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【第二〇二節/信託】

 戦いを終えた後、二人は力の抜けたシオンの身体を東屋へと運び、そこに置かれていた揺り椅子に座らせた。


 カナンは治療を申し出たが、シオンはそれをやんわりと拒絶した。


「やっと自由になれそうなんだ。それを引き留めるのは、野暮ってものだよ」


 そう言ったシオンは、何かに気付くと、血を吐きながら喉を鳴らした。


「野暮……野暮、か。そんな概念を理解する心が、僕にもあるだなんて、ね」


 シオンはどこまでも穏やかな顔をしていた。だが、両膝をついて彼女と視線を重ねるカナンの表情は、正反対に悲痛そのものだった。どちらが死に瀕しているのか分からないほどに。


 あるいは、死を救済とするならば、生き続けなければならないカナンの方が苦しむというのは、当然のことなのかもしれない。


 シオンは右手をよろよろと持ち上げ、カナンの頬に触れた。指を染めていた鮮血が、生気に満ちた褐色の肌を上塗りする。


「カナン。僕のことで、心を責め苛んじゃいけないよ。そして、僕が何の恨みも持たずに死んでいくことも、どうか覚えていてほしい」


 唇からは色が消え、指先からも熱が失われつつある。それでもシオンの言葉の端々には、一切の恐怖も後悔も無かった。


 シオンの言葉には一切の嘘偽りが無かった。彼女は自分が迎えた結末を厳かに受け止めていたし、この瞬間を迎えるための覚悟を、ずっと前に固めていたのだ。


 言うなれば、己の手の込んだ自殺にカナンやイスラを巻き込んだような形だ。申し訳なく思いこそすれど、恨む道理など一つも無い。



「……でも、貴女はそれで良かったのですか?」



 シオンの手を握り返しつつ、カナンが問いかける。



「良いも悪いも無いさ。僕の運命は最初からたった一つだけなんだよ」



 深い諦念と共にシオンは呟いた。



「僕が創られた時……世界は混乱のただなかにあったんだ。誰もがどう生きたら良いのか分からないで、もがき、悩んで、暗闇の中で相争う……そんな人々を導く役割を、僕は彼ら・・から与えられた」



 ――統治せよ。領導せよ。人の手にそれを委ねてはならない。


 そんな言葉を幾度となく聞かされた。その文言は、数百年を経た今でもまだ、シオンの中に刻まれたまま残っている。



彼ら・・は……人間を、信じていなかった。だから人ならざる存在を、天使を創ろうとしたんだ。


 僕はその最初の試作品。戦ってみて分かっただろう? 僕の力は、後発の君たちには到底……!」



 気道に血液が流れたために、シオンがむせた。身体を曲げて息を吐き出すと、肩口の傷も開いて法衣を内側から濡らしていく。イスラは外套を切って止血しようかと考えたが、彼を見上げるシオンの表情が、それを望んでいないことを雄弁に語っていた。


 衣の端に溜まった血液が、大理石の床にぽつりぽつりと垂れていく。それは、彼女の命の砂時計が、残り少なくなっていることを表していた。


 聞きたいことは山ほどある。しかしシオンに答えられることは、依然限られたままだろう。


 だが、たとえシオンが何も知らないのだとしても、それでもカナンは彼女に生きていて欲しいと思った。理不尽な制御によって束縛されたまま死ぬのではなく、少しでも今の世界を……この息苦しい鳥籠の外を見て欲しいと思った。


 討ち取った自分がこんなことを考えるのは、偽善も良いところなのかもしれない。カナンは、彼女を討つ以外の選択肢を思いつけなかった己を恥じ、唇を固く結んだ。


「君は優しいね」


「そんな……」


 今際のシオンに苦笑されても、カナンはまだ諦めきれなかった。だが、言うべき言葉が何一つ見つからない。


 そんな彼女の頬を、シオンは震える手で撫でた。



「僕はこんな有様だ……縛られて、閉じ込められて、どこにも行けないで……心さえも自由にならない。


 でも、君は……君たちは、違う。どこにだって行けるし、思うままに生き、そして心には優しさが宿っている。


 創り物の僕から分かたれた君たちが、今ではちゃんと、人として生きている。それを知れただけで十分だ」



 カナンは、零れ落ちそうになる彼女の手を握り返した。


 絡めあった指から、弱々しい熱が身体の中に流れ込んでくるのを感じた。



「……もし、それでも君に負い目が残るのなら、これ・・を……僕だと、思って…………」



 シオンの血に濡れた指を開くと、手の平の上で銀色の火が儚げに揺らめいていた。同時にシオンの意識が急激に薄れ、捧げ持っていた手がずんと重くなった。


 今、カナンの手中にあるのは、まさにシオンの命の残り火なのだ。



「分かりました……一緒に……一緒に行きましょう、シオン」



 最早シオンは、何も言わなかった。最期に残ったのは、真珠のように煌めく銀色の火と、微笑を浮かべた死に顔だけだった。




◇◇◇




 庭園の片隅に、木の枝を組み合わせて作った、簡素な墓があった。墓標替わりの木の枝には、そこここに植わった花で編んだ花冠が、いくつも掛けられていた。


 イスラとカナンは、その墓の真横にシオンの遺体を埋葬した。一刻も早く戻るべきだと分かってはいたが、彼女の遺体を放置したままにするのは、カナンの気がとがめた。


 イスラは何も言わず彼女の意を汲み、疲れ果てた相棒に代わって一切合切の仕事を請け負った。イスラが、墓標として彼女の使っていた剣を突き立て、カナンがそこに小さな花冠を掛けて埋葬の祈祷を執り行った。


 始終、二人の間に会話は無かった。


 祈祷の最中、カナンは自分自身の精神が酷く疲弊していることに気付いた。継火手の真実、束縛されてきたシオン、そしてそんなシオンをやむを得ないとはいえ討ち取ったこと。しかも、自分が手を下すはずが、またしてもイスラにやらせてしまった。


 そうした数々の事実が、彼女を内側から責め苛む。


(……休みたい)


 祈祷が終わると同時に、膝から力が抜けた。咄嗟にイスラが手を差し出して、彼女の身体を支える。


「大丈夫か?」


 いつもなら、すぐにでも「はい」と答えるところだ。だが、今はそんな気力さえ湧いてこない。


 ゆっくりと彼女を地面に座らせる。懐の水筒を取り出すが、中身の葡萄酒は先ほど飲み切ってしまっている。


「……堪えたんだな」


 カナンはこくりと頷いた。顔には活力が無く、虚脱し切っている。


 そんな彼女の頭を抱き寄せ、幼子をあやすようにぽんぽんと軽く叩いた。だがイスラも内心、抜け殻のようになるまで疲弊してしまったカナンに、少なからず動揺を覚えていた。


「今は何も考えるな」


「……」


 カナンは答えず、イスラの胸に額を押し付けた。


(小さいな……)


 カナンの体温も、重みも、今はどこか儚げだった。年相応の娘よりもさらに小さく幼くなってしまったかのような。


 似たような感覚を、ラヴェンナにいた頃も感じたことがある。だが、今はあの時よりもさらに輪をかけて頼りない。責任感の塊のような彼女が、全てを投げ出してしまいたくなるほどに、疲弊の度合いは深かったのだ。


 やがて、カナンは小さく寝息を立て始めた。イスラは持ち物や武器をかき集めると、カナンを抱え上げたままその場を離れようとした。


 だが、少し思い立って、エマヌエルの墓から花冠を一つだけ持ち出した。


(エデン、か)


 そこは自分たちが思い描いているような場所ではないかもしれない。たどり着いた先で、今よりもさらに深い失望や絶望を覚えるかもしれない。


 自分は平気だとしても、繊細なカナンを傷つけるような現実が、いくつも待ち構えていることだろう。


「……それでも、帰らないとな」


 止まることは出来ない。立ち向かっても良いし、逃げても良いが、停滞だけは絶対にしてはならない。


 こうしてカナンが動けなくなっている時などは、特にそうなのだ。自分が彼女を支えてやらなければならない。


 シオンはこの空間に縛り付けたまま、悠久の時を生きることを強いられた。翻って自分は、次から次へと起こる出来事の連続の中で生きている。止まることなど最初から勘定に入れていない人生だ。


(俺はまだ大丈夫だ。まだ……)


「行ける……」


 カナンを抱え直して、イスラは庭園の深奥へと向かった。

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