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【第二〇七節/出陣】

 危機の発生を認識して以来、パルミラはすでに十三回に及ぶ戦闘を経験し、その全てに勝利していた。


 無論、ここまでの敵戦力は大したものではなく、全て先遣隊のような手応えである。


 これには、パルミラと黒線の距離、加えて夜魔それぞれの移動速度が関係していた。歩兵と同等の移動力しか持たない通常型はもとより、グレゴリ、ネフィリムといった大型個体も鈍重である。この間パルミラに攻め寄せていたのは、軽歩兵に相当するアルマロスや新種の甲虫型ばかりで、その数も大して多くはない。


 それぞれは強力な個体に違いないが、万全の態勢を敷いているパルミラには問題にもならない。


 逆に言えば、鈍足の本隊が到着した時こそが、パルミラ決戦の幕開けとなるのである。


 そして実際にその軍勢を最初に目の当たりにしたのは、ユランに乗って偵察に出ていたトビアだった。


「来た……!」


 単眼鏡を使うまでも無く、地平を覆う程の夜魔の群れが、パルミラに向けて進軍しているのが見えた。各々の目は小さいが、それがいくつも集まると、まるで砂漠が赤く染まったかのように錯覚させる。


 トビアは急ぎ引き返し、敵との距離、戦力、進軍速度を事細かに商人会議に報告した。同席しているラエド将軍もまた、その情報を元に気合を入れなおす。


 すでに戦術、戦略ともに極限まで磨きぬいているという自負がある。それでもなお、新たに得た情報を元に作戦の詳細を詰める。彼の傍らには常に参謀長のナザラトが控えており、老将軍の思考を助けた。彼我の距離が一日分の長さになるまで、軍事の改良は続けられた。



 恐らく、この時期のツァラハト全土で、最も夜魔の災禍に対しての備えを充実させていたのはパルミラであろう。



 理由は複数ある。


 一つは単純に、超大型夜魔の通過した黒線との距離が遠かったこと。これにより、情報を得る速度も、その情報を活かすだけの時間も確保出来た。


 第二に、商都としての性格上、防衛戦を行うための物資が潤沢に揃っていたこと。ラヴェンナのギヌエット大臣のように、他者より先見の明があった者は、近々食料全般の価格が爆発的に膨張することを見抜いて買い占めを行っていた。


 特に商人会議の一員であるバラクの動きは殊更素早く、パルミラ管区内の諸都市はもとより、近隣のニヌア、ラヴェンナ両管区の都市からも買い占めを行っていた。災禍が本格化し、流通が混乱する直前のことである。信頼に足る確定情報が無いにも関わらず、バラクは豪商としての勘を頼りに最善手を選んでいた。


 そうして得られた大量の食糧は、そのままニカノルの倉庫に預けられた。バラクは購入した全ての食料を煌都パルミラそのものに貸し付けた。寄付や売却ではなく、あくまでも貸与である。今現在の彼はほぼ無一文の状態だが、パルミラという街そのものの債権者となった。


「ほっほっ、これが良い投資となることを祈っておりますぞ」


 食事量が減ったために若干細くなった腹をさすりながら、そう吹聴するバラクは、パルミラの全商人から尊敬を集めることとなった。


 パルミラがかき集めたのは食料だけではない。武器に関しても、他の煌都より熱心に収集していた。槍刀や弓矢はもちろんのこと、買えないものは工房を最大稼働させて揃えた。


 サウル戦争でも使用された野戦用バリスタは、その実用性の高さからさらに量産が進められ今や五百基に及ぶ。これはパルミラが元々保有していた数の倍にあたる。それに合わせた弾頭の増産はもちろんのこと、中に詰める焼夷剤にも改良がくわえられており、火力が向上されている。


 ラヴェンナのバシリカ城のような巨大城郭こそないが、それでも市街を取り囲む城壁には四十基以上の大型投石機が据えられている。加えて、一部家屋を解体したり、広場を使用するなどして、城壁以外にも投石機を設置した。


 通常兵器だけでも相当念入りに揃えたと言えるが、さらに幸運が重なる。


 カナンが連れてきた旧ウルク難民たち。彼らが保有していた高純度の聖銀が、全て武器の原材料として使用された。こちらも貸与である。製造にあたっては、残留した岩堀族の技師たちが担当しており、仕上がった高性能な武具は継火手や守火手、最精鋭の都外巡察隊に行き渡った。


 こうしてパルミラは、装備と補給の両面において十分充足した状態を持つに至った。しかしいかに装備が優れていようと、それを扱う人間が貧弱では話にならない。


 しかし、パルミラは軍民問わず、比較的安定した状態を保っていた。何故ならば、彼らはすでに一度、煌都が脅かされる経験を積んでいるからである。


 闇渡りのサウルと、彼が引き起こした戦争は、パルミラに大きな意識改革をもたらしていた。パルミラの住民たちは煌都が常に安全であるとは限らず、いつ何時それが脅かされるか分からないことを骨身に刻まれていた。


 無論、全ての人間が心構えを持てていたわけではないのだが、少なくとも都軍に関して言えば、眼前の事態に対して十分士気を維持出来ている。


 戦時にあっては闇渡りに圧倒されるばかりであったため、そのことに懸念を抱いた中級指揮官たちが熱心に訓練を実施していた点も大きい。


 何より、深層の令嬢である継火手たちが、最も盛んに訓練を積み重ねていた。危機の発生にあたっては進んで難民保護に乗り出す等、その職務への打ち込みぶりは以前の比ではない。


 名無しヶ丘での決戦後に起こった統制崩壊は、彼女たちにとって恥辱以外の何物でもなかった。あまつさえその行動をたった一人の継火手に咎められたのは、死にたくなるほどの屈辱である。


 今や名誉挽回の機会があらば先を争って飛び出す有様であり、彼女たちの熱量に引きずられる形でおのずと守火手たちも必死に働かなければならなかった。


 継火手が都軍にとっての最重要戦力であることは疑いなく、その彼女たちが燃えに燃えていることは、必然的に一般兵の士気をも奮い立たせた。


 すでに非戦闘員の退去も済んでおり、今やパルミラには死を覚悟した者しか残っていない。




◇◇◇




 そして、夜魔の軍勢がティグリス川東岸、パルミラ東門前に姿を現した。


 市内に待機していた各部隊に招集が掛かり、一斉に集結地点である中央島に向かう。その中には都軍の正規部隊とは別に編成された民兵隊も含まれている。


 都軍の大多数を占める兵卒は、基本的には志願兵である。しかし誰もが入隊出来るわけではなく、経歴や健康面に問題の無い十八から三十までの成人男性と定められている。あくまで志願にあたっての最低条件であり、ここからさらに振るいに掛けられることとなる。


 平時はそうして人材の質を維持しているのだが、この緊急時にあっては、正規軍の総兵力一万四千だけではあまりに心細い。実際には避難民の護衛等にも戦力を割いているため、実数はもっと少ない。


 その不足分を補う苦肉の策として、上記の条件に当てはまらない者までも兵士として募集したのである。


 民兵の大半は、従軍経験のある老人たちだった。最後の奉公として、パルミラのために余生を使い潰してしまおうという意見が大勢を占めていた。



 十五歳の志願者は、トビア一人だけだった。



 集合の直前まで、トビアは大図書館の館長室でサラやフィロラオスと時間を共にしていた。他の司書たちは貴重な書物と共に川下の街へと逃がされたが、フィロラオスは一人、館長としてこの場に残ることを決意していた。


 サラもまた、二人と運命を共にしたいと考えて、居残った。


 その時が来るまで、三人はコーヒーを片手に他愛のない話を続けていた。パルミラ中の鐘楼が鳴り響き、トビアが席を立つと、サラは体当たりするかのように彼の身体にしがみついた。



「死んじゃだめだよ、トビア」



 トビアはいささかドギマギしながらも、彼女の頭を優しく叩いた。老博士も一緒にいるのだが、これが最後になるかもしれないと思うと、恥ずかしさを押し殺して少しだけ大胆になれた。トビアはサラの淡い色の髪に覆われた頭に、軽く唇を触れさせた。


 胸の中で、サラが小さく身体を震えさせたのが分かった。髪から出た耳の先端が赤く染まっている。トビア自身も、自分の顔が風邪でも罹ったかのように熱くなるのを感じた。


「っ……それじゃあ、先生。行ってきます」


「うむ。くれぐれも気を付けてな」


 気を付けたとて死ぬ時は死ぬ。そんなことは全員分かっている。だが、老博士はそう声を掛けることしか出来なかった。


 身体を離したサラもまた、胸の真ん中に拳を当てて、強く握り締めることしか出来ない。


(……いや)



 一つ、忘れていた物があった。



「トビア!」


 扉を開けて出ていこうとしていたトビアは、彼女の声に振り返った。そして、彼女が手の平の上に影の繭のようなものを浮かべているのを見た。


 サラはその繭にもう片方の手を差し入れ、中からそれ・・を取り出してトビアに持たせた。

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