目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第二〇六節/ラヴェンナ防衛戦 中】

 バシリカ城の下には、旧時代の末期に造られた様々な地下道があたかも迷路の如く張り巡らされている。かつて要塞線の中核として機能していた頃、これらの道路は兵力の移動や脱出と共に、物資の運搬のためにも使用された。


 船着き場には四十隻以上の運搬船が、万全の状態で保存されている。一隻あたりの全長は二十ミトラ、全高は四ミトラに達するが、地下水路はそれらの船さえ容易に通過させるだけの広さを誇っている。


 そのうちの一隻に、ラヴェンナ女王マリオン・ゴートは載せられていた。


 ギヌエット大臣に選抜された侍従や典医、親衛隊に属する精鋭の継火手と守火手、玉璽や王冠といった秘宝、そして必要最低限の物資を積み込んだ船は、誰よりも早くラヴェンナから脱出した。


 地下水路には親衛隊士が集結しつつあるが、彼らの出発はまだまだ先になるだろう。一般市民は水路以外の道を使って脱出することになるが、病人や負傷者は船に乗せなければならない。その案内や、残った作業のためにも、人手は必要だった。


 もっとも、船の甲板の上で身を捩っているマリオンには、そうした事情を考えている余裕など無かった。生涯味わったことの無い激痛が精神をさいなみ、ふと途切れたかと思えば、またぶり返してくる。まるでいたぶられているかのようだ、という被害妄想さえ覚えた。


 地下水路は穏やかだが、それでも些細な揺れでさえ今のマリオンにはこたえる。周囲の人々は皆殺気立っていた。自分たちは今、膨大な夜魔の真下を潜っているのだ。振動で天井が震え、小さな塵が落ちてくるたびに、親衛隊の継火手がびくりと杖を握る手を痙攣させていた。


 医師や侍従たちはなお一層慌ただしく動き回り、一刻も早く女王の身体から世継ぎを取り出そうとしている。頭上から医師の声が降り注いでくるが、マリオンの意識はぼんやりとしていた。



(……また、私は……知らないところに連れて行かれる……)



 首を傾けると、眼前に地下水路の闇が広がっていた。その闇の奥行は、継火手の天火をもってしても探り切れない。まるで自分自身の運命そのもののようだ、とマリオンは思った。


 自分の人生は、常に誰かに流されるままだ。豪華な船の上に乗せられてこそいるが、柵の外へは一歩も出られない。激流の中を自在に泳ぎ抜くような体術も知らない。無力な飾り物だ。


 身重の女を乗せたまま、船は暗闇の中を進み続ける。




◇◇◇




 交戦が始まってから、少なくとも半日の間は、ラヴェンナは優位を保ち続けていた。


 大小無数の投石機は依然として弾丸を吐き出し続け、より城壁に近い位置では弓兵や弩兵たちが敵の接近を阻んでいた。バリスタの矢は一撃でグレゴリの頭を砕き、城壁の噴射口から放たれた火炎は、へばりついた夜魔を火だるまに変えて地面へ叩き落した。


 投石機でも止めきれなかったネフィリムが、他の夜魔を踏み潰しながら突進してくることもあったが、それらに対しては第二城郭に配置された継火手たちが法術を用いて撃退する。


 開戦の時点でラヴェンナに残っていた継火手は二百人足らず。彼女たちがラヴェンナの戦力の中核であることは確かだが、それ故に決して無駄遣いは出来ない。法術の使用による疲弊を避けるためにも、ネフィリムのような大物以外は手出ししないよう厳命されている。


 逆に言えば、そうして「抑えて」戦っても持ちこたえられるような戦況であった。


「これは……勝てるんじゃないのかい!?」


 グィドが興奮したように言う。参謀たちも少し表情が明るくなっていた。


 流石にイブリンはそこまで楽観的になれなかったが、とはいえ、状況が悪くないのは事実だった。


 開戦当初はより甚大な損害を被るものと思っていたが、今のところ城内への夜魔の侵入は完全に防ぎ切れている。


(これならば……予定以上の人数を逃がすことが出来るかもしれない)


「脱出の首尾はどうなっているか?」


 イブリンは担当の参謀に尋ねた。戦闘とは全く別系統の指揮を執っていた彼は、手元に集められた走り書きの報告書を見ずに答えた。


「はっ……現在、第二城郭からの退去を進めております。複数の地下道を併用しておりますが、何分急な退去で、なかなか動きたがらない者もいるようで……」


「動こうとしない者は放っておけ。逃げる意思のある者が最優先だ。当然だが、持っていける荷物も最低限度にとどめるよう再三徹底するように」


「承知致しました。現場の者にも徹底させます」


「急いでくれ」


 避難とは、その者の生活の全てを捨てさせるということだ。それがいかな無理難題であるかは、イブリン自身も自覚しているつもりであった。


 だが、第二城郭より内側……すなわち中産階級以上の人々は、持っている物があまりに多すぎた。彼らとて自分の命は惜しいが、誰もが物事を割り切って考えられるわけではない。


 古い教訓譚に、火事に見舞われた老婆のたとえ話がある。命からがら燃え盛る家から脱出した老婆が、結局は自分の持ち物を惜しんで中に戻り、焼死してしまうという話だ。ラヴェンナ人なら誰もが小さい頃から何度となく聞かされる話だが、それでも実際に事が起こると、老婆と同じような行動をとってしまう者がいる。


 結果、この段階で若干の遅れが出た。


「逃げる気の無い者は無視して良い」という、イブリンの命令が徹底されるまでに、少なからぬ混乱が現場に生じたのである。


 混乱は遅れを生み、遅れは焦りを生じ、焦りは不安へと転じた。


 城郭の上から全体を俯瞰しているイブリンは、ラヴェンナの城壁がまだまだ健在であることを十分理解している。仮に第一城郭の上へと辿り着いた夜魔がいたとしても、それらはすぐに袋叩きにされる。今のところは何の問題も無い。


 しかし民の目線から見れば、そうではない。誰かが口走った「都軍が不利」だという言葉が、伝聞に伝聞を重ねるうちに「都軍が敗退した」へと変わってしまう。そして、より悲観的な事柄の方が広く伝播し、避難民たちは我先に地下通路の入り口へと殺到する。


 イブリン個人は非常に冷静な男だが、それ故に、他の者にも冷静さを求めてしまいがちであった。市民感情の機微まで読み取って指揮を執るには、彼はあまりにも経験が足りていなかった。


 半日以降、ラヴェンナの動きは停滞した。依然城壁を突破した敵はいないが、同時に避難活動も停滞してしまっていた。


 ラヴェンナ側にとってはもどかしい時間帯となった。そして、その膠着状態を動かしたのは、残念ながら夜魔の側だった。



「ティアマトです! 上空に多数出現!!」



 ラヴェンナの空に不吉な咆哮が響き渡る。大燈台の光の中を、黒い大きな影がいくつも飛び交っていた。さすがに平原の夜魔に比べれば数も少なく、天火の間近まで飛び込んでくることはないが、その存在は外郭を守る兵たちにとって大きな脅威となった。


 ろくに狙いもつけずに放たれた酸の弾が、家屋や人を溶かし、時には貴重な投石機さえ破壊する。直接その一本足で兵を鷲掴みにして、宙に放り投げる個体もいた。


「継火手に迎撃させろ!」


 イブリンの指示と同時に旗が翻り、第二城郭に詰めた継火手たちが次々と空に向かって法術を放つ。しかし、撃てば当たるネフィリムと異なり、ティアマトには機動力という武器がある。シムルグやユランのように機敏ではなく、的も大きいが、戦場の混乱の中にあっては飛べるという一点だけで大きな利点となり得た。


 無数の火線が空を貫く様は壮観ですらあったが、実質的な戦果には繋がっていない。敵は法術に焼かれることもいとわずに襲撃を繰り返している。継火手たちは必死にそれを防ごうとするが、必然的に平野への守りが疎かになってもいた。


 それでも直撃したり、あるいは翼をもがれた個体が墜落する例も多々あった。ほとんどは地面に激突すると同時に完全に息絶えたが、中にはまだ立ち上がるだけの余力を残した個体もあった。


 避難経路の一つであるサラベルジュ学院に墜落したのもまた、まだ余力を残したティアマトであった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?