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【第二〇八節/『サラ』】

 トビアを見送った後、二人は大図書館の地下にある閉架書庫へと避難した。旧時代からの文献を断片的ながらも遺しているそこは、今やもぬけの殻となっている。貴重な文献は全て司書たちに持たせてパルミラから避難させた。


 後に残ったのは、仕事が無いために動かなくなった魔導司書たちと、巨大な空の本棚だけである。


(むかしにもどったみたい)


 空間の奥行こそ広大だが、四方八方を閉鎖された暗黒は、サラにとってどこか懐かしささえ覚える環境だった。


「……さて、暇になってしまったのう」


 事前に運び入れておいた安楽椅子に腰かけて、フィロラオスが呟いた。今となってはここの環境に気を遣う必要も無いため、堂々とコーヒーを注いだ水差しまで持ち込んでいる。


 しばらく、冷たく苦いコーヒーを啜る音だけが、閉架書庫に響き渡った。トビアは飲めないが、サラは存外、甘味も乳も混ぜない水出しコーヒーが気に入っていた。味わいに媚びたところが無く、透徹な苦味だけが舌を引き締める。そんな禁欲的な味が、彼女の味覚にはすんなりと受け入れられた。


 一杯目が空になり、二杯目を注ぎ足している時、フィロラオスがにわかに切り出した。


「サラ君。退屈しのぎに、一つ老人の戯言に付き合ってくれんかの?」


「いいですよ」


 何をするでもなく、ただ淡々とコーヒーを飲み続けているだけではさすがに間がもたない。


 こうして平静を装ってこそいるものの、サラの心にも当然恐怖は宿っている。暗闇や、死に対する恐怖ではなく、トビアが帰ってこないかもしれないという恐怖が。


 フィロラオスもそれを察してくれたのだろう。口調こそ愛想が無いが、サラはこの老博士のことが好きだった。


「トビアがパルミラを訪れ、君……夜魔憑きの実在を教えてくれた時から……あるいはもっと前から、儂は一つの疑問を覚えておった」


「疑問……どうして夜魔憑きがいるか、ということ?」


「そうじゃな。突き詰めればそうなる。しかし、そこからさらにもう一歩踏み込んだ疑問じゃ」


 老博士は杯の縁を指でなぞった。小さな灯火の光に照らされた彼の顔は、杯の中の黒い水面に、隠れた真実を見出そうとしているかのようだった。


 そして顔を上げると、今度は空になった閉架を見やった。サラもつられてそちらに目を向ける。背丈の倍以上高い書架の列と、暗闇とを。


「儂らの歴史は闇に閉ざされておる。この世界が夜に包まれたその時から、正確な記録は失われ、様々な事物が二度と認知不能になってしまった。

 今が一体いつなのか、どの程度の時間が過ぎたのかすらはっきりとは分かっておらん。数えきれないほど多くのものが、歴史の泥濘の中に沈んでしまったのじゃ」


 サラは無言のまま、老博士の言葉に聞き入った。


 フィロラオスは続ける。


「儂が気になったのは、その失われた歴史的事実の一つじゃ。

 かつてこの世界ツァラハトには、一つの巨大な帝国が存在しておった。その証拠は、膨大な量の遺跡や文献が証明しておる。それこそ、この大図書館や書庫……魔導司書たちも、その帝国の産物じゃ」


「……おごりたかぶり、あらゆる悪徳でみたされたさかずきをかかげしもの。なんじ、あらゆる罪人の母なり」


 かつてベイベルに教えられた憂鬱な詩の一節を、サラは知らず知らずのうちに唱えていた。「うむ」とフィロラオスは頷く。


「帝国、すなわち帝王を戴く国家……帝王の一族と、限られた貴族たちによって運営される国家……そこまでは分かっておるのじゃ」


 では、と言葉を繋げると同時に、フィロラオスは視線を正面に座るサラへと向けた。




「では、その帝王と一族たちは、一体どこに消えたのじゃろうな?」




 老博士が自分の顔を見つめていることに気付いたサラは、吸い寄せられるように彼の黒い瞳を見やった。「どうしてわたしの顔をみながら言うの?」と尋ねそうになった。


 だが、それを遮るように、老博士の言葉は続く。



「世界が闇に沈み、帝国に大混乱が生じた。それは当然じゃろう。しかし、それならば支配者たる帝王が真っ先に民衆を導かねばならん。彼を中心とした政治体制が構築され、煌都はその統治下で運営される。

 しかし今、実際に煌都の行政を担っておるのは」



「……継火手」



「然り。そして彼女たちが歴史の表舞台に登場したのは、旧時代末期なのじゃ。現存している家系図をいくら調べても、それより前まで遡れた家は、儂の知る限りでは一つもあらなんだ。あのラヴェンナのゴート家でさえ、最も古い記録は四五〇年前。旧帝国時代の記録は遺されておらん」



「じゃあ、継火手たちが、帝王とその一族をおいはらったということ?」



「歴史のどこかで、そのような事件があったのは確実じゃろう。でなければ、旧時代に権勢をふるった家系が一つも残っていないというのは、明らかにおかしいのじゃ。ましてや帝王の血族ともなれば、その家系は樹根のように複雑になるもの。それを一切刈り取るのは不可能に近い」



「でも、おかしいわ。いくら継火手に力があるといっても、帝王の一族はもともと権力者だった人たちなんでしょう? おとなしく負けるなんて……」



 旧時代の終わり、混乱期に、帝国がどれほど力を削がれたかは想像するしかない。しかし、いくら力を失ったとはいっても、権威とはそこまで簡単に消え去るものではない。


 仮に継火手たちとの戦いが生じたとしても、旧帝国首脳には一定以上の武力が残ったはずだ。




「最初から、絶対に勝てない形に仕組まれていたとすれば、どうじゃ?」




 サラは息を呑んだ。閉架書庫を満たす静寂が、かえって痛いほどに耳を刺激する。


 聡い彼女は、フィロラオスが何を言わんとしているかを察していた。




「君の存在をトビアから教えられて以来、儂は何か引っ掛かっておった。

 もし夜魔憑きが人間に対する呪いであるならば、真っ先に夜魔に絞め殺されるのは、夜魔憑き本人のはずじゃ。

 しかし君に宿ったその力は、他者を傷つけこそすれど、君を傷つけたことは一度たりとも無かったはずじゃ」




 フィロラオスの言う通り、サラがいくら記憶の中を漁ってみても、この力が自分自身を物理的に傷つけたことは一度も無い。


 むしろ、敏感なほどに自分の身を守り続けてくれた。それこそ、ティヴォリ遺跡ではほんのかすり傷で暴走したほどだ。




「夜魔憑きの持つ力は圧倒的……しかし、継火手に対しては決定的に相性が悪い。まるで、最初から勝ち目など無いかのように。これを悪に対する神の威光……という言葉で片づけられるほど、儂は素直ではないでの」




「じゃあ……じゃあ、先生は、夜魔憑きがつくられた存在だというの? でも、それだと継火手の存在も否定することになるわ!」




 仮に彼の想像が当たっていて、出来試合が事実だとするならば、その仕組みに組み込まれている継火手もまた、造り物ということになる。


「こんな場所でなければ、到底口には出来んの」


 もし公然と口にしたならば、夜魔より先に人の手によって引き裂かれることだろう。


 彼の推測は、それほどまでに危険極まりないものだ。



「儂は以前、トビアに自然と自然ならざるものとについての講義を行った。非自然的なもの、すなわちこの世の真理にそぐわないものが悪しきものであることは論を待たない……そんな一節じゃったかのう。

 しかし、非自然的と言うならば、夜魔と同様継火手もそうなのじゃ。もし自由自在に炎を操る力が自然であるなら、儂とて水出しのコーヒーを持ち込んだりせず、今この場で温かく美味なコーヒーを淹れておるよ」



 だが、サラにとっては自然云々はどうでも良かった。気になるのは、もう一つの点。




「…………先生、わかっていってるの? それって……わたしが、旧帝国の王族の子孫、って意味になるんだよ?」




 フィロラオスは深く頷いた。「その可能性は大いにある、と儂は考えておる」サラは皮肉な笑い声を漏らしたが、それは普段よりもいくらかかすれていた。


 よりにもよって自分が……物心つく前から檻の中で見世物として生かされてきた自分が、帝王の血族に連なる存在であるなど、あまりに皮肉が効き過ぎている。



「それって、ただの想像じゃないですか?」



「左様。ただの想像じゃよ」



 フィロラオスはあっさりと認め、軽く肩を竦めた。


 いくら彼が言葉を積み重ねたところで、それを実証する証拠は何一つ残っていない。具体的事実を抑えられない以上、どれほど仮説が整えられていたところで、それは仮説の範疇を越えない。



「じゃが、夜魔憑きの力以外にもう一つ、証拠らしきものならあるぞ」



「証拠?」



「君の名前じゃよ」



 瞬間、サラの脳裡に、かつての記憶が言葉と共に去来した。懐かしい声と共に。




『なんと、闇渡りには似つかわしくない名だ。その名は古い言葉で王女を意味するものだぞ』




王女サラ王女サラか……ふふ、良いではないか。実に良いな。運命を感じさせる』




「運命……」



 たったこれだけのことで、証拠と言い張ることは出来ない。


 しかし、サラの頭の中では、王女という言葉と運命という言葉とが、互いに手に手を取り合って踊り狂っていた。



「先生、もしそれがほんとうだとしたら、わたしはどうしたら良いの?」



 フィロラオスは小さく肩を竦めた。



「儂にはどうとも言えんのぅ。ここまで好き勝手に言っておいてなんだが、君が本当に王家の血を継いでいるとて、今更何かが起こるとも思えん。

 しかし、もしその何か・・が起きるとしたら……学術的とは言えんが、何か不可思議な運命が働いた、ということになるのではないかの?」

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