?」
猪頭の身体が、きらきらと小さな光の粒に分解されていく。
徐々に空気に溶けていき、やがて跡形もなく消え去った。
かしゃりと乾いた音がして、猪頭が突き刺さっていた穴に何かが落ちた。
「なんだこりゃ?」
クロガネは身をかがめて
複数の牙に紐を通した、首飾りのようなものだった。
「ドロップアイテムってやつかな?」
「どろっぷあいてむ?」
「モンスターを倒すと、たまに死体の代わりにアイテムを残すことがあるんだって」
「へえ、なんかゲームみてえだな」
クロガネは拾った首飾りを
アマゾン奥地の原住民がつけてそうだな、とクロガネは思った。
「デビル・コースケのときの衣装にいいんじゃない? いかにも蛮族って感じ」
「見た目は悪くねえが怪我が怖えな。入場までつけといて、試合の前に外すか」
「うーん、それはちょっと寒いかも。って、あれ? あいつがいないんだけど」
二人がドロップアイテムに夢中になっている間に、男が姿を消していた。
「自分で歩けるのに気づいて、帰ったんじゃねえのか?」
「そっか。お礼のひとつも言わないで、感じの悪いやつだったね。別にいいけど」
「気にするほどのことでもねえや。さ、俺らも帰ろうぜ。腹も減っちまった」
「チョコバナナ食べよ、チョコバナナ!」
「俺は肉が食いてえなあ……」
こうして、クロガネとソラの初めてのダンジョン探索が終わった。
空飛ぶ黒目玉――カメラドローンが配信した映像が、ちょっとした騒ぎを呼んでいたことなど、このときの二人には知る由もなかった。