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【第二〇四節/旋回】

 いつもなら、突風と、ユランの翼がそれを切る音しか耳に入らない高度にまで、地上の騒乱と炎の音が聞こえてくるかのようだった。


 眼下に広がるラヴェンナ管区の惨状に対して、クリシャをはじめとした操蛇族の竜使いたちは言葉を失っていた。


 目に映る範囲で、地上に穏やかな光は一つも残されていない。街という街は燃え盛り、混乱に乗じた闇渡りの焚く野蛮な焚火が平野に点在していた。そして、そうした破壊が過ぎ去った後には、完全な闇だけが残された。


 夜魔や盗賊の襲撃を恐れた人々は息を潜めているのだろう。完全な闇に慣れていない人々では、王都を目指すことも出来ない。クリシャは何度も、そうした人々を見つけて先導すべきかと思ったが、為すべきことをおざなりにすることは出来なかった。


「……ここまで見れば、もう明らかだな」


 鞍に取り付けていた槍を掲げて、先端に天火を点灯させる。


「全騎、反転だ! 急ぎ本隊に合流する!」


「お、おいクリシャ! まだ物資の受取も出来てないんだぞ!」


「言ってる場合か? 状況を見てみろ、ラヴェンナに俺たちを助ける余裕は無い。今は一刻も早く、カナン様にこのことをお伝えするんだ!」


 伝えてどうするのか、ということまでは考えなかった。事態は自分たちの想像の範疇を大きく超えており、到底手におえるものではない。無論、カナンであっても何も出来ないかもしれないが、それでも自分よりはマシな判断が下せるだろう。


(だが、この規模の災厄……ラヴェンナだけで起きてるはずが……)


 彼女の思考を遮るように、隊列のうちの一騎が声を上げた。南西の方角を見ると、そこに他の暗闇とは明らかに異質な空間が広がっていた。


 暗黒の直線は遥か西方から、ラヴェンナの領土を貫いて辺獄へと向かっている。黒煙のように重く揺らいでいるその暗闇から、這い出るように次々と夜魔たちが姿を現してくる。


「こいつは、思った以上に大ごとかもしれないな」


 最悪、無着陸で飛ぶことも覚悟しなければならない。


 もしあれが西から東に向かって伸びているのであれば、それがぶつかる先にあるのは救征軍だ。とてもエデンの征服どころではない。一日、否、一時間でも先に接触して危機を知らせなければならない


 だが、クリシャがヴォイチェフを反転させようとした時、眼前の闇を突き破っていくつかの影が飛び出してきた。月明かりに照らされたそれらは、いずれも竜に近い姿形をしているが、竜使いとして絶対に同列に並べたくない醜悪さを纏っていた。


「……ティアマト!」


 ヴォイチェフが喉を鳴らす。温厚なには珍しい、敵意そのものの声だった。


「お前ら、先に行け! 何があっても絶対に止まるなよ!!」


「クリシャ、どうする気だ!?」


殿しんがりをやる!」


 同胞たちが止めるのも聞かず、クリシャはヴォイチェフを突進させた。


 灰色の髪を首に巻きなおし、槍の手応えを確認するように手の平の中で握り直す。元来継火手は祭司としての役割が強い存在だが、ことクリシャに関しては、戦士としての気質の方が強く表れていた。


 遠征に際しては後方の補給部隊を任され、その護衛に従事し続けてきた。飛行型の夜魔は滅多に現れないため、ここに至るまで本格的に戦闘を行うこともなかった。だが、それは彼女が軽視されていたからではなく、むしろ一騎当千の戦力にあたると判断されたからである。


 オーディス・シャティオンは前回の遠征を通じて、補給の重要性と困難とを知悉していた。彼にとって竜を使った連続輸送こそが戦略の肝であり、それが可能だと確信させたのが、クリシャの武力なのである。


 彼からそれだけの信頼を寄せられていることを、クリシャは心強く思っていた。竜という、使い方次第で大きな脅威となるものを操れるだけに、操蛇族は長くラヴェンナ管区から危険視され続けてきた。


 その偏見を一切持たずに接してくれたのがエマヌエルであり、彼女の騎士であったオーディスもまた、同様の態度を自分たちに対してとってくれた。彼女はそのことを強く感謝している。


(だから……貴様を疑いたくない)


 オーディスは、ラヴェンナがこのような事態に陥っていることを気付いていたのではないか……クリシャの中に、そんな疑念が生じていた。


 もしそれが真であるならば、自分だけでなくカナンの、引いては救征軍全体に対する裏切りになりかねない。


 胸中にたれこめた暗雲と入れ替えるように、クリシャは薄い空気を目いっぱい吸い込んだ。すでに敵は、その不気味な赤い眼球が見えるほどの距離まで近づいている。



「……っよし! 見せてやるか、竜使いの戦いを!!」



 竜のヴォイチェフが咆哮する。それに合わせて、クリシャは詠唱を開始した。



「天を去られし神に誉れの歌を捧げん。

 誉れの輝きが太陽に並び立つ神よ。

 敵に手強てごわく 我らを護り給いし神よ。

 その御手の光を つかさたる我に委ね給え!」」



 右手に握り締めた槍が爍々しゃくしゃくたる炎に包まれ、その長さを変じる。まるで戦列歩兵の持つパイクのような、過剰とも言えるほどの長さに達すると同時に、クリシャはそれを高く掲げて回転させた。


 炎が長槍の端から順に千切れ、空中に飛び散る。すると、一つ一つの火の玉が、意思を持っているかのようにティアマトへと殺到した。


 ティアマトは強力な夜魔だが、それはあくまで歩兵の目線での話である。同じ飛行可能な相手が、しかも法術を使える場合、飛べるという利点が弱点へと変貌する。


 現に、彼女が放った火球はさして強力なものではなく、誘導も甘いが、その物量によって着実に敵の翼をもぎ取っていった。


 それでも倒せたのは一部のみである。ティアマトは瘴土の中から次々と飛び立ってくる。


 今まさに襲い掛かろうとしていた一群に向けて、クリシャは火槍を薙いだ。その軌道に沿って半月型の炎の刃が飛び、四体のティアマトをまとめて斬り裂く。


 また、上空から急降下して酸を吐き出してくる敵に対しては、手綱を巧みに操って回避し、返す一撃でその腹を穿った。


 ヴォイチェフが唸る。頃合いを見計らっていた別のティアマトが、真下からナマズのように大きな口を開いて急上昇していた。


「ヴォイチェフ!」


 手綱を引く。同時にヴォイチェフが大きく翼をはためかせて飛び退き、お返しとばかりに敵の頭を蹴り潰した。


 継火手クリシャの戦いに、特別な法術など必要無い。目まぐるしく状況が変化する空中で、しかも竜まで操らなければならないのだ。地上ならば護衛の後ろに隠れることも出来るが、立体的な空間では防御そのものが困難となる。とても詠唱などしていられない。


 ならば、最初に戦闘に使う分だけの天火を引き出し、状況に応じて使い分ければ良い……それが彼女の導き出した答えだった。


 無詠唱で様々な形に天火を変化させられる反面、一撃当たりの威力や精密さはどうしても欠けてしまうが、竜に乗っているという利点がそれらを容易に打ち消してくれるのである。


 術者に求められる判断力と技量も並大抵ではないが、クリシャはヴォイチェフと共にそれらを全て満たしていた。



 その強い天火に引かれるようにして、瘴土からより大きな個体が姿を現した。六本もの首を備えた巨大なティアマト。もしイスラやカナンが居合わせていたら、彼女に注意を呼び掛けたかもしれない。



「上等だ……!」


 だが、クリシャは手綱を握った左手で軽く相棒の背中を叩くと、六つ首の魔竜に向かって真正面から突撃した。

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