決戦を間近に控え、ラエド将軍はパルミラの第一城郭を訪れていた。
広大なティベリス川に点在する群島を繋げて出来たのがパルミラという街だが、防衛の観点から正門は東西にそれぞれ一つだけである。他の煌都よりもやや低いが、それでも十分に重厚な城壁が聳え立ち、正門の上に設けられた尖塔が夜の砂漠を睨んでいる。
城壁の上にはすでに兵たちが集まり、それぞれの持ち場で固唾を呑んでいる。壁の真後ろに集められた部隊も同様で、武具の確認を行うところもあれば、火酒の入った小さな革袋を回し飲みにしているところもある。
投石機の調整をする機械音、武器の触れ合う音、軍靴が石を蹴る音。その一つ一つに、戦いに対する緊張が漲っていた。戦端が開かれていないにも関わらず汗だくの兵士もおり、そういった連中からはツンと刺すような臭気が漂ってくる。
遠目にも勇んでいることが分かる者もいれば、手足の震えを必死に押し殺そうとしている者がいるのも分かる。皆、誰しもが勇者になれるわけではない。
そんな彼らも、堂々と胸を張って歩くラエドを見ると、少しだけ表情が明るくなった。ラエドは己の中にある不安を一切外に出さないようにしていた。いかに長い従軍経験のある彼でも、この状況に対して恐れはある。それでも決して見せてはならない。たとえ目の前にネフィリムが首を突き出してきたとしても、傲然と立ち続ける。それが将軍というものだ。
ラエドは東正門まで歩き、城郭の上で立ち止まった。
傾注! と副将のコルネリオが声を張り上げる。将兵たちが一斉にラエドを注視した。ざわめきが徐々に静まっていき、尖塔に掲げられた軍旗のはためく音や、灯火から飛ぶ火の粉の音だけが残る。ラエドは静かに語り掛けた。
「パルミラの戦士諸君……我が友人たちよ。この時、この場所に、諸君と共に居られることを嬉しく思う」
ラエドは、自分でも意識しない内に「友人」と呼び掛けていた。それに続いて出たのは、当初考えていたのとは異なる感謝の文言だった。
だが、将軍は自身の言った言葉をすんなりと受け止めた。事実、今は彼らに向かってそう呼びかけたいと思ったのだ。
ラエドは続ける。
「我々の眼前に未曾有の危機が迫っておる。歴史上、かつて誰一人として立ち向かったことの無い災厄じゃ。
恐らくは世界が闇に覆われた時とて、今ほどの絶望ではなかったであろう。我々の祖先には煌都という寄る辺があり、天火という希望が残されたからじゃ。しかし今、その最後の希望を摘まんと、怪物共が群れを成して襲い掛からんとしておる。
他の煌都がどうなっておるか見当もつかぬ状態じゃ。このパルミラ管区においても、被害の大きさは今更語るまでもない。諸君らの中には、村や町を破壊されて、命からがら脱出してきた者もおるじゃろう。失った物は数多く、到底取返しはつかぬかもしれん。それでもなお剣を取って戦おうとする者に、儂は心から感謝しておる」
ラエドの目には映らないが、その言葉に涙を流しかけた者は確かにいた。都軍のほぼ全戦力がパルミラに集結しているが、中には守るべき対象をすでに失った部隊もある。ここを死に場所と定めて、差し違える覚悟で従軍している者もいた。
そんな連中ほど、夜魔による災禍をつぶさに見てきている。最早、甘言めいた希望など何の意味も持たないだろう。生ぬるい言葉では現実を変えることは出来ないし、その現実に立ち向かうよう人を鼓舞することも出来ない。
だからこそ、ラエドは徹底して真逆のことを語ることにした。
「……何故、我らの時代にこのような激動を迎えることとなったのか、考えぬ日は無い。半年前の戦いの時もそうであったが、今はより一層、歴史の流れというものを感じさせられる。
時に逆らい生き長らえる者など、どこにもおらん。かつて地上に在った帝国が崩壊したのと同様、煌都もいつかは滅びる宿命にあるのかもしれん。
歴史は人の営みの連続じゃ。煌都が滅び、人が滅び、歴史が滅んでもなお時は流れ続ける。この街を貫くティベリス川のように。あるいは今こそが、歴史の終わる時なのかもしれん」
誰も何も言わない。全員が静かに彼の言葉に聞き入っていた。
一度戦争というものを経験していなければ、彼らはこの場に立つことすら出来なかっただろう。容赦の無い殺し合いを経験し、さらにじわじわと世界が崩れていく様を見続けてきた彼らは、とうに覚悟を固めている。
(素晴らしい士気じゃ)
絶望に負けた者は、そもそもこの戦いに加わろうとはしない。どこかに逃げるか、あるいは川に身投げするかのどちらかだ。そうした道を選ぶことを、ラエドは一々否定しようとは思わない。それらもまた、人として当然の反応だからだ。
しかしそれ故に、今ここに居てくれる者たちへの感謝はいや増すばかりである。
「だが諸君! 絶望の時に生きる者たちよ! それでも諸君はここに集うておる!!」
ラエドは鞘に納めた剣を、地面に強く打ち付けた。鞘が砕けるかと思われるほどの音が響き、兵士たちが身体を緊張させる。
「絶望に背を向ける者に、明日は決して来ない。夜闇が追い付いてきて、その者の背中を齧り取るじゃろう。
友人たち。我々は前を向くのだ。共に夜の方を見ようぞ!」
剣を抜き放ち、夜の砂漠の方へ、敵の来る方へ白刃を掲げる。パルミラの全ての戦士の視線が、その剣の切っ先に集まった。
「遥か昔、神は人間に絶望してこの世を棄て、夜をもたらした。儂らにはこの夜を覆すことは出来ぬかもしれん。しかし、怒れる神に縋りつくにはまだ早い!」
誰かが武器を打ち鳴らした。別の誰かが「然り!」と叫ぶ。
その行為は波のように兵士たちの間を駆け抜け、恐怖を覚える手から震えを取り去り、戦いを欲する者にはより一層の力を与えた。
「永劫の夜という
だが、何もせず蹲る者に奇跡が齎されることは有り得ん! 奇跡とは、人間の懸命なる努力の果てに、初めて齎されるものであるからじゃ!
諸君! パルミラの戦士諸君!! 共にこの絶望の時を斬り抜けようぞ!!」
ラエドの言葉が終わる直前、一人の小柄な継火手が樽の上に飛び乗った。赤い髪を翻し、戦斧を天に突きあげ、将軍の最後の一言に続ける形で叫ぶ。
「神よ照覧あれ、人間の戦いを!!」
歓声が爆発する。
戦士たちは互いに肩を組み、あるいは武器や拳を掲げて咆哮を上げる。継火手の中には、感極まって自分の守火手に唇を押し付ける者までいた。
すでに敵は目で捉えられる距離まで近づいている。その威容やおぞましさを前にしても、彼らに諦めという言葉は無い。
ただ一人、ナザラトだけはいつもと全く同じ様子で、淡々と部隊長たちに告げた。
「では、全軍所定の配置につかせてください」