第二城郭のやや内側、すなわち上流層と下流層の間にあるサラベルジュ学院は、かつて練兵のための兵舎だった過去がある。部隊の迅速な移動を図って、地下への脱出口がいくつも設けられた。
長い年月の中でその役目は忘れ去られ、入り口のあった部屋はいつしか物置へと変わってしまっていたが、今や旧来の役目を再び果たす時がやってきたのだ。
脱出の手筈は主に教員たちが主導して行ったが、彼らだけでは到底手が足りず、年長の学生までもが動員されていた。
最上級生であるポーラは、持ち前の生真面目さでもって、その任務を忠実に果たしていた。継火手の家系でもなければ名家でもないが、それでも彼女はラヴェンナの貴族階級の出身である。こうした緊急時に貴族の一員としての責務を果たすことに、なんら躊躇いはなかった。
「焦らないで! 低学年の生徒から先に逃がすのよ!」
懸命に声を張り上げるが、混乱は一層ひどくなるばかりで、冷静に指示を聞くことの出来た者は少ない。ティアマトの影が横切るたびに金切り声を上げ、ネフィリムの投げた巨岩が遠くで砕けるたびにその場にしゃがみ込む。自分もそうではあるが、子供ばかりであるために致し方ない部分はあるだろう。
だがそれよりも格段に酷いのは、彼女や教員たちの声が耳に入っているにも関わらず、卑屈に背を丸めて地下道に入っていく上級生たちだ。ある生徒と偶然視線が重なった時、ポーラは表情に蔑みの色が浮かぶのを止められなかった。
無論、彼女も自分自身のうちにある恐怖を認めていた。怖くないはずなど無い。戦争や、それを超越した天災を前に恐怖を抱かない者などいない。自分のように学問だけに親しんできた人間はなおさらだ。
だが、それを認めてなお、この場に最後まで踏みとどまって義務を果たすつもりでいた。かつて味わったことの無い例外状況の中で、依然自分自身の芯を曲げずに保てていることを自賛したいくらいだ。
そして、そんな自分以上に立派に振舞うことが出来ているアポロに対して、嫉妬と憧憬を感じずにはいられない。
アポロもまた、自分同様に恐怖を感じていることだろう。だが、その恐怖をおくびにも出さない。競争相手として入学当初から張り合ってきた間柄だが、今の彼女といつもの彼女との間に、なんら違いを見いだせない。
冷静に観察すれば気付くのかもしれないが、少なくとも下級生たちが気付かない程度には泰然としていた。
「大丈夫だよっ、敵はまだまだやってこないんだから! ティアマトだって、こんなオンボロ校舎を狙ったりしないよ!」
何の根拠も無い発言だが、下級生たちは無条件にそれを信じた。今は事実などより、自分たちを安心させてくれる嘘が欲しいのだ。アポロはそんな生徒たちの心理をよく理解していた。
そうして声掛けを続けている彼女と、ふと視線が重なった。アポロは少し微笑んで片目をつむって見せたが、その仕草がいつもよりも若干硬いことにポーラは気付いていた。
そして一層、好敵手に対する憧憬を深めるのだった。
(あんたは、こんな時でも笑うことが出来るんだね)
自分には出来ないな、とポーラは思った。
生まれついての継火手である彼女だからこそ、こんな時でも余裕を保っていられるのか。それともアポロが生来持っている美徳なのか。それを見分けることは難しいが、いずれにせよ、自分に無いものほど輝いて見えるのが人間である。
二人の努力もあって生徒たちの避難は完了したが、それとほぼ同時に噂を聞きつけた下層民たちが学院へ殺到していた。門をこじ開け、あるいは塀を乗り越えて校庭に雪崩れ込んでくる。
「ま、待ってください! ここは学生の避難場所に指定されて……!」
「うるせえ、金持ち共!!」
ポーラの制止は、誰が言い放ったとも分からない罵声にかき消されてしまった。
半ば暴徒と化した市民が学園内の脱出口に殺到し、中に入ろうとしていた学生や教員を突き飛ばして押し入ろうとする。一旦は収まっていた混乱が再燃し、所属や身分の
押し倒され、背中を踏まれた女生徒が、骨の折れる痛みに悲鳴を上げた。線の細い男子生徒が鍛冶屋の親方に殴り倒され、親に置いてけぼりにされた児童が、綿の飛び出た人形片手にぎゃんぎゃんと泣き叫ぶ。
目を血走らせた騎士見習いの少年が、護身用の短刀で女行商の腹をめった刺しにし、返り血に濡れた手を食い入るように眺めている。呉服屋を営んでいた老婆が、脱出口に駆け込もうとしていた少女の長い髪を引き毟る。
夜魔は遥か城壁の外にいるにも関わらず、ここでは人間対人間のより凄惨な争いが現出していた。
地面に飛び散った血液は無数の靴底で踏み躙られ、悲鳴と怒声は戦闘の轟音以上に聴覚を支配する。故意か過失か街灯までもが倒されて、学院内に暗い影を産み落とした。
その暗闇の中で藻掻き苦しむ群衆の姿は、人間の理性と知性を重んじて学びを積んできたポーラに、大きな困惑と深い絶望とを同時にもたらした。アポロもまた、この手のつけようのない状況下では流石に茫然とするほか無かった。
「何を……何をやってるのよっ!!」
そんな彼女の絶叫に呼応するかのように、空からそれは落ちてきた。
片翼をもがれたティアマトが、学院の回廊に落下した。天井が崩れ、真下に密集していた十数名が夜魔の体重と落石によって圧死した。
それまで互いに相争っていた人々が瞬間的にぴたりと動きを止める。やがて、健在のティアマトが瓦礫と肉塊とを踏みしめ立ち上がると、混乱はなお一層大きなものになった。
当事者たちは逃げるのに精いっぱいである。しかし少々冷静な者から見れば、その光景は黒い竜を祭神として踊り狂っているかのような、ある種の滑稽劇とさえ思わせた。
群衆を薙ぎ倒し、踏み潰し、あるいは噛み砕きながら、ティアマトは騒乱の中心で竜巻のように荒れ狂う。
長い首が鞭のように
「継火手は何をやってるんだ!!」
無責任な誰かが、そんなことを怒鳴った。その発言そのものはすぐにかき消されてしまうが、人々の胸中には同じ考えが宿った。
「……そうだ、継火手!」
「誰かあいつをやっつけてくれ!」
「何とかしなさいよ!」
(勝手なことを!!)
ポーラは、自分の胸の内にふつふつと怒りが湧き立つのを感じた。
あの怪物に立ち向かえと言うばかりで、自分たちは我先に逃げようとする大衆。誰かが自分たちのために犠牲になってくれるのを、当然のように享受しようとする大人たち。
そんなあまりに赤裸々で破廉恥な俗人根性に、心の底から憤りを覚える。
だが何よりも腹立たしいのは、そんな怒りを抱きながらも、一歩も動けない自分自身だった。
こんな時である。騎士の家系の習いとして彼女も短剣を腰に帯びていた。
無論、そんな小さな刃であの怪物を倒せるわけもない。剣を抜いて立ち向かわない彼女を責めることなど誰にも出来ないだろう。
一般人が自分たちの手に負えない相手と戦う必要など、どこにも無いのである。
それでも、一人の少女がティアマトの前に立ち塞がった。
「アポロ!」
少し日に焼けた少女は、振り返って微かに唇を釣り上げた。無理をしているのは一目瞭然だった。
しかし毅然と前を向くと、教わったささやかな法術を唱えてティアマトにぶつける。見習いの術とはいえ天火は天火、夜魔には確かに効いた。
だが、倒しきるには至らない。黒竜の頭部を一部抉りこそしたものの、依然健在である。むしろ、敵意の矛先は完全にアポロに向けられた。
「アポロ、逃げるのよ!」
ポーラは脚を震えさせながらも、級友の腕を引っ張った。
だが、継火手見習いの少女は決然と「ダメ」と答えた。
「ポーラ、あたしは……継火手なんだよ。だから、戦わないといけないの!」
アポロの手の平に小さな火球が生じる。
同時にティアマトの長い首が、二人の少女を真上から見下ろした。
「ッ!」
アポロは咄嗟に、ポーラの身体を片手で突き飛ばしていた。そして火球を宿した手をティアマトの頭部に向け、術を放つ。
今まさに噛みつかんとしていたティアマトは、口腔の中にもろに法術を食らう形となった。顎から先が吹き飛ばされ、その箇所から灰へと変わっていく。「やっ……」ポーラはそう口走りそうになった。
だが、末期の痙攣……灰に変わる直前の右翼が、立ち尽くしていたアポロの身体を横殴りに吹き飛ばした。その光景を間近で目の当たりにしたポーラは、友人の身体が宙に浮いた瞬間、確かに頸椎が折れる音を聞いた。
アポロの肉体は列柱に叩きつけられ、大理石に血の跡を引きながらずるりと地面に落ちた。それと同時に、夜魔だったものは砂の城の如く崩れ去り、校庭に灰の絨毯となって広がった。
そして、この僅かな間に起こった、命と名誉を賭した戦いなど無かったかのように……怪物に立ち向かった者など最初からいなかったかのように、大衆は灰を蹴って逃げ惑う。ポーラを除いた誰一人として、継火手の亡骸に駆け寄ろうとする者はいなかった。
アポロの身体を抱き寄せたポーラは、最早何の色も映さなくなった瞳をそっと閉じて、その真上に覆いかぶさった。そして自分自身も強く目を瞑り、両耳を塞いだ。
もし今、少しでも他の人々を見たならば……それがたとえ誰であろうと、刺し殺さずにはいられない。自分の中で、誰に向けたら良いのか分からない憎悪が荒れ狂っている。まるであのティアマトが、魂魄だけになって忍び込んできたかのようだ。
もしラヴェンナが陥落するとしても、この行き場の無い怒りが収まるまではこうしていよう。ポーラは必死に理性を働かせて、そう思うことにした。
◇◇◇
戦場全体の目線が自然と空に引き寄せられる中、密かにその夜魔たちは舞台に脚を掛けようとしていた。
最初に気付いたのは、第一城郭を守る兵士たちである。よじ登ってくる夜魔を迎撃していた彼らは、ふとした瞬間、暗闇の中に巨大な影を認めた。
誰もが最初はネフィリムかと思った。事実、その全高は巨人と同等であり、腕もあれば脚もある。
しかし、頭部にあたる箇所が存在しない……正確には、胴体と頭部が一体化していた。首が無いのである。巨大な水風船に手足をくっつけた形とも言えようか。あるいは、蛸に人間の手足を無理やり生やしたような形とも表現出来るだろう。
兎も角、異様だった。
そして、その異様な敵が、味方などお構いなしに踏み潰しながら突進してくる。
勘の良い部隊はすぐに攻撃を集中させた。司令塔に立つイブリンもまた、最前線で起きた異変に気が付いていた。バリスタの太矢が脚と言わず胴と言わず突き刺さり、中には投石機による直撃弾、あるいは継火手の法術を食らって爆散する個体もあった。
しかし、その耐久力と突進力、そして物量は、ラヴェンナの必死の抵抗を真正面から突破した。
弾幕を抜けた一体の夜魔が、全速力のまま城壁に衝突する。石壁の一部が崩れ、足場を失った兵士たちが滑落する。だが真の被害はそれではない。
衝突と同時に、巨頭の夜魔は完全に息絶えていた。代わりにその胴体を衝撃で破裂させ、内部に詰まっていた汚泥を広範囲にわたって撒き散らした。同様のことは、迎撃に失敗した他の箇所でも並行して起こった。腐乱した果実を投げたかのように、耐えがたい臭気を放つ汚泥が家屋や城壁にへばりつく。
そして、その汚泥は見る間に夜魔の形に成形され、近くの人間を手あたり次第に攻撃し始める。巨頭の夜魔は、ある種の攻城塔のような存在だったのだ。
この一手が、第一城郭に甚大な混乱を引き起こし、それまで際どい所で耐えていた均衡を完全に破壊した。
復旧不能の大打撃であった。