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【第二一〇節/パルミラ防衛戦 下】

 戦端が開かれてから丸一日。パルミラに仕掛けられた夜魔の大攻勢は、徐々にその勢いを減じつつあった。


 事前に用意された様々な策が功を奏したのはもちろんのこと、士官から兵士に至るまで、全ての人間が高い士気を維持して戦い続けたことが最も大きな要因であろう。彼らは蝗害のように容赦なく襲い来る敵を相手に、一歩も退かなかった。



 士気を重視するということは、それを維持する様々な要素を重視することによってはじめて成立する。



 人間生活の基盤となる衣食住の確保は、戦場でははなはだ困難だ。しかし逆に言えば、敵よりも良い待遇を準備出来れば、戦闘に際して大きな利点となる。


 籠城戦という形態は、城内に民間人を庇っている場合、そうした非戦闘員への対処も同時にしなければならない。兵糧を消耗されるだけでも軍にとっては大きな負担となる。


 その点、事前に一般市民を川下へ退避させていたのは正解だった。パルミラ都軍は持てる資源の全てを戦闘に注力することが出来る。


 それは武器や食料だけでなく、例えば包帯や薬品、負傷者を寝かせるための寝台も含まれる。


 ラエドはあらかじめ、戦線の後方に全く無傷の予備兵力を温存していた。これは戦線に負担が生じた時の保険であると同時に、疲弊した部隊の交代要員でもある。貴重な継火手も一部を回復要員として動員し、負傷して下がってきた兵士の治療に専念させた。


 無論、継火手だけでは到底手が足りない。彼女らとていくら癒しの法術が使えても、専門職というわけではないのだ。包帯の巻き方さえ知らない者も多い。


 そんな継火手の補助には、商人会議のエステルが人を出していた。本人も現場に立ち、血と汗にまみれながら誰よりも迅速に働いた。


 高級娼婦として身を立ててきたエステルは、自分と同じ身寄りのない女性を集めて組織化することで勢力を築いてきた人物だ。闇渡りの世界に比べればまだましではあるものの、継火手でない女性が一人で生きていくのは困難である。彼女はそういう現実を目の当たりにし、嫌という程味わって生きてきた。


 一人で生き抜くのは困難。だが、ひと所に集まり知識や技術を身に着ければ、女としてのか弱さを補うことが出来る。エステルはそう考えた。


 学問は上流階級に独占されている。力仕事では男にかなわない。ならばそれ以外の技を手に入れ、社会の中で存在感を保つしかない。エステルは遊女たちに読み書きや計算はもとより、生きていくのに必要な様々な技術を惜しみなく仕込んだ。


 芸は当然のこと、裁縫や手工芸、そして可能な限りの医療技術。


 知識を仕入れることに対してエステルは投資を惜しまなかった。彼女の所持する薬品の中には、闇渡りの穢婆から直接購入した物もある。


 もとより遊女という職種は、身体的な問題・・が生じやすい危険な仕事である。むしろ薬や体調に気を遣うのは、雇い主として当然の義務と考えていた。


 このパルミラ防衛戦は、今まで積み上げてきたものを活かす絶好の機会である。遊女としてではなく、それ以外の自分として働くことが出来る場なのだ。エステルが参加を呼び掛けるまでもなく、自ら進んで戦場に立った者は多い。



 遊女と全く対極にある女性たちもまた、自らの矜持を示すために奮闘していた。



 戦闘に参加した二百余名の継火手たちは、誰一人として前線に立つことを厭わなかった。そのうちの三十名……名無しヶ丘での戦いを経験した者たちほど、特に勇敢に戦った。


 聖銀製の杖や剣を振るってグレゴリを倒し、息をそろえて法術を放っては押し寄せるネフィリムを焼き払う。空中から襲い来るティアマトも重厚な火線を突破出来ない。


 彼女たちの脳裡には、名無しヶ丘で自分たちが見せてしまった醜態の記憶が、ありありと刻まれている。今こそその記憶を振り払い、面目を示す時である。



「あんな継火手になり立ての小娘に、説教されたままではいられませんわッ!!」



 それが彼女たちの合言葉であった。


 戦闘開始から十五時間が経った頃、戦場にラヴェンナを震撼させた巨頭の夜魔が現れた。トビアからの報告を受けると同時に、ラエドもナザラトも危機感を強めた。味方を蹴飛ばしながら驀進するのである。否が応にも目立つ。


 狙いも特性も不明のままだったが、結果として、一体たりとも城壁にたどり着くことは無かった。



「我が焔よ!」


「御怒りの奔流となり悪を滅せよ!」


「出でよ断罪の光!!」




「「「能天使の閃光エクシアス・ブレイズ!!!!」」」




 一斉に放たれた光条が夜魔の上体を吹き飛ばし、それでもなお勢いを減じずに二体、三対とまとめて薙ぎ払う。他の区画でも同様のことが起こった。


 最接近していた敵が粉砕され、城壁に汚泥が張り付くに至って、パルミラ側はようやく敵の特性を把握した。情報は即座にラエドの下に届けられ、すぐさま全軍へと伝播する。巨頭の夜魔には便宜的に「蛸頭アフタブート」という名が与えらえ、最優先で撃破するよう定められた。



 戦争とは、人間が普段持ちえない一体感を醸成し得る、数少ない機会の一つである。



 歴史上、その一体感は危険な陶酔につながり、多くの民族を破滅へと誘った。その一方で、闘争と勝利の記憶が民族の根幹となり、象徴となった例もある。


 そうした過去の事例は、今の時代では一部の人しか知らない。前線で戦っている兵士たちには考えている余裕などありはしない。


 だが、彼らは心のどこかで直感的に気付き始めていた。もしこの災厄を乗り越えることが出来たなら、その時パルミラの勢力図は一新されることだろう。新しい葡萄酒が新しい革袋に注がれるように、戦いを生き延びた新たな民は、新しい政治共同体の中で生きようとするはずだ。


 そこでは最早、身分など意味を持たなくなるかもしれない。この戦いにおいて、継火手も娼婦も同じように戦列に加わっており、名家の子弟である守火手と使用人の子である兵士が肩を並べて戦っている。


 地位も資本も、人間が創った幻に過ぎない。押し寄せる過酷な現実の前では、それらは一様に意味を失う。



 だからこそ、剥き出しの現実の中で、隣に立って共に戦う者にこそ真の価値があるのではないか。



 それを言葉に出来る者は、今はまだどこにもいない。ただ予感だけがある。そしてその予感こそが、彼らの士気を支える一つの要素となっていた。


 戦闘開始から三十時間が過ぎた頃、敵の攻勢が停止した。




◇◇◇




「凄い……本当に止まった」


 上空から戦場を見下ろしていたトビアは、服の襟に指をかけて息をついた。竜のリドワンが「くぅ」と鳴いた。


 相棒をいたわるように背中をさすってやる。彼が偵察の任を全う出来たのも、ティアマトを相手にリドワンが戦ってくれたからに他ならない。彼自身も風術で対抗はしたが、力を温存出来たのは竜のお陰である。


「……」


 トビアは東の空に目を向けた。昇りかけの月に照らされて、雲海が微かに光を放っている。


(イスラさん、カナンさん……)


 自分がここで決死の戦いをしているように、彼らもまた、過酷な戦いの中にいるのではないだろうか? トビアには想像することしか出来ないが、彼らが安楽な道を進んでいるとは、どうしても思えなかった。



「僕は大丈夫です。パルミラも……きっと守って見せますから。だから」



 トビアはかぶりを振った。東の地平に、再び赤い光の群れが浮かび上がるのが見えた。


 不安からか、トビアは無意識のうちに腰に手をやっていた。出陣の際にサラから託されたそれ・・を。これを使う機会がどこかで巡ってくるかもしれない。



「……そうだ、絶対に生き延びてやる!」



 自分自身に言い聞かせ、トビアは司令塔に向けてリドワンを急降下させた。

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