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【第二〇三節/「運命の至る場所へ」 上】

 見上げると、あの白く輝く薔薇のようなものが、天高くに浮かんでいた。天井に刻まれた彫刻などではない、いつか来たこともある、あの不可思議な空間。


 戸惑いこそすれど、最初ほど驚き惑うことも無くなった。カナンは自分が裸のまま宙に浮いているのを確認した。当然だが、イスラはいない。


 代わりに、シオンがいた。


 彼女は最初からカナンの方をじっと見つめていた。表情こそ柔らかいものだが、生気や意思は感じられず、その姿がただの残光に過ぎないのだという事実を明確に物語っている。


 シオンは静かに片手を差し出した。その指先から順に、銀色の光の粒となって崩れていき、カナンの胸の中心へと流れ込んでくる。身体の全てが崩壊して消える直前、少しだけ彼女が口元を緩めたように見えた。


「シオン……」


 カナンは自分の中で、今までとは違う何かが確かに息づいているのを感じた。それは意識しないと見失ってしまいそうなほどに小さい光だが、カナンを支える力の一つとして、確かに自分を支えてくれている。


 だが、二つの異なる天火が合一したことによって、これまでとは違う性質が現れたのかもしれない。こうして、今自分がこの不可思議な天空に浮かんでいることこそ、その証明ではないだろうか。


(寝るたびにここに来るなんて、ぞっとしないけど……)


 何度来ても、見ても、同じ感想しか抱けない。あの光る薔薇は確かに美しいと思うが、あまりに遠く高すぎて、手を伸ばそうという気すら起きない。ただ凍えるような孤独感だけが残る。


 帰らなければならない。


(本当に?)


 その疑問は、何の前触れもなくカナンの胸中に現れていた。


「っ、私は何を……何を……」


 己を叱咤しようとする言葉は、だんだんと尻すぼみになっていった。


 改めて、知ってしまった数々の事実が、重石となって彼女の背中に圧し掛かっていた。


 自分が人間ではないということ。人為的に創られた、人を支配するための存在だということ。


 エデンは必ずしも自分たちの望むような場所ではない。そこで、今ままで知った以上に残酷な事実を突きつけられるかもしれない。


 イスラはそれでも良いと言ってくれた。共にエデンの真実を目にする覚悟も固めてくれている。その決意を疑うつもりは、カナンには毛頭無い。



(でも、他の人たちは?)



 自分とイスラだけなら、それで良いかもしれない。


 だが、自分の後ろには、エデンという楽園への希望を信じた人々が、何千人と続いているのだ。彼らはそこが救済の地であると信じ、それのみを頼りに生きようとしている。


 エデンがどんな場所かは分からない。分かっているのは、そこがかつて世界の中心と呼ばれたことくらいだ。魔導によって、神の怒りを買うほどに栄えた帝国の中枢。


 間違いなく、最初に燈台が建設されたであろう場所だ。現にディルムンにも燈台があり、市街の明かりを復旧させることにも成功した。それと同じことがエデンでも出来るならば、難民たちの新たな拠り所になる……。


 そんな目論見が、根底から覆されてしまうかもしれない。


(……でも、それは最初から有り得たこと)


 エデンが居住可能か否か、ラヴェンナで議論していた時点でさえ不透明だった。上手くいかない可能性も、カナンは常に考慮していた。もし居住が不可能だとしても、何かしら煌都側と交渉材料になりそうなものを見つけられる可能性は、十二分にあったのだ。


 だが、ここまで見てきたものに対して、すでに自分の想像力は追いついていない。エデンには、それこそ目もそむけたくなるほど禍々しいものが潜んでいるかもしれないのだ。


 そんな所に、難民たちを連れて行って良いのか?



「お前の綺麗事も、どうやら限界に達したようだな」



 不意に響いてきたその声は、確かに聞き覚えのあるものだった。


 だが、あろうことかこの空間の中で、その声を耳にすることがあろうとは、カナンも思っていなかった。


 振り返ると、そこに黒々とした炎の塊があった。背景には闇が広がるばかりだが、その炎は、闇とはまた異なる黒さを煌々と発している。カナンにとって、その暗い光もまた、忘れ得ぬ強烈な記憶として残っていた。


「……ベイベル?」


 黒炎が女の形に変化する。彼女の顔も肌も、少しも見えない。ただ人の形をした火柱としてのみそこに在る。しかし、その声や発する雰囲気は、まぎれもなくベイベルのものだった。


「どうして貴女がここに……それに、私のことが分かるのですか?」


 ここでは何が起きても不思議ではないが、全く驚かずにいることは出来ない。それでもカナンは、ベイベルの形をした火柱に向かって冷静に問いかけていた。


 火柱が「ふん」と笑う気配がした。


「分かるものか。お前がわらわを地の底に封じたせいで、妾にとって世界はより一層遠いものとなってしまった」


「……」


「だが、お前はここにいる。恐らく初めてではないのだろう? 妾と同じ、特異な天火を持つお前なればこそ、ここにたどり着くのは必然であろうな」


「……どういう意味ですか?」


 ベイベルの笑い声が虚ろに響き渡った。


「答える義理は無いな。せいぜい悩むことだ。

 どれ、エデンの近くに……真実の近くにまで来ているのだろう? お前は知りたいはずだ。妾と同じ……己の存在を世界に問うてきたお前ならば、その欲求に蓋をすることなど出来はすまい」


 カナンは沈黙した。ベイベルの言う通り、真実を恐れる一方で、それを知ってみたいと思う気持ちがあるのも確かだからだ。


 だが、そんなものは所詮、自分一人の身勝手に過ぎない。


「……逡巡するのであれば、勝手に惑っていれば良い。どの道、運命は必ず追いついてくるのだ。妾がそうであったようにな」


 火柱が激しく燃え上がり、ベイベルの影は炎の中に呑み込まれた。黒い閃光はカナンすらも覆いつくし、輝く薔薇のふもとから、彼女を取り去っていた。




◇◇◇




 気が付いた時には、天幕の天井で揺れる灯火に変わっていた。


 起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。何とか視界を巡らせるが、天幕の中には見知った自分の持ち物があるばかりで、他に人影は無い。


 外で誰かが焚火をしている。いくつかの人影が天幕に映し出され、揺れていた。


(帰ってきたんだ……)


 そう思うと、安堵の溜息が漏れた。疲労は溶けた鉛のように身体の奥深くまで染み込んでいるが、寝汗から来る不快感もまた辛かった。誰かを呼べばすぐに駆け付けてくれるだろうが、その前にしばらく、一人きりでいる時間が欲しかった。


 頭の中には、あの空間でベイベルと行ったやり取りが渦巻いている。あれは本当にベイベルだったのか、自分は本当にあの場所に行っていたのか、それとも一切が夢だったのか……。


(考えても、分かるわけがない)


 カナンはふと自分の胸の中心に触れてみた。そこには、パルミラを旅立つ時にもらった首飾りが垂らされている。翼と杖と火を象ったそれを指先でいじっていると、少しだけ落ち着けるような気がした。


 そして、身体の中に、確かに自分の物とは異なる天火があるのを感じた。単に吸収しただけではなく、シオンの持っていた天火の性質すらも一緒に宿っている。ただ、それは意識しないと見失ってしまうほどに小さなものだった。


「私は……」


 真実を知りたい、と思う。


 ここまで来た以上、全てを知らなければ収まらない。そんな己の身勝手に、難民たちを付き合わせる結果になるが……。




 ――どの道、運命は必ず追いついてくるのだ。




「運命」


 その捉えどころのない不思議な言葉を、カナンは口の中で転がしてみた。


 曖昧で、無責任な言葉だ。見ることも触ることも、はたまたどこに向かうかも分からないのに、人はその言葉をとても重く受け止めることがある。今の自分もそうだ。


 だが、人が生きている限り、その生は必ずどこかへと流れていく。流れをせき止めて、最後まで一か所に居続けることは誰にも出来ない。ましてや、旅することを選んだ自分のような人間ならば、なおさらのことだ。


(……悩むようなことなんて、何一つ無い)


 カナンは上体に力を込めて起き上がった。同時に酷い眩暈と頭痛に襲われたが、片目に手を当てたまま、近くに置かれていた権杖を手繰り寄せた。

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