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【第百六二節/「変わるために……」 上】

 カナンがサラベルジュ学院での講義を終えた頃、バシリカ城の尖塔に吊るされた大鐘楼が、正午を告げる合図を響かせた。その音色が届く範囲内では、どこもかしこも、昼休みのために人々が一斉に移動を始める。


 それは難民団の居留地でも同じで、午前中を薪割りのために費やしていたイスラは、汗を拭いて上着に袖を通した。仕事場から抜け出し、途中で昼食を適当に仕入れてから、本部兼事務所となっている天幕へと向かった。


 だが、目当てはカナンではない。


 ぞろぞろと天幕から這い出てくる人々の中にザッカスの姿を認めると、イスラは何くわぬ顔で近寄って行った。


「変なこと頼んで悪かったな、ザッカス」


 そう言いつつ、イスラは道中で買ってきたベーグルを二つ渡した。大きな葉でくるまれたそれは、それぞれ中に揚げた川魚の切り身と、焼肉が挟まれている。手間がかかるだけに値段も張る、ちょっとした贅沢品だった。


「なぁに、気にするなよ。俺とお前の仲じゃねえか」


 カカカッ、と乾いた笑い声を立てながらも、ザッカスは懐から一枚の紙と封筒、ペン、そしてインクの入った瓶を次々と取り出した。


「……でもよ、お前マジでやるつもりなのか?」


「やる。この機会を逃したら、多分次は無いからな」


 受け取った物を見ながら、イスラは決然とした表情で言った。ザッカスは小さく肩をすくめる。


「お前がそう言うのなら、俺なんかが何か言っても無駄だろうな。まあ死なないように気を付けろよ」


 名無しヶ丘の洞窟で出会って以来、ザッカスはイスラがいつも滅茶苦茶な行動をとるのを傍目に見てきた。イスラは一度やると言い出したら、絶対にそれを曲げない人間だということを良く理解している。そういう点では、彼はカナンと似ているのかもしれない。


「死なねえよ。ここからが大事なんだからな」


 イスラは貰った道具一式を袋に詰めると、そそくさとその場を立ち去った。




◇◇◇




「……とは言ったものの」


 書けない。何も思い浮かばない。


 昼食時が終わり、各人が午後の仕事に戻っていった後も、イスラは炊事場に置かれた机の前で首を傾げていた。


 周囲には汚れた木製の皿や杯が散乱しているが、十歳にもならない少年少女がそれらを集めて川へと持っていく。こうした仕事にもしっかりと賃金は発生するようになっているのだ。


 そうして洗い物から解放された女たちは、夕食の仕込みを始める前の束の間の休息を楽しんでいる。他愛もない談笑をしながらとっておいた昼食をつつき、余裕がある時は煙草を回したり、葡萄酒の栓を抜いたりする。


 闇渡りの女性は、大まかに二種類の人種に分けられる。娼婦として生計を立てる者がいる一方で、炊事や洗濯を引き受け生活する者もいるのだ。後者の女性たちは、えてして器量良しとは呼ばれないのだが、そのことでかえって自由に生きているところがある。皆気性がからり・・・としていて、娼婦の道を選んだ女が持っている、ある種の後ろめたさのようなものをまるで感じさせない。


 もちろん、だからといって彼女たちが安楽に生きてこれたかというと、決してそうではないだろう。男系社会である闇渡りの世界では、女性の地位は著しく低い。これは、継火手を中心とした女系社会である煌都と、全く逆の構図だ。


 ……そんな風に、普段見ないこと、考えないことが、イスラの脳内の大部分を占めていた。手元の紙に視線を落としても、言葉が上滑りするだけで、納得のいく文章が少しも浮かんでこない。


 正直なところ、イスラは書くことを侮っていた。頭の中に伝えたいこと、書きたいことさえあれば、あとはそれを言葉にするだけだと思い込んでいたのだ。


 ところが思考を文字に変えるとなると、これは意外に難しい問題なのである。思考と文章は、全く似ても似つかないものだ。断片的な言葉や思いが浮かんできても、それを秩序だった文章に変換するとなると、とたんにどう当てはめれば良いのか分からなくなる。


 おまけに、今回は使い慣れない敬語で書かなければならない。話す時でさえ苦労するのに、書くとなると一層難しいことのように、イスラには思えた。


「……えー、っと……本日はごき、ごきげんよう? よい御気分でいらっしゃいます……か?」


 口に出すと、明らかに変だった。これが正しい文章のはずがない。


 それが分かっているから、イスラは一文字も書くことが出来なかったのだ。何しろ紙は一枚しかない。これをしくじれば、またザッカスに頼んで補充してもらわなければならない。紙は貴重品なのだ。


(こんなことなら、もっとたくさん……いや、手本くらい作ってもらうべきだったな)


 文字や文章に慣れているザッカスならば、手紙を書くことなど造作も無いことだろう、とイスラは勝手に思い込んだ。少なくとも自分が書くよりはマシなものになるはずだ。


 そうして手を止めたまま悶々としている内に、手元の蝋燭が溶け崩れてしまった。いくら優れた夜目を持つイスラといえど、星明りだけで文章を書くことなど出来ない。イスラは燭台を掴んで立ち上がった


「おばちゃん、悪いけど、蝋燭の余りってあるかな?」


 談笑していた炊事女の一人が、「あいよ」と答えながら蝋燭を差し出す。イスラは懐から小銭を取り出し、蝋燭と引き換えた。


 新品に付け替え、火打石を擦って火を灯す。ささやかな炎がイスラの上半身を照らした。


「お前さん、こんなところで油売ってて良いのかい? もう午後の仕事は始まっちまったよ」


「良いんだよ。これでも蓄えはあるし、他にやらなきゃいけないこともあるしな」


「それがあれかい?」


 炊事女は、先程までイスラが座っていた辺りを指さして言った。「ああ、あれだよ」とイスラはぶっきらぼうに返す。


「書き物、ねえ。闇渡りのあんたが」


 年増女の詮索するような視線を感じつつも、イスラはそこまで不快には思わなかった。


「闇渡りだって、書き物の一つくらいしても良いだろ?」


「そりゃあそうさ。けどね、ちょっと前まで、こんな風になるなんて思いもしなかったからねぇ……」


「俺もそう思うよ。おばちゃん、あんたらはどうなんよ。楽しくやれてるのか?」


「ま、悪くはないね。色々変わったんで、戸惑ってることもあるんだけどさ」


 だが、彼女の言う戸惑いが決して悪いものではないのだと、その表情が語っていた。


 子供たちが危険な仕事をさせられることもなければ、炊事女が余裕を失って苛立つことも無い。時間があれば休むことも出来るし、豪遊とはいかないまでも、遊ぶだけの賃金を得ることも出来る。確かに足りないことだらけなのかもしれないが、以前に比べればはるかに良くなったことだけは確かだ。


 全部が全部、カナンの力によるものだとは、イスラも思っていない。だが、あの日エルシャで出会わず、また彼女が旅に出る決意をしなかったら、こんな風景を見ることは出来なかっただろう。


 全ては繋がっているのだ。


(あいつは少しずつ世の中を変えている。だから、俺は……)


 イスラは席に戻ると、再びインク瓶の栓を抜いた。さっきまで話していた炊事女が、彼のために香草茶を持ってきてくれた。


 蜂蜜の甘さより、薬草の苦味の方が強いそれを口に含みながら、イスラはインクに浸したペン先を紙に触れさせた。

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