ラヴェンナ領内での夜魔の異常発生以来、ギヌエットは煌都と王権の崩壊を防ぐべく奔走してきた。
ウルク崩壊の報が舞い込んで、事態が人知を超えた深刻さに面していると知った時も、働きを止めるどころか一層奮励することを誓った。
だが、現実は彼一人の努力ではどうしようもない所まで来ている。
そもそも煌都という行政形態は、非常に危うい均衡の上で成り立っていたものだ。かつて継火手ユディトが喝破した通り、自分たちの物流は決して潤沢とは言い難い。地方の村落では、貧困はより一層顕著だ。
まず夜魔たちの活性化が起こった段階で、物流に深刻な打撃が加えられた。雪崩れ込んでくる難民保護のために貴重な兵力を割き、すでに過密気味の城内に収容する。当然、彼らを飢えさせるわけにはいかないので、兵力同様に貴重な備蓄で賄わなければならない。
限界を迎えるのは時間の問題だった。全てはカナンの救征軍出発とほぼ同時期に起きているが、二ヶ月半ですでにラヴェンナの行政機構は限界に達している。とても支援物資など送っていられない。それどころか、自分たちが明日食べる分を心配しなければならない有様だ。
二ヶ月半。一個人の時間感覚ならば長いかもしれないが、組織や物流、情報を動かす時間としてはあまりに短い。
むしろ、一切合切を手作業で切り盛りしながら、未だに都内の治安を安定させている辺り、ギヌエットの手腕は尋常ではない。事前に私財も含めた諸貴族の財産を徴収していたお陰で、城内の一般市民や難民たちに配るだけの食料を集めることが出来たのだ。
素早さもさることながら、その額も他の貴族の度肝を抜いた。売りに出された宝物の数々は、博物館や美術館を建てられるほどの量に及んだ。だが、ギヌエットは微塵も惜しまなかった。今少し経てば、それら文化財など小麦一升分の値打ちも無くなると分かっていたからだ。
もしこの動きが少しでも遅れていたら、物流の寸断も相まって城内は飢餓地獄へと変わっていたことだろう。
また、過酷な状況下ながら、嬉しい誤算もあった。グィドの存在である。
貴族の間では無能として認識されているグィドだが、一般市民からすれば依然として雲の上の存在である。数百年にわたって浸透してきた王室の権威は、彼の能力に関係なく威光を発揮した。
避難民や下層民と親しく交わり、時にはその窮状に涙を流しさえした。大貴族の出ではあるが、元々選民意識の薄い貴公子である。勘が鈍く頭の回転も良いとは言えないが、象徴としてみるなら、彼の身分不相応な優しさはかえって好ましい要素であった。
それこそ、視察のために難民の収容区画を訪れた時など、馬から降りて一人一人と言葉を交わしたほどである。それだけでも異例のことだが、親を亡くした子供たちの前で地面に膝をつき、涙ながらに神に祝福を乞うたという。
高貴な身分、ましてや王族のすることではないと、貴族の間では不評だった。だが、ギヌエットだけは密かに主君の成長を感じ取っていた。
グィドは良くも悪くも裏表の無い青年である。複雑な力関係の入り乱れる政治の場には向かないが、市井の人々から見れば非常に好印象であろう。彼が苦手とするような分野については、忠誠に篤い能吏が執り行えば良いとギヌエットは考えている。
むしろ、王が民衆の人気を得てくれるのならば、自分たちはその分伸び伸びと働くことが出来るのだ。それが王と臣下のあるべき形であろう。
(平時であれば、名君になり得る方であったかもしれん)
いくらグィドが難民たちを篤く保護しようと、実際に割くことの出来る資源は限られている。実現出来ない政策をいくら叫んだところで、それは嘘にしかならない。
だが、今はその嘘の力に頼らざるを得ないことも、一つの現実であった。少なくとも夜魔の軍勢を凌ぎ切るまでは効き目が続いてほしいとギヌエットは思っていた。
甘かった。
ラヴェンナで最も高い尖塔から、迫りくる夜魔の大群が見えたと報告が入った。
塔に登って実際にその光景を目の当たりにしたギヌエット大臣は、即座にラヴェンナ防衛の不可能性を悟らざるを得なかった。
王都の周囲には岩や遺跡の点在する丘陵地帯が広がっている。人間の目線で見れば、道路の少なさは不便に映るが、夜魔たちは道の有無など関係無く進軍する。
見渡す限り全ての丘の上に不気味な赤い光点が瞬き、揺らめきながら近づいてくる。風に乗って金切り声、あるいは錆びた金属の擦れる音、または
空には竜のような姿形のティアマトが飛び交い、月光の中からその影を投げかけている。彼らは未だに王都への攻撃を始めようとはせず、まるで城内の恐怖を掻き立てるかのように近づいては遠ざかってを繰り返していた。
咆哮が降り注ぐたびに王城のガラスが震え、女子供の悲鳴が上がった。兵士たちも表面上は豪胆に振舞っているが、彼らの戦意は流水を掛けられた砂城のように削られる一方だった。
それはギヌエット自身も同様だし、隣に立って蒼褪めている王配もまた同じだった。
比喩でも何でもなく、夜魔の軍勢は大地を埋め尽くしている。ネフィリムの数は、分かっているだけでも百はくだらない。
そんな圧倒的な大群に対して、ラヴェンナが城内に囲っている戦力は八千人程度。その中には継火手を中心に組織された親衛隊も含まれているが、これでは焼け石に水であろう。
本来ならば辺境伯領の戦力が王都防衛にはせ参じるところだが、彼らとて到底そのような余力は無い。現に五つあるうちの一つ、マニフィカ辺境伯領は陥落しており、ウルバヌス領に至っては領主不在である。
「……ギヌエット大臣。あれと戦うのかい?」
グィドの言葉はかすれていた。その響きは虚ろで、幽霊が発しているかのようだった。
だが、誰も彼を責められまい。これほどまでにありありと絶望を突きつけられれば、誰であれ同じような反応になるだろう。ギヌエット自身も、自分たちの立っている塔が音を立てて崩れ落ちる様を幻視したほどだ。
戦うべきだ、と言わなければならない。そう思っていても、ついぞギヌエットは言葉を紡げなかった。
「大臣……?」
王配の手が肩に置かれるのを感じた。ぶるぶると震えている。物見の兵士たちも二人のやり取りに注意を払っていた。
「一度、中に戻りましょう」
ギヌエットには、そう答えるのが精いっぱいだった。
◇◇◇
「総退去です。それ以外にあり得ません」
執務室に戻って人払いをするなり、ギヌエットはそう切り出した。
当然、グィドは反発した。
「ラヴェンナを捨てろっていうのかい!?」
それは王配としての言葉というより、一都市生活者としての悲鳴であった。大燈台の下で生きてきた者であれば当然の反応と言えよう。
無論、ギヌエットも生粋の都市生活者である。大燈台の放棄を考えるなど、天罰が下っても仕方がないほどの不敬だ。
だが、彼は宗教的な畏怖よりも、現実を直視することを選んだ。
「あの大群をご覧になったでしょう。ラヴェンナは到底もちません」
「そんなこと、あるものか! ここは暗黒期の混乱さえも乗り越えた大要塞なんだぞ!」
「その歴史は私も存じ上げております。しかし、暗黒期における主敵はあくまで人間。今回の敵は夜魔です。恐れも疲れも飢えも知らず、数に至っては到底把握出来ません」
「こっちには継火手がいる!」
「彼女たちも人間です。恐れ、疲れ、飢え渇き……そして掛け替えのない存在です」
「……煌都あってこその継火手だろう」
「北方の辺境伯領はまだ持ちこたえております。そこに退去させましょう」
「ラヴェンナの全住民を? 辺境伯領にそんな余裕は」
「全員を到着させることは不可能です」
今にも互いに掴み掛かりそうな距離での舌戦だった。腑抜けと言われるグィドは頑として大臣を睨み、温厚篤実と称されるギヌエットも氷のような冷徹さで王配を睨み返した。
「市民に犠牲を強いるつもりか?」
「籠城戦であっても犠牲は生じます。むしろ、判断が遅れれば遅れるほど、犠牲者は増えるのです。今ならばまだ、有為の者のために逃げ道を用意出来ます」
「有為!? 誰にどんな権利があって、それを決められると……!」
「権利ではありません。これは我々の義務です!」
「民草に犠牲を強いることがか!?」
「その通りですッ!!」
グィドは無意識のうちに、腰の剣に手を伸ばしていた。ギヌエットは主君の殺意に気付いたが、傲然と胸を逸らしたままだった。
鍔鳴りの音が響く。しかし、グィドにそれ以上のことは出来なかった。強くギヌエットを睨み付けたまま、だが、手からはゆっくりと力を抜いていく。いかに愚かと言われようと、この状況下では大臣の方が現実的であることくらいは分かる。
ラヴェンナ管区という社会は、王家を中心に優秀な選良を集めることで成立している。貴族制が果たしてその役目を担い切れているかは疑問の余地が残るが、彼らが読書階級、ひいては知識階級であることもまた事実だ。
その知識が、象徴たる王と同時に失われればどうなるか。万が一、夜魔による大混乱が収まった後も、ラヴェンナは永久に復興し得ないだろう。
そうなれば、今ここで失われる以上の人命や、文化が損なわれることになる。
(だが、そのために……!)
グィドの脳裡に浮かんだのは、生活や居場所と一緒に、親までも奪われてしまった子供たちの姿だった。真っ先に犠牲になるのは彼らだろう。
以前ならば気にも留めなかったかもしれない。だが、マリオンが臨月を目前にした今、グィドは子供という存在に対してどうしても敏感にならざるを得なかった。
もしかすると、難民たちの前で膝をついて祈った時から、こうなることを薄々予期していたのかもしれない……そんな風に思えた。あれは神に祝福を乞うと共に、民草への贖罪の祈りではなかったのか、と。
「殿下、どうか速やかなご決断をお願い致します。私めの命はいかようにもお使い下さい。何となれば、殿軍の一兵卒にもなりましょう」
「……そんな……ことは……」
グィドは扉にもたれかかり、そのまま地面に座り込んで頭を抱えた。
彼とて分かっている。こうしている瞬間も、夜魔の軍勢は一歩ずつ、確実にラヴェンナへと迫っている。王都が戦火に包まれるのは時間の問題だ。自分の迷いが、本来生き延びられたはずの者を殺してしまうかもしれない。
だが、かくも冷徹な判断を下すには、グィドの心はあまりにも弱かった。
「殿下!」
ギヌエットが詰め寄り、彼を立たせようとする。
だが、それよりも先に、執務室の扉がけたたましく叩かれた。ギヌエットが「何事か!」と声を張り上げる。
「緊急の要件以外では、来てはならんと……!」
大臣の怒りを滲ませた声に、扉の向こうの使者も一瞬気圧されたようだった。だが、すぐに気を取り直して「緊急の要件でございます!」と怒鳴り返してきた。
「女王陛下、破水されました!!」