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【第二〇三節/「運命の至る場所へ」 下】

 自身の天幕の中で、オーディス・シャティオンは一人、敷物の上に座り込んでいた。


 低い天井で、小さな灯火が揺れている。その光に照らされたささやかな花冠を、彼はじっと見つめていた。


 転移門の向こうから帰ってきたイスラが、カナンと共に辛うじて持ち帰ってこられた物。彼は一言だけ「あんたの継火手の墓に飾られていた」とだけ告げた。


 花冠を飾っている小さな白い花は、ラヴェンナの王女へのはなむけとしてはあまりに素朴なものだ。だが同時に、在りし日の彼女の姿を思い起こさせもした。


 そうして脳裏に浮かび上がってくる姿の一つ一つが、余計にオーディスの心を削ぎ取っていく。イスラが嘘をつく理由など何一つない。これは紛れもなく、エマヌエル・ゴートの死を証明するものだ。


「……エマ」


 生きている、とは思っていなかった。彼の中の理性的な部分は、エマヌエルの生存などあり得ないと常に訴え続けてきた。


 しかし心情の部分、理性的でない部分は、どうしても「死んでいる」と思いたくなかったのだ。いくら「死んでいる」と口で言ったところで、心の奥底ではそれを否定したがっている自分がいた。そして、そんな自分を野放しにしてもいた。


 人なら誰しも抱いてしまう感情だ。その程度の未練を持っていたとて、誰にも責められはしないだろう。


(分かっていたことだ。だからエマに永遠の命を……)


 王の二つの身体。


 滅びるべき自然的身体と、不滅の政治的身体。


 前者が損なわれた以上、自分が彼女に命を与えようとするならば、後者に血を注いで巡らせるほかない。


 救征軍はそのための最上の器だ。この遠征が成功すれば、エデンという新天地と共に、エマヌエルの思想は比類ない耐久性を得る。少なくとも、自分の生が終わるよりは長生きするだろうし、そうならしめるために余生を注ぎ込むつもりでいた。


 交易路を行き交う小隊の隊列、清潔で閑静な街並み、聖堂に響く祈りの歌声……その全てが、エマヌエルのもう一つの身体としてこの世に残り続けるのだ。たとえそこに安置されるのがカナンの偶像であろうと構わない。


 もとより、全てはエマヌエルの願いから発したこと。その願いによって生み出されたものが、生まれては死んでいく人々の拠り所として残り続ける。



 その枠組みは、まさしく地母神そのものであろう。



 だからこそ、エデンは祈りの果たされる地でなければならない。聖なる願いに与えられるのは、聖なる土地でなければならない。



 断じて、悪しき者共の蔓延る地であってはならない。



「もし、そこに悪が蔓延っているならば……!」



 もしこの部屋の中に鏡があったならば、オーディスも自身の言動の怪しさに気付いたかもしれない。あるいは他に誰かが見ていたならば、彼の非合理的な部分が、理性の仮面を内側から突き破ろうとしていることに気付いたかもしれない。


 だが、誰もいない。オーディス自身ですら、まるで乗っ取られたかのように、己の不安定さに対して無自覚になっていた。


「シャティオン卿、よろしいですか?」


 天幕の外からギスカールの声が聞こえた。オーディスは、自分でも完全に無意識のうちに、狂相を内側へと押し込めていた。長年にわたって無理やり精神に刷り込まれた、彼の歪な習性だった。天幕から姿を見せた時にはすでに、誰しもが知っているいつも通りの彼がいた。


 興奮冷めやらぬ様子のギスカールは、そんな冷静な彼を前にして、やや落ち着きを取り戻す。そして若干震えながら報告した。



「斥候の操蛇族より報告です……エデンに光が認められる、と」




◇◇◇




 救征軍の一般兵や難民たちが、初めてエデンの影を捉えたのは、ディルムンを出発してちょうど一日が過ぎた時だった。


 ディルムンとエデンを結ぶ道は、かつて軍勢を通すための大街道だった。おだやかな丘陵が波のように連なっているが、そこに築かれていた道はとうに荒れ果てている。その一際高い丘に差し掛かった時、地平線に小さな光を戴く燈台の姿が見えた。



「エデンだ」



 誰かが、あるいは誰もがその名を呟いた。


 その塔は天を突くように高い。他の煌都など到底比べ物にならない威容を誇っている。麓からいただきに向かうにつれて細くなっており、その外周には螺旋を描くように城壁が配されているのが分かる。


 頂上は開放型になっており、遮光壁のようなものは認められない。崩れてしまったのか、あるいは最初から存在しないのかは、ここからでは分からなかった。


 この間も操蛇族による偵察は続けられたが、何が待ち構えているか分からない以上、エデン直上に向かうことは禁じられていた。分かっているのはせいぜい、塔の光が燈台ほどには明るくないこと、従って市街地の様子も分からないこと。



 そして、エデンの後背に海が広がっていること。



 その話を耳に挟んだ時、イスラはぽつりと「海か」と呟いた。脳裏にカナンとの会話が甦った。


(連れていくつもりだったのにな)


 肩透かしのようなものを感じながらも、イスラは人ごみをかき分けてカナンの元に向かった。見つけるのはそう難しくはなかった。馬車の屋根の上で、蒼い天火を輝かせている。


 馬車の屋根に登ろうとした時、ふとペトラに言われたことを思い出した。


「俺に欠けているもの……」


 その答えが分からないまま、イスラは腕にぐっと力を込めて身体を持ち上げた。


 屋根の上で杖を掲げながら、カナンはじっと前方を見つめていた。イスラは声を掛けようかと思ったが、一瞬、思いとどまった。今の彼女がどんな表情をしているか、手に取るように分かった。


(そんな顔をさせたくて、ここまで来たんじゃない)


 最初はカナン一人の夢だった。彼はそんな彼女の夢の辿る道を見届けたいと思っていた。そうこうするうちにいつしか、エデンにたどり着くことは自分たち二人にとっての夢へと変わっていた。


 もしエデンに美しい幻想を抱いたまま来ていたら、今頃一緒に抱き合って踊り狂っていただろうか。流石にそれは無いな、と思うものの、同時にそうであったら良かったとも思う。


 しかし現実とはこんなものだ。そういう風に、彼の中の冷笑家が囁く。美しい夢は裏切られる、人道は踏み躙られる。お前はそんな光景を何度も目にしてきただろう? と。


 だが、そんな難癖を真に受けるには、自分はあまりにも長くカナンと居過ぎた。イスラにとって、カナンの存在こそが、人間の性悪説を否定する証拠そのものだった。


「カナン」


 彼女が振り返る。思った通りの顔をしていた。険しく、深刻で、いつもの明るさなどどこかに置き忘れてきたかのような表情。当然、口元に笑みなど無く、どこからも喜びの感情は見て取れなかった。


 代わりに伝わってくるのは、彼女の緊張、不安、疑念、そして冷え冷えとするような怒り。自分に向けられているわけでもないのに、イスラは自分の心が激しく揺さぶられるのを感じた。


 やがて、心の揺動の正体が悲しみに起因するのだと自覚した時、余計に胸がざわついた。


 カナンの笑っている姿に慣れ過ぎていたのだ。



「……とうとうここまで来たな」



「ええ。来てしまいました・・・・・・・・



 息が詰まりそうだった。あのカナンが……よりにもよって、自分をこの旅に連れ出した当人が、こんなことを口にする。しかしイスラの中に怒りは湧かなかった。自分自身の憤りなど些細なものだ。



 お前がそんな顔をするな。そんな言葉が、喉元にまでこみあげてきた。だが、カナンの冷め切った表情が、その言葉を押しとどめてしまう。



 確かに、今のカナンに向かって「守ってやる」と言ったところで、言葉が上滑りするだけだろう。



(じゃあ、俺はどうすれば良い?)



 馬車の周囲では難民や兵士たちが手を叩いて喜んでいる。伝説の煌都を目の当たりにしたという歓喜と興奮。そして、長く辛い旅に終止符が打たれることへの希望。


 そんな重過ぎる期待が、四方八方からカナンを突き刺している。どこにも逃げ場など無い。本来なら守り慈しむべき人々が、小舟を取り囲む鰐のような存在に変わっている。そして、真面目過ぎるカナンは、人々をそのような存在として捉えることを頑として拒む。意識の中に浮かび上がろうものなら、すぐにでも忘れ去ろうとする。


 そうして不安を抱いたまま、得体の知れないものが待ち構えているエデンへ踏み込んでいかなければならない。


 そして、今よりも更に残酷な真実を知らされるのかもしれない。



 そんな彼女に対して掛けるべき言葉を、イスラはついに見つけられなかった。



「……部隊に戻る」


 カナンはエデンを見据えたまま、小さく頷いた。


 人の流れに逆らって歩く途中、ふと、パルミラに居た頃のことを思い出した。血の呪いに苛まれ、もう少しというところでカナンから逃げ出した時のことを。今感じている惨めさは、あの時覚えたものによく似ている。


(だとしても、やることは変わらない)


 イスラは自身にそう言い聞かせた。


「俺が護る……何があっても」


 人々のざわめきの中では、彼の呟きは簡単にかき消され、彼自身の耳にすら入らない。


 たとえカナンがあのような状態だとしても、イスラの中に据えられた決意はいささかも揺らいではいなかった。カナンを護ること、それは彼にとって絶対の誓約だ。何が何でも成し遂げなければならない。



「でも、本当にそれで良いのか……?


 それだけ・・・・で、本当に良いのか?」



 自分の中には確固たるものがある。だが、それだけでは何かが足りないのかもしれない。


 それが分からないままエデンに踏み入ろうとしていることに、イスラはしこりを感じずにはいられなかった。

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