バシリカ城の尖塔の一つに軟禁されていたハルドゥスは、夜魔の大軍勢が攻め寄せていることも、ネフィリムたちによる投石が始まっていることも、いち早く察知していた。
「始まってしまったか……」
歴史学を修めるハルドゥスは、あるいはラヴェンナで最も早く危機に気付いた人間であったかもしれない。過去の様々な災害、混乱の歴史を記憶している彼は、この異常事態の先に起こるであろうことも、ある程度想像することが出来たのだ。
だからこそ、知古であるオーディスに連絡をとり、少しでもラヴェンナに戦力を呼び戻そうとした。混乱を助長しかねない行為だと宮廷に咎められ、事実そうであろうとも考えていたが、彼に迷いは無かった。
いくつか理由はあるが、その中の一つに、救征軍に同行している弟子を案じたから……というものもある。
無論、他の指導者たちがそうであったように、彼の想像も到底現実を追い切れるものではなかった。こうして夜魔の氾濫を見た今となっては、ただただ、人間の知力の至らなさを見せつけられるのみだ。
仮にカナンたちが引き返して戦列に加わっていたとしても、この劣勢を覆すには到底足りなかっただろう。
(
オーディスならば、自分の差し出がましい行動からも、何らかの意味を読み取ってくれるかもしれない。
しかし、意図を読んでくれたとしても、それまでだ。こうなってしまった以上、どこにいる誰であろうと、出来ることは限られている。
己自身も、また然りである。
(だからこそ、やらねばならない)
先だってギヌエット大臣の使いから、ラヴェンナ脱出の誘いが来た。
危機が過ぎ去った後、ラヴェンナの政治を立て直すためには一人でも多くの読書階級が必要となる。専攻こそ歴史だが、それ以外にも多くの知識を蓄えている彼は、ラヴェンナにとって必要な人材と言えるだろう。
だが、彼はその申し出を丁重に断っていた。
それはそれで大事なことかもしれないが、歴史家を自認する以上、自分にはここで起こることを最後まで記述する義務がある。それが、ハルドゥスの下した結論だった。
「さて……」
ハルドゥスは日記を書くかのような気軽さで、机の前に座った。そこには水差しと杯、そしてかき集められるだけ集めた紙の束が、筆や墨と共に置かれている。
壁には大きな窓ガラスがはめ込まれていて、外の景色を眺められるようになっている。尖塔はかなり高い位置にあるが、城下の喧噪は容易にここまで届いている。その音の一つ一つを聞き漏らすまいと、ハルドゥスは筆を執った。
◇◇◇
グィドがイブリン将軍と共に司令塔に立った時には、すでにラヴェンナの城下で火の手が上がり始めていた。ネフィリムの投げつける巨岩が家屋を潰し、何らかの理由で生じた火災が市街地を脅かしている。建材や道路の砕ける音以上に、逃げ惑う民衆の悲鳴の方がより大きく聞こえた。
夜の闇の中にあっては、敵がどれほど大きな岩を投げつけようと全貌が分からない。大燈台の天火が照らした時には、すでに城壁を飛び越えて街の直上へと届いている。質量の塊は、真下にいるのが誰であろうと全く差別無く押し潰した。
そのあまりの生々しさに、グィドは早くも脚が震えるのを感じた。どこかに岩が落ちるたびに誰かが死んでいる。演劇や物語で描かれる死には、必ずその死を飾り立てる何かが付随するものだ。楽隊の演奏然り、語彙を尽くした描写然り……。
しかし、現実に人が死ぬ時には、当然ながら伴奏など付いたりはしない。せいぜい物質同士の衝突音が響く程度だ。そして岩の下敷きになった者は、そんな音など気にする間も無く死ぬのである。
(次の瞬間には、僕がそうなっているかもしれない)
そのむき出しの現実は、年若い王配を恐怖させた。
「将軍、早く応戦するんだ! このままじゃ何もしないうちにやられてしまう!」
司令塔に詰めた参謀や伝令、見張りたちが一斉にグィドを見やる。その表情の度合いに差はあれど、考えていることは皆似通っていた。
だが、王配とそう変わらない年齢の将軍だけは淡々としていた。冷徹に正面を見据えたまま「まだです」と答えた。
「どうして!」
「敵の方が射程距離は上です。今攻撃しても、有効打は与えられません」
努めて冷静に返したイブリンだが、内心ではネフィリムの常識外れの腕力に舌打ちしたい気分だった。幸いかどうかは分からないが、敵は投石を続けつつ前進してきている。せめて最初の一斉攻撃でネフィリムの数だけでも削っておきたい。
そのためには最も効率的な攻撃を加える必要がある。
無論、その間も城内の被害は拡大している。最も広範な平民居住区格などは、特に被害が大きくなるだろう。だが、その被害にはあえて目を瞑る。人類の居住権が煌都を主体とする以上、一度籠城戦が始まってしまえば必ずこういう事態になるのだ。
住民を護るのが軍人の役目ならば、人命を冷徹に計りに掛けるのもまた軍人だ。もとより完全など望みようもない。
「……ならばせめて、より良い結果を勝ち取るまで」
「え?」
イブリンが呟き、王配がそれに反応した時、司令塔の見張りが声を張り上げた。
「敵主力、城壁より一ミトラス(約一キロ)まで接近!」
イブリンは即座に反応した。
「第三城郭、
「了解、旗を掲げます!」
司令塔に立てられた旗棒の一つに、第三城郭へ宛てた旗が掲げられる。
広大な煌都においては、よほど詳細な作戦でも指示しない限り、いちいち伝令を走らせたりはしない。各防衛部署は司令塔から出された指示に従い、各部隊長の統率の下で行動する。
第三城郭は司令塔よりもさらに後方……すなわち、ラヴェンナの大燈台の壁面に設けられた防衛区画であり、天火に最も近い城郭でもあった。ここには十基の大型平衡錘投石機が配備されており、すなわち煌都ラヴェンナの保有する最強の防衛兵器である。
最も、同型の投石機は市街を隔てる第二城郭にも、ラヴェンナ全体を包む第一城郭にも配備されている。むしろ配備数はそちらの方が格段に上であろう。
第三城郭の投石機は、二つの理由により最強の兵器となっている。一つは、すぐ手の届く所にある天火から、炎をいくらでも供給出来ること。これにより、可燃物がある限りは、強力な火炎弾を投射することが出来るのだ。
そして第二の理由は、単純な高さである。
本来投石機は、どう頑張っても四百ミトラ(約四百メートル)程度の射程距離しか実現出来ない。しかしそれは平地に配備した場合の話であって、大燈台ほどの高所に置かれたら、当然その分距離も威力も向上する。
発射された石弾がラヴェンナの遥か上空を、火を纏って駆け抜けることから、それら十基の投石機は
イブリンの号令の下、その十基の投石機が一斉に振り子を起動させた。長大な棒が起き上がり、火炎に包まれた弾丸を投擲する。
ラヴェンナが反撃を開始した瞬間、恐怖に追われていた人々が一斉に空を見上げた。そして、古人が燈台の投石機に冠した二つ名が的確であったことを悟ったのである。
それは第二城郭の司令塔に立つグィドも例外ではなかった。先ほどまでの慌てぶりはどこへやら、ぽかんと口を開けたまま、空を走る火炎を見上げている。
「凄い……本当に流れ星みたいだ……」
「……」
夜空を斬り裂いて飛んだ炎の弾が、押し寄せる夜魔の中で次々と炸裂した。最初の十発中、二発がネフィリムを捉え、その上体を吹き飛ばした。
他の弾にしても、そもそも外しようがない。見渡す限り夜魔で埋め尽くされているのだ。ネフィリムといわず、通常型やグレゴリ、あるいはアルマロスなども問答無用で押し潰す。
第三城郭の部隊はたゆまなく装填と発射を繰り返した。次々と火炎弾が宙を飛び、ラヴェンナの平地を赤々と燃やす。しかし、一時的に出来た炎の海さえ躊躇なく踏み越えて、夜魔たちは城壁へ迫る。
「城壁より四百ミトラ!」
「第一、第二城郭、攻撃開始!」
「了解! 攻撃を開始します!」
司令塔に旗が翻り、同時に出番を待ち構えていて兵士たちが行動を開始する。第一城郭の大型投石機三十基、第二城郭の二十基が一斉に巨岩を投擲した。これらには専用弾は用いられていないが、単純な分、発射速度は第三城郭に勝る。
その威容はグィドをはじめとした一般人の目にも、心強く映った。城郭の兵士たちもまた、自らの仕事がラヴェンナを護っていることを意識し、士気を奮い立たせた。
ネフィリムが倒れる様を見ていた参謀たちが感嘆の声を上げる。イブリンは一歩下がった所で、冷静に事の推移を眺めていた。楽観的でいられるのは、今のうちだけだろう。
そんな彼に、城内から遣わされた伝令が耳打ちをした。「そうか、ご苦労」イブリンは伝令を返し、司令塔から身を乗り出すように観戦しているグィドに報告する。
「女王陛下、地下水路より脱出されたとのことです。城内の者も、順次退避が進んでいると」
「……そうか」
グィドは少し俯いた。安堵しているようにも見えるし、一方で不安がってもいる。たとえ水路を出たとしても、その後が大変だ。
一刻も早く追いつきたいというのが、彼の本音だった。だが、まだまだ戦いは始まったばかりであり、逃がさなければならない人々も大勢いる。
マリオンを総大将としての任から解き放った以上、その責務は自分が追わなければならない。
一切合切を見届けない限り、自分はラヴェンナを離れてはならないのである。グィドは己にそう言い聞かせた。