カナンは救征軍の幹部のみを集めて、あの転移門の向こうで見たこと、起きたことを語った。
カナンやイスラにとって衝撃的であったのと同様に、他の面々にとっても大きな困惑となった。特に、継火手であるヒルデに至っては、話の途中で一瞬気を失いかけたほどだ。
それでも、顔面蒼白になりつつ最後まで話を聞き続けたあたり、辺獄に入る前よりも遥かに気丈になったと言うべきだろう。
「……俄かには信じ難い話ですな」
ゴドフロアが唸った。今の今まで戦塵に塗れて戦い続けてきた彼だが、戦闘による疲弊などより遥かに疲れを覚えていた。老境に差し掛かっている分、それまで信じていた常識を裏切ってしまうような真実は、なかなかに受け入れ難いものだった。
「しかし、事実です」
カナンは呟くように言った。他人に聞かせるというより、自分自身に言い聞かせるかのようだった。
カナンの顔色は依然として悪く、何より目に力が感じられない。天火の残量が云々、など関係なく、もっと重大なものが彼女に圧し掛かっていた。
そんなカナンを見て、ペトラは口を開こうとしたが、何を言うべきか見つからない。そうこうするうちに、アブネルが話題を前に進めた。
「俺としては、
だが、これはここだけの話として仕舞っておくのが無難だろうな」
誰からも積極的な肯定は出なかったが、かといって否定した者もいなかった。抱え込むにはあまりに重過ぎる秘密だが、下手に漏らせば全軍の崩壊に繋がりかねない。
「……それで、これからどうする?」
アブネルはカナンに問うた。彼自身も自分の役柄ではないと自覚しているが、オーディスは何も言わず、ペトラも口を閉ざしたままだ。そういう時は、一番鈍感な自分が切り出すしかないだろう、という責任感があった。
カナンは、さすがに少し躊躇ったようだったが、結局採れる道は一つしかない。
「進みます。せめて、エデンにある物を確認しないと、道は拓けません」
その言葉もまた、積極的な肯定は得られなかった。だが、先ほどと同様に、力強く否定出来る者もいなかった。
今まで黙っていたオーディスが、この時になってようやく口を開いた。
「そうですね。ディルムンとて絶対に安全とは言い切れません。
それに、まだエデンがどんな場所かも分からない。一縷の望みを掛けてみるのも良いでしょう」
「……では、警戒を厳にしつつ、交代で休息と出発準備を始めて下さい」
方針が纏まり、各人が動き出す間も、ペトラはカナンに掛ける言葉を探し続けていた。
だが、結局何も言えないうちに、カナンは次の仕事を捌くべく出て行ってしまった。ペトラにはそれが、多忙さの中に身を置くことで痛みを軽減しようとしているようにしか、見えなかった。
◇◇◇
会議が行われている間も、夜魔の襲撃は散発的に続いていた。イスラはカナンが目覚めるのを待ってから戦場へととんぼ返りして、ひたすらに夜魔と斬り結んでいた。
アブネルから半ば強制的に休息させられるまで、どの程度の敵と戦ったか憶えてもいない。
水が染みてはじめて、そこかしこに傷を負っていたことに気付いた。
「おい、イスラ。大丈夫か?」
サイモンやザッカスからも心配されたが、イスラはいつも以上にぶっきらぼうに「ああ」と答えるだけだった。
「俺は平気だ」
イスラが弱音を吐かない男であることは周知の事実だが、それにしても今の彼は、どこか常軌を逸しているように映った。
戦場には
だが、今の彼は剣を抜いていないにも関わらず、普段滅多に見せないような危うさがあった。まるで、杯の縁まで注がれた葡萄酒のようで、見る者が見れば明らかにおかしいと分かる。
だが、イスラがそんな有様だからこそ、ペトラはごく自然に彼に近づいて行けた。むしろ、行くべきはカナンではなく、イスラだったのだと思った。
「ちょっとついておいで」
イスラは何か言いたげだったが、ペトラは強引に彼のズボンの裾を掴み、人気のないところまで引っ張っていった。人払いをしてくれたサイモンに目配せする。サイモンは声は出さず、口の動きだけで「頼む」と伝えた。
ディルムンの城壁の周囲には、他の煌都にも見られるように民家がいくつも建てられていた。今となっては風化して屋根も崩れてしまっており、いつ倒壊してもおかしくはない。
その分、込み入った話をする場所としてはこの上なく適当な場所と言えるだろう。
ペトラは、転がっていた石材の上にちょこんと腰を下ろした。イスラは壁際にもたれかかり、腕を組んでいる。
「カナンから聞いたよ、例の話」
彼女がそう切り出しても、イスラは「そうか」と呟くのみだった。
だが、服の袖はあちこち破れ、流れた血が点々と染み付いている。それに対して平然としていること自体が、彼の異常を物語っていると、ペトラは思った。
「大丈夫かい、あんた」
他の者がしたのと同じ質問を、ペトラもまた繰り返していた。イスラの返答は変わらなかった。
「……途方もない話だと思うよ。それに、エデンがあたしらの期待したような場所じゃないかもしれないってのも、正直言えばがっかりだね」
「ああ」
「あんたは、迷ってないのかい?」
「迷う理由なんて無いよ。あいつの先祖が何だろうと、そんなことはどうだって良い。俺のやることは決まり切ってる」
「あんたらしいね」
彼のそういうはっきりした所は、ペトラも好感を持っていた。
だが、今の彼は何もかもを割り切って考えすぎているように思えた。それは美点の一つかもしれないが、常に何もかもを割り切っていれば良いというものではない。
会話が一旦途切れた。
遠くからは、難民や兵士たちが慌ただしく行きかう音が聞こえてくる。長年沈黙の中に取り残されていたディルムンの街並みに、少しだけ血が通ったかのようだ。
そんな、取り残された遺跡と生きた人々の対比は、ペトラに大坑窟での日々を思い出させた。
見捨てられた古代の遺物をめぐって、モグラのように穴を掘る毎日。決して楽しい場所ではなかったが、彼女にとっては生まれ育った空間だ。岩堀族の一生は普通の人間よりもやや長いが、恐らく事切れるその瞬間まで忘れたりはしないだろう。
「……ねえ、イスラ。そう言えば、あんたとこうして腰を据えて話すのって、なかなか無かったよね」
「そうだな」
考えてみれば、自分はカナンの補佐に徹していることがほとんどで、最前線にいるイスラと言葉を交わす機会は少なかった。もちろん距離を採っていたわけではないのだが、こういう風に改まって話をするのは初めてのような気がする。
「じゃあ、これも話してないかな。あたしに旦那さんがいたってこと」
さすがにイスラが目を見開いた。これは完全に初耳だ。
だが、ペトラは見た目こそ童女だが、実年齢は自分やカナンの倍以上である。すでに配偶者がいても何もおかしくはない。
「ま、旦那さんって言ったって、夫婦でいられたのはほんのちょっとの間だったんだけどね」
ペトラは小さく肩を竦めた。気軽な仕草だが、言葉の端に微かに宿った哀愁や、どこか寂し気に細められた眼差しは、確かに成熟した女性のものに違いなかった。
「その人は……」
思わず口について出てしまったが、言った直後にイスラは後悔した。ペトラは特に気にした様子も無く「分かるだろ?」と苦笑した。
「張り切り過ぎちゃったのさ。それで、あたしが跡を継いだってわけ」
「……悪い」
「良いさ。もうずっと昔のことだよ。いい加減、
……あたしらも若かったんだろうね。窮屈な世界で生きていくことに飽き飽きしてた。抵抗組織に身を投じたのだって、自分たちの目で、自由な世界を見てみたいって思ったからさ」
ペトラは空を見上げた。辺獄の濃い闇に遮られても、月光だけはなおも輝いて見える。
「お前を外に連れ出してやる、こんな世界から解き放ってやる、って息巻いて……もちろん、それはそれで嬉しかったよ。いや、あの頃は、それだけで満足してたっけ」
「……」
「でも、あの人を喪って初めて、それだけじゃ足りなかったって気付いた。大きな大きな悔いが残ってたのさ。それを取り返そうにも、もうどうしようも無い」
「……大きな悔い、って何なんだ?」
知らず知らずのうちに、イスラは少しだけ身を乗り出していた。
だが、ペトラは「やっぱまだ分かんないか」とだけ呟いた。椅子替わりの石材から腰を上げて、お尻を軽くはたく。「おい」と焦れたイスラがせっつくが、ペトラは肩を竦めた。
そして、下からイスラの金色の目をじっと見上げる。そこには、普段滅多に見せることの無い強さと力が込められていた。イスラでさえ、やや圧倒され、何も言えなくなった。
「イスラ。あんたはそれを自分で見つけなきゃいけない。
そうでないと、いつかあんたは壊れてしまうだろうし、カナンと一緒に居続けることだって出来なくなるよ」
「俺が……壊れる?」
ナリを見てみなよ、とペトラは言った。その通りに自分の身体を見下ろすと、確かにぼろぼろに傷ついていた。
「っ、でも俺は……俺だけは……!」
ペトラは、イスラが差している明星の柄を軽く抑えた。真下から見上げられている形だが、イスラには見下ろしているという感覚が全く湧かなかった。
「一度、よぅく考えてごらん。最後の最後にあの子を救えるのは、あんただけ。
でも、その時に意味を持つのは、きっと力とは違うものだと思うよ」
そう言い残すと、ペトラはイスラを置いてその場を立ち去った。
自分の言葉選びに、間違いは無いと信じている。今のイスラに必要なのは、カナンを護る力でもなければ、犠牲を払おうとする決意でも、先陣を征く勇気でもない。そんなものはもういくらでも持っている。
そして、彼に欠けているものこそ、彼が今最も見出さなければならないものなのだ。
「大丈夫。あんたならきっと分かるよ」