イスラが書状を書き上げた時には、すでに午後の就業時間は過ぎ去り、すっかり夕食時となっていた。
空きっ腹を抱え、ぞろぞろと炊事場に流れ込んでくる男女の群れを逆行し、イスラは昼に訪れた本部を再訪した。午前中と全く同じ動きになっているが、今度捕まえた相手は、カナンでもザッカスでもなかった。
「珍しいな、君が私に頼み事とは」
そう言うオーディス・シャティオンの表情は、確かに意外そうだった。普段は不気味なほど隙を見せない男なだけに、その反応がイスラにとってもいささか新鮮だった。
ここでは話したくない、と言うイスラを訝しげに眺めながらも、オーディスは自分の使っている天幕へ彼を
その内部は、貴族であり旅人でもあるオーディスの身分を示しているかのようだった。
簡素だが敷物があり、着物や道具を詰め込んだ木箱が置かれている。一人でも簡単に持ち運べる程度の大きさで、普段は文机の代わりに使っているのか、上にはペンやインク、紙が並び、紙の本や日誌が積まれていた。ザッカスのような男でない限り、闇渡りの天幕の中では決してお目にかかれないだろう。
オーディスの剣、
彼はその小箱の傍に剣を置いた。イスラに座るよう促しつつ、自身も上着を脱ぎ、クラバットに指をかけて少しだけ緩める。
「すまないが、茶も何も用意出来ない」
「いいよ、別に。茶飲み話がしたくて来たわけじゃない」
「なら、何かね。一つ忠告しておくが、交渉事があるのなら相応の態度をとるべきだ」
私は別に気にしていないがね、とオーディスは微笑みながらイスラの正面に腰を下ろした。イスラは乱雑に頭を掻いた。それから大きく息を吐き、「頼む」と言いつつ頭を下げた。
「……明日、バシリカ城に行くんだろ? その時、こいつをエルシャのギデオンに渡してほしい」
イスラは懐から書状を取り出し、オーディスに渡した。受け取ったオーディスの水色の瞳が何度か書面を往復し、最後に彼は溜息をついた。
「君は本気で、私がこれを受け入れると思ったのかね?」
長い指で書状を摘まんだオーディスは、イスラの目の前でぷらぷらと振って見せた。
「ギデオン卿への、決闘申し込み……それをすることで、我々にとってどんな利益が得られると思う?」
「利益のためじゃない。これは俺自身の身勝手だ」
オーディスの冷ややかな視線に対しても、イスラは全くひるまなかった。背筋を伸ばし、真っ直ぐに相手の目を見返す。その表情には嘘偽りはもちろんのこと、茶化すような色も無かった。
「君自身の勝手、か。話にならないな。
ラヴェンナをはじめとした各煌都との交渉を迎えた現時点で、こんな波風を起こすような真似をして何になる?」
「恨みつらみが動機ってわけじゃない」
「そんなことは関係無いさ。……君の書いた条件によると、互いに真剣を使って、とある。相手はあのギデオン卿で、君にも一定の実力がある。彼も手加減は出来ないだろう。
分かっているのかね。もし君が死んだらカナン様が悲しむ。それがきっかけとなって、遠征を取りやめてしまうかもしれない」
「あいつはそんなことはしないさ。俺が死んでも、やることをやるよ。それに……気にくわないな、まるで最初から俺が負けるような口ぶりだ」
「負けるさ。君では彼に勝てない」
オーディスの口調も表情も、少しも冗談めかしてはいなかった。枯草を火に投ずれば燃える、陶器を石畳に叩き付けたら割れる。それと同じように、イスラの挑戦の結果も最初から決まり切っていると、オーディスは思っていた。
そしてイスラもまた、強く言い返すことは無かった。だが口をつぐんでこそいるものの、納得する気も、引き下がる気も一切無いことは明らかだった。
彼とて、これがどれほど無謀で、なおかつ無茶であるかは承知していた。それが分からないほどイスラも愚かではないし、思い上がってもいない。腕をあげたのは確かだが、それでも剣匠の高みを超越することは出来ない。
「勝つか負けるかは……どうでもいいわけじゃないけど。俺はただ、自分があの時からどれくらい変われたのか、それが知りたいだけなんだ」
我ながら短絡的だな、とイスラは思う。
強くなったか否かなど、人間の変化の一部分に過ぎない。剣の扱い、武器の扱いが上手ければ、それに伴って人格が
そんな当たり前のことが分からないほど愚かではない。だがイスラには、強さの変化を測る以外に、自身の変化を自覚する方法を思いつかなった。思いつけなかった。
自分は、どこまでいっても闇渡りなのだから。
「それを知る方法は、他にいくらでもあるだろう?」
オーディスの意見は至極まっとうだった。
「俺はカナンみたく頭が良いわけじゃない。だから、強いか弱いかなんていう、子供みたいな方法しか思いつかなかった」
「……」
オーディスは黙ったまま、口元に手を当てた。彼にもなんとなくイスラの心理が理解出来た。否、自分だからこそ理解出来るのだろうな、とオーディスは思う。自身の生い立ちの話は、イスラやカナンはおろか、従妹という立場であるヒルデにさえ話していない。この秘密を知る者はごくわずかだ。
だから、ふと気になったことをオーディスはたずねていた。
「……何故、こんな話を私の所にもってきたのかね」
「理由は二つあるよ。一つは、カナンの次に偉いのがあんただから。
もう一つは、あんたが私情でエルシャの剣匠と戦った男だからだ」
「知っていたのか」
「カナンから聞かされてる。あの男を一番手こずらせたのがあんただってことも。
でも、ちょっと考えたら変な話だよな? 八年前、あんたはとっくにラヴェンナの騎士だったはずだ。そんな男が、エルシャで剣匠の地位についても意味が無いだろ?」
階級も称号もなんら特別ではない、ただの腕自慢が挑むのなら納得できる。だが、オーディスはシャティオン家という由緒ある家柄の人間だ。ゆくゆくはウルバヌスの領地を受け継ぐ宿命を背負っている。
そんな男が、遠く離れたエルシャで剣匠の地位を得ても、持て余すばかりだ。
「合理的な理由が無いなら、あとは
イスラの言葉を、オーディスは「結構」と言って押しとどめた。
「……そこまで押さえられているのなら、言い逃れは出来ないな。しかしイスラ、当時の私と、今の私は違うよ。立場にせよ責任にせよ、何もかもが変わってしまっている。
第一、今話し合っているのは君の願望についてだ。私の過去は何の関係も無い。私がギデオン卿に私的な理由で挑んだとて、それが私を論破せしめる材料にはならない」
「口喧嘩なんてする気はないよ。だから、言っただろ……俺は、あんたに頼みに来たんだ」
この通りだ、とイスラは深く頭を下げた。自分では最大限の礼を尽くしたつもりだが、客観的に見れば、まだまだ全然足りないのかもしれない。だが、こんな頼み方しか知らないことも含めて、今の自分自身だ。
それでギデオンと戦えないのならば、それも一つの結果でありかつ証明と言えるだろう。
「……………………」
オーディスの沈黙は、長かった。
彼が微動だにしないため、イスラは時間が凍り付いてしまったかのような錯覚を覚えた。無防備に晒した首筋がざわざわと疼く。今まだ感じたことの無い類の緊張が、心臓の鼓動を速めていた。
やがて長い長い黙考の後、オーディスは呟くように言った。
「やるからには、集団に対する何らかの利益が無ければならない」
イスラは頭をあげた。
「もし俺が勝ったら、俺に恨みを持ってたり、納得していない連中を黙らせることが出来る。遠征に出る前に、ゴタゴタの芽を一つ潰せる。これなら利益にならないか?」
「勝てれば、だろう? 勝つ算段はあるのか?」
オーディスの端正な顔は、仮面のようにぴくりとも動かなかった。瞬きすらせずじっとイスラを見据えている。ともすれば優男とさえとられかねない顔立ちにも関わらず、イスラでさえ思わず気圧されそうになるほどの気迫があった。
「……」
イスラは、即答しかねた。あのギデオンの腕前を知っているだけに、軽率な答えなど出来ようはずもなかった。だが、オーディスの求めている答えも分かっている。イスラは口を開きかけた。
だが、彼が言葉を発する前に、オーディスは相好を崩していた。
「そこは嘘でも、勝てる、と即答すべきだな」
「……半端な嘘はつきたくない」
「律儀だな。まあ、だからこそカナン様に信用されるのか。
……決闘の件、確かにギデオン卿に伝えておこう」
本当か、とイスラは腰を上げる。オーディスは「ただし!」と付け加えて動きを止めた。
「負けるつもりで戦うな。必ず勝ってみせろ」
「さっき絶対に負けるって言い切ったのはあんただろ」
「そうさ。今でも勝てるとは思っていない。だが……だからこそ、それをひっくり返して見せれば、誰だって君を認める。サウルの配下も、煌都の人間も、そして何より君自身も」
「……俺、自身」
「そうだ」
オーディスの右手が、イスラの強く肩をつかんだ。
重く、また分厚い手だった。その力強さの中に、オーディス・シャティオンという人間の経験と体験が込められているような気がした。
「勝って変われ。変わるために勝て。今の君に必要なのは、勝つことだけだ」
イスラはまさか、自分がオーディスにここまで圧倒されるとは思っていなかった。彼にとってオーディスはよく分からない男であり、その周到さのためにいつもどこか不気味な印象があった。
だが、今自分の肩を強く掴んでいるこの男に嘘は感じられない。何が本当で、何が偽りなのか分からない。彼の発破はかえって、イスラの困惑を強めた。何より困るのは、オーディスの言葉を受けて、自分の中で何かが強く燃え立ったことだ。
彼が手を離した時には、垣間見えていたオーディスの感情も隠れ、いつも通りの貴族的な物腰へと戻っていた。
「私をその気にさせたんだ。期待している」
「……ああ!」
◇◇◇
イスラが去った後、オーディスは深く息を吐きながら、ごろりと敷物の上に身を横たえた。顔に両手をかぶせて、もう一度深く呼吸する。自然と苦笑が漏れていた。
「柄にも無いな。私が、あんな……なあ、エマ。今の僕を見たら、君は何て言うかな?」
死人が返事などしてくれるはずがない。オーディス・シャティオンは自分自身に対して、何度も何度もその戒めを刻み続けてきた。
だから、傍らの剣が仄かに熱を帯びたことにも、気付かなかった。