目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

【第二〇五節/グィドの岐路 下】

 マリオンの居室へと急行したグィドだが、待っていたのは案の定、彼女の怒声だった。階段を下りる前からすでに、典医や侍女たちと格闘する音が聞こえていたのだが、彼が姿を見せた瞬間その怒りは頂点に達した。


 その時彼女の口から発せられた罵声の数々は、到底書ききれるものではない。


 また、修羅場をいくつも経験してきた典医から見ても、彼女の今の状況はあまり好ましいものではなかった。出産直前ならまだしも、この段階で力を込めたところで、ただ体力を消費するだけだからだ。


 本来なら声を掛けて痛みから気を逸らせるべきだが、マリオンの慌てぶりは尋常ではない。不用意に力を入れた結果、性器を損傷して大量出血することもあるのだ。そうなれば、継火手も一般人も関係ない。


「すぐに退去して下さい!」


 典医に言われるまでもなく、ギヌエットが主君の脇を引っ張って部屋の外へと連れ出していた。閉じた扉に罵声がぶつかるが、その際「拘束具を!」という指示が飛んだのを、グィドは確かに聞いた。


 扉一枚を隔てた向こう側では、未だに騒乱が続いている。グィドはそれを前にしても、ただ立ち竦むことしか出来なかった。


「殿下……」


 今のグィドに判断を強いるのは無理だ、とギヌエットは思った。ラヴェンナがもたないとすれば、マリオンや彼にも早々に退去してもらう必要がある。


 その間、指揮は全て自分がしなければならない。


「ただちに退去命令を出させていただきます。北方の辺境伯領はまだ安全ですので、さしあたり殿下の御生家であるラヴァル家に身をお寄せください」


「……大臣は?」


 扉を見つめたままグィドは問う。それに対して、ギヌエットは淡々と「私は残ります」と答えた。


「誰かが最後まで、軍や民と行動を共にしなければなりません。それが、為政者の責務でありましょう」


「……そうか」


「女王陛下は、ああして戦っておられます。殿下もまた、生きるための戦いを」


 ギヌエットの言葉を遮るように、グィドは手を差し出した。主君を見返すと、若い貴公子もまた、同じように大臣を見下ろしていた。


 そこにあるのは、いつもと同じ、隠し切れない不安や自信の無さが滲み出た顔だった。だが、今日は少し違っていた。すぐに泳いでしまう目が、しっかりとギヌエットを見据えている。


 その中に宿っているのは、彼が今まで見せたことのない、覚悟の色だった。



「大臣、マリオンと一緒に行くのは貴方だ。ここには僕が残る」



 ギヌエットはすぐさま否定しようとした。思い詰めた彼が突拍子も無いことを言い出すのは、何も今に始まったことではない。


 だが、今日はただの思い付きではない。長年彼を見守ってきたからこそ、ギヌエットにはその違いがはっきり見て取れた。それが彼の舌を封じ込める。


「殿下、それは……」


「大丈夫。最後には僕も逃げるよ。でも、それまでに一人でも多く逃がさないと」


「ラヴェンナの全住民をですか!? それは不可能だと……」


「出来る限りで良いんだ。まだ夜魔あいつらが到着するまで、時間がある。何とか混乱しないよう、上手に脱出させてほしいんだ」


 覚悟を決めたところで、急に有能になれるわけではない。グィドの指示は曖昧で、現実味の薄いものだった。


 だが、ギヌエットはほとんど反射的に「かしこまりました」と答えてしまっていた。


 答えてから、何故そう言ってしまったのか、と自問した。そして、自分がどこかで嬉しさを覚えていることに気付いた。頼りなく、情けない王配が、初めて男としての覚悟を見せてくれたのだ。ならば臣下としては、多少の無茶をしてでもそれに応えなければならない。


「すぐに将軍を呼びましょう。敵の数は圧倒的ですが、軍の総力を挙げれば、何とか時間稼ぎぐらいは出来るはずです。その間に一人でも多く地下道を使って脱出させる……これでよろしいですな?」


「うん、それでいこう」




◇◇◇




 現実的に見て、全員を助けることは出来ない。それはグィドもギヌエットも分かっていた。


 そして、王都の防衛を担当するイブリン子爵にしても、彼らの突然の提案には大いに驚かされることとなった。唐突に大臣の執務室へと呼び出された彼は、王配グィドが一緒にいることにも驚いたし、彼らの意見がすでに一致していることにも驚かされた。


「総退去、でありますか」


 まだ三十代と年若い将軍は、古き良きラヴェンナ騎士といった風体の、いかにも堅物そうな人物だ。茶褐色の髪を、流行の真逆を行くかっちりとした短髪でまとめている。うなじで結ってすらいない。すぐに兜をかぶれるように……という姿勢が見て取れた。体格も騎士として十分な風格をまとっており、生活の不摂生などは微塵も感じられない。


 彼が防衛軍の総指揮官として推挙された時、ギヌエットは「まだこんな人材が残っていたのか」と驚いた記憶がある。


 というのも、爵位こそあるがほとんど一騎士同然の彼が将軍になれたのは、彼以上の人間が軒並みラヴェンナから蒸発してしまっていたからだ。


 思い返すだけでも情けない話だが、今やラヴェンナに大貴族と称し得る者はほとんど残っていない。「自領が心配なので」と言ってしまえば、それを引き留めることは出来ないからだ。元々、王家直轄領に五つの辺境伯領という形で構成されているだけに、何か切っ掛けがあれば、ラヴェンナ管区は簡単に分裂してしまう。


 そうした構造的弱点を、王家と白炎への忠誠という形で補っていたわけだが、残念ながら今代の女王と王配にそこまでの求心力は無いし、ギヌエットにも彼らを繋ぎ止めておくだけの余裕は無かった。


 かくして三十代の将軍が誕生したわけだが、皮肉にも、大貴族の逃走はかえって状況を良くしてくれていた。


 ラヴェンナに居座ったまま指揮系統に口出しをされるより、さっさと領地に引き籠ってくれた方が面倒が少ないし、逃がす手間も省ける。


 何より、イブリン新将軍の手腕は、初めて大役を任されたとは思えないほど鮮やかなものだった。物資の手配で手一杯になっているギヌエットに代わって、戦力の配置や防衛計画の作成を担ったのは彼である。


 流石に初体験だけあって穴はあったらしいが、彼の仕事ぶりは、踏みとどまってくれた古参兵や親衛隊、参謀たちを「その気」にさせるに十分だった。


「卿らが苦労して作り上げてくれた防衛策に、今更変更を加えるのは心苦しく思う……しかし、将軍。あの数を相手に、ラヴェンナを護り切るのは不可能であろう」


 まだ彼を見出してから日は浅いが、曖昧な希望論を展開するような者ではないことを、ギヌエットはすでに理解している。


 実際、現実主義者であるイブリンもまた、迫りくる夜魔の大群を前に防衛の不可能性を悟っていた。情報収集が可能な段階で得た数字ならば、「相当の損害を覚悟すれば何とか」と希望が持てた。


 しかし、都外の危険性が高まり斥候すら出せなくなった今、事態は彼らの想像を上回る域にまで深刻化していたのだ。


 この現象の深刻度は青天井であり、とことん考え抜いたところで、最後に待っている答えは「全滅」の二文字以外に無い。誰も責め様の無い状況であった。


「……驚きはしましたが、小官もお二人の考えには賛同致します。ですが、簡単には参りません」


 逃がすとなれば、煌都にとって有為な者から逃がさねばならない。女王マリオンは当然として、その身辺の者も同時に逃がさなければならない。


 継火手は絶対に必要な人材だが、同時に防衛戦にも参加してもらわなければならないため、どうしても後回しになるだろう。


 となると、専門的な技能を持った技術者や、ラヴェンナの内政に精通していた高級文官が、人材としては最も価値が高いことになる。


「無論、そのようなことが知れれば暴動になります。退去どころか、防衛もおぼつかなくなります」


「それは了解している。だからこそ」


「何とか上手くいかないかなぁ……?」


「……はあ」


 実直を絵にかいたような青年だが、流石にこれは無茶な注文であった。


 だが、現状最善と思われるのが総退去である以上、彼にはこれを実行する義務がある。煌都の重要性は語るまでも無いが、それも生き残る人間がいればこそである。このままでは、その人間を護り切ることさえ覚束ない。


「段階的に退去させるしかないとして、最後まで軍の士気を保つ人間が必要です。ご命令とあらば、私は最後までラヴェンナに残りますが……」


 いくら将軍とはいえ、イブリンの知名度はまだまだ低い。彼にどれほどの能力があろうと、その能力によって人心を集めているような時間は残されていない。自分が残ったところで、士気を維持するのは不可能だろう。


「いや、それは僕がやるよ」


 グィドは、少なくとも表面上はあっさりと言ってのけた。その表情を見て、思わずイブリンは居住まいを正した。ギヌエットが髭の下でくすりと笑った。


「……よろしいのですか?」


「最後の最後ってことは、もう細かい指揮もいらないような段階だろ? そこまでいけたら、あとは肝試しだよ。それなら、僕にも出来る」


 都外巡察隊を経て親衛隊に抜擢されたイブリンは、女王や王配の日頃の姿を知っている。叩き上げである彼にとって、王配グィドは、正直なところあまり良い印象の無い男だった。軽蔑せずに任務に励んでいるのは、彼自身の実直さもあるが、どちらかというとゴート家の威光と歴史に負うところが多い。


 だが、今のグィドは普段と違う。もちろん頼りなさは依然あるのだが、それとは違う何かを醸し出しているのも確かだ。


 こういう時、普段無能な者ほど贔屓目に見えてしまうのはずるいな、とイブリンは思った。


「承知致しました。大臣、すぐに優先脱出者の選別を行って下さい。小官も、徐々に城内の雰囲気を退去へと切り替えて参ります。殿下は、恐れながら兵や民の慰問を……」


 グィドが頷こうとした時、バシリカ城の外からけたたましい音がいくつも響いてきた。窓から外を伺うと、行軍するネフィリムたちが巨岩を投げつけているのが見えた。その威力は投石機と比べても遜色無い。


 イブリンは「御無礼!」と叫ぶや否や、現場へと飛び込んでいった。


「始まってしまいましたな」


 ギヌエットが緊張を滲ませながら呟く。グィドに至っては、口を開くことさえ出来なかった。


 だが、目に怯えを滲ませながらも、その拳を強く握り締めた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?