パルミラ防衛戦は、他の煌都がそうであったのと同様に、まずは巨人に対処することから始まった。
東岸の平地は、今や完全に夜魔の手にゆだねられている。彼らが身体のいずこからか発する雑音がティベリス川の川面を波立たせ、兵士たちの神経を逆撫でした。
焼けたばかりの灰に似た臭いが城壁を飛び越えて市内にまで入り込んでくる。瘴土の臭いを嗅いだことの無い者でも、パルミラが異界に侵されつつあることを意識せずにはいられない。
月明かりと燈台の光に照らされて、横列に並んだネフィリムたちが、巨影を揺らして前進する。足元には無数の夜魔たちが追従し、砂煙にまかれながらも城壁めがけて一直線に突進してくる。無数の赤い眼光が押し寄せる様は、演説によって奮い立った兵士たちにもやはり恐ろしく映った。
だが、命令が下るまで、どの部隊も決して攻撃を始めようとはしなかった。震える手を精神で押さえつけ、その時が来るのをひたすら待ち続ける。ネフィリムたちによる投擲攻撃が始まってもなお、彼らは恐慌をきたさなかった。
兵士たちの体感時間では、何年も、あるいは何十年も経ったかのようだった。全身が緊張に満たされ、今にもはちきれそうになった時、パルミラの上空で光が瞬いた。
「第二、第三投石機隊、攻撃開始!」
ラエドより間髪入れずに命令が下り、一瞬のうちに指定された部隊へと伝播する。今かと待ち構えていた操手たちが、一斉に
炎に包まれた無数の弾丸が宙を飛び、並進する巨人たちに突き刺さる。流石に一撃必殺とはいかないが、第一射は驚異的な命中率を叩きだした。投石機の射程距離に入った十体のうち七体に直撃。さらにそのうち二体を完全撃破、三体を擱座せしめた。
初弾からの大戦果に兵士たちが湧き立つ。すぐさま士官がたしなめるものの、極めて好ましい滑り出しであることは明らかだった。
まぐれでこうなったのではない。全てはラエドとナザラトの計算のうちだった。
夜魔の軍勢の接近が知らされて以来、彼らは打てる手を全て出し切るつもりで準備を進めていた。あらかじめ投石機の弾丸の着弾地点を調べるなど当然のことである。
敵がどこに集中しているのか、どの部隊で攻撃させれば効率が良いのか、上空から全て筒抜けである。いくら司令塔が高所にあるとは言っても、戦場全域を俯瞰出来るほどではないのだから、彼らの存在はラエドにとっても非常に大きなものだった。
無論、指揮官がこの程度で喜んだりはしない。いくら味方がやられようと、夜魔たちは一切勢いを緩めない。彼らに対して「士気を挫く」といった考え方は通用しないのだ。
「敵の勢い、やはり止まらんな」
「それが夜魔です。人を相手取るのとは事情が違います」
「分かっておる。だからこそ、
◇◇◇
上空に待機しているトビアは、竜のリドワンを旋回させながら、眼下の様子に目を凝らしていた。
彼には観測手としての仕事が与えられていた。トビアにとって初めて聞く単語であったし、恐らく他の人間にしてもそうであろう。この単語を考えたのはナザラトであり、果たすべき役割も彼の考案である。上空から戦場を見渡し、その状況を逐一報告するのが仕事だ。
連絡に際しては閃光弾を用いる。状況に応じて使用する色、数が決められている。いずれの類型にも当てはまらない事態になった場合は、直接司令塔へと降りる手筈になっている。今の所はまだ、戦場に大きな変化は見られない。
トビアとしては直接敵と戦いたかったが、ナザラトから命ぜられたのがどれだけ重要なことか、しっかり理解するだけの知力も備えている。実際、軍の中に一人だけ風読みを混ぜたところで、編制に混乱をきたすだけである。
現状、パルミラは夜魔に対して優位に戦えていた。ネフィリムとの投擲合戦についてはほぼ圧倒しているような状態である。
戦闘に先んじて、パルミラ東岸からは驚異になりそうな物が全て取り除かれていた。元々が砂漠であるため大きな岩も少なく、利用されそうな建物はあらかじめ解体して他所に移してある。いかにネフィリムに怪力があろうと、投げるのに適した物が無いのでは無用の長物だ。仕方無く足元のグレゴリを掴んで放り投げてくる個体もいたほどだ。
ネフィリムが効果的に動けないとなると、次に出張ってくるのは通常型の夜魔やグレゴリ、アルマロスなどの歩兵である。
それらの一群が活発に動きだしたのを認めたトビアは、肩掛け鞄から複数の閃光弾を取り出した。
竜の真下で赤色の閃光が瞬く。続いて投下した閃光弾の色は緑色。意味は「敵主力前進。予測通り」である。
◇◇◇
夜魔の主力部隊は、パルミラの城壁に張り付く寸前で足止めを食らった。
正確には、自ら足を止められに行った、と表現する方が正しいだろう。
パルミラの東正門前には、あらかじめ縦方向に掘られた壕が二十列並んでいた。城壁に近づくほど深くなるように斜面が形成されており、軍勢が一直線に前進すれば、必ずその一部が行き止まりにぶつかることになる。
壕一つあたりの間隔は、横に十五ミトラ、縦に二十ミトラ。高さは最も深い場所で五ミトラ程度である。
壕と壕の間隔は十ミトラほどあるが、夜魔が犇めくとあっという間に埋まってしまい、次々と押し出されてしまう。零れるように壕の中へ転落し、這い出そうともがいている夜魔に折り重なっていく。
そうして確実に敵が集中した箇所に向かって、あらかじめ軌道を観測していたバリスタ隊が一斉に焼夷弾を放った。
放物線を描いて飛んだ特殊弾が次々と着弾、発火し、壕は瞬く間に燃え盛る棺桶へと変わった。戦場が赤く染まり、その熱気と光は上空のトビアにまで届いてくるほどだった。
火焔の中で夜魔たちが断末魔の悲鳴を迸らせる。それでもなお火焔に飛び込んでくるものや、突き落とされて焼かれるものは後を絶たない。
当たり前だが、人間の軍が相手ならば、さしたる意味を持ちえないだろう。せいぜい部隊の展開が面倒になる程度で、さっさと壕を埋めてしまうか、そもそも迂回してしまうことも出来るだろう。
だが、夜魔はそんなことなど考えつかなかった。彼らは人間と全く異なる思考で動いている。そもそも思考というものが存在するのかも怪しい。
一つ確実なのは、彼らが生に対する執着を抱いていないという点である。敵と認めたものに対しては常に最短距離で攻撃を仕掛ける。たとえ罠が待っていようと、刺し違えるのもいとわずに攻め立ててくる。
だからこそ、そういう性質があるならば逆用するまでだ。
ラエドもナザラトも、この災禍を乗り切るには、いかに効率的に敵を倒すかが鍵になると睨んでいた。戦闘で少しでも楽をするために、事前の策を惜しむつもりは一切無かった。
そして、これだけで敵を止められるとも到底思ってはいない。
壕で足止めを食らおうと、その間隙を縫ったり、あるいは大外から回り込んできた一群が城壁に取りついた。弓兵の一斉射にバタバタと薙ぎ倒されても勢いは一切止まらない。城壁から突き出される槍で顔面を抉られようと、あるいは槌や斧で砕かれようと、さらには仲間の身体を引きずり落としてでも登って来ようとする。その凄まじい有り様は獲物に群がる鰐を連想させた。
ついに一体のアルマロスが、兵士を剣で串刺しにして、城壁の上に立った。
兵士たちが即座に武器を構えるが、彼らが動くよりも更に早く、一人の継火手が突進して斧を振るっていた。
アルマロスの首が飛ぶ。残った胴体を、継火手マスィルは無造作に蹴落とした。夜魔の死骸は灰に変化しながら、蠢く赤い光の群れの中に飛散した。