「昔々あるところに、百頭の羊を囲う羊飼いがいました。
羊飼いは、燈台の遮光壁が開いて、また閉じるまでの間、いつも羊たちの隣に寄り添っていました。けれど、壁が降りて辺りが真っ暗になると、羊たちを囲いの中に戻して家に帰ってしまいます。
羊飼いが休んでいる間、囲いを守るのは三頭の牧羊犬です。それぞれ大柄な犬、中くらいの犬、小柄な犬の三頭です」
物語りをしながら、カナンは白墨を摘まんで黒板に絵を描いていく。コンコンと、
「さて、ある日のことです。羊飼いが家に帰り、囲いのなかの羊たちも眠りにつこうとしていました。牧羊犬たちはあくびを噛み殺しながら見守りにつきました。
あたりが静まり返り、月が中天に昇った時、囲いのなかの一頭の羊が、ふいに暴れ始め、囲いから出ていこうとしました。まどろんでいた牧羊犬たちは一斉に顔を見合わせました。どうしてその羊が暴れ出したのか分からなかったからです。
それでも、暴れ出した羊を放っておくことは出来ません。犬たちは眠気をこらえて立ち上がりました。
……さて、ここで質問です。
もし、皆さんがこの犬たちのなかの一頭であったなら、どのような方法で羊を止めるでしょうか? ……そこの貴方、もし、貴方が一番大きな犬だったなら、どのようにして羊を止めますか?」
カナンが指さしたのは、大柄で気の強そうな少年だった。授業中であるにも関わらず、他の生徒の場所を押しのけるようなふてぶてしい態度で座っている。おそらく騎士の家の出なのだろう、とカナンは当たりを付けた。
一方、少年の方は、まさか一番手で当てられるとは思っておらず大いに驚いたようだった。他の生徒たちにしてもそれは同じで、栄えある一番手を不良に取られたと、露骨に悔しがっている少女もいる。
態度こそ大きくても、この手の質問を唐突に突き付けられるのは不慣れなようだった。カナンは「何でも構いませんよ」と助け船を出す。何でも、というお墨付きを得て、少年はややはにかみながら答えた。
「じゃあ……その羊の尻に噛みついて止めます」
尻という単語が出た瞬間、講堂のあちこちからクスクスと忍び笑いが漏れた。少年は顔を真っ赤にしながら辺りを見回すが、誰も目線を合わせようとしなかった。
「分かりました。では、一番大きな犬が羊のお尻に噛みついたとしましょう。そうなると、二つの分岐点が出来ますね。大きな犬だけで羊を止められるか、それとも止められないか。
後者は一旦置くとして、前者について考えてみましょうか。そこの……そう、三人で固まっている中の、真ん中の貴女。大きな犬が羊を止められたら、どうなると思いますか?」
カナンが次にあてたのは、講堂の目立たない位置に、友人の影に隠れるようにして座っていた少女だった。年齢も、講堂に集められた生徒の中では低い方だろう。十歳か十一歳くらいに見える。
ただでさえ恥ずかしがり屋なのに、その上先輩たちの前で質問に答えるのは、少女にとって大変なことだった。「となりの方と相談しても結構ですよ」とカナンは言い添える。少女はきょろきょろと両隣の友達を顔を見合わせた。しばらくして、答えが返ってきた。
「えっと、たぶん、飼い主の羊飼いに褒めてもらえる……と思います」
「そうですね。もしかしたら、一番大きな犬はご褒美がもらえるかもしれませんね。例えば大きな骨付き肉とか。
では、それを見ている他の二頭の犬たちは、どう思うでしょうか? 隣の方」
「羨むと思います」
「羨んだら、どうなりますか?」
「……仲が悪くなる?」
「そうですね。牧羊犬たちがよほど寛容な性格でない限りは、そうなるでしょう。
となると、ここで一つの答えが出ます。すなわち、大きな犬だけが羊を止めた場合、他の二頭との間で格差が生まれる可能性があります。
もちろん、格差によって生じる不満を減らす方法はあるでしょう。羊飼いが大きな犬にご褒美をあげる時に、他の犬たちにも餌をあげたら良いかもしれません。けれど、全く同じ物を渡したら、今度は大きな犬が不満を持つでしょう。もしご褒美の質に差をつけたとしても、それはそれで、やはり格差が生まれます。
……では翻って、大きな犬が止められなかった場合。他の犬たちも一緒になって止めに入ったとします。まあ、三匹とも羊のお尻に噛みついたことにしましょうか」
カンコンと白墨を鳴らしながら、カナンは黒板に三匹の犬と羊の絵を描いた。描きながら、絵柄の珍妙さに思わずにやけ顔になりそうだったが、押し殺して仏頂面のまま仕上げる。
「さて、三頭の犬は力を合わせて、無事に逃げようとする羊を連れ戻すことが出来ました。ところが、当然ですがこの三頭の犬の力には差があります。羊を止めるために一番大きな力を使ったのは、もちろん大きな犬になります。
さて、では……この場合、大きな犬は何を主張するでしょうか? 色々考えられますが、やはり主人に対して手柄を主張するか、しないか。最終的にはこのどちらかになるでしょう。では、そこの」
カナンが指をさして生徒を当てようとした時、「ハイッ!」と起立しつつ手を挙げた少女がいた。日に焼けた肌を見るに、継火手見習いであると一目で分かった。利発そうな見た目で、誰にでも好感を抱かれそうな、元気な少女だった。
カナンは伸ばしかけていた手を、その少女の方に向けた。
「どうぞ」
「この質問には、意味が無いと思いますっ!」
あまりにはっきりとした断定に、講堂中が沸き返った。彼女の近くに座っている友人たちは、あまりに大胆な返答に困惑して、無理やり着席させようとしている。だが、カナンはかえって、その利発な少女により好感を抱いた。
「どうしてそう思うのですか?」
「だって、どの道大きな犬が得をする結果になるからです。大きな犬は、一番大きな力を持っているから、他の子犬より仕事をして、大きな報酬をもらうのは当然のことだと思います!」
「なるほど、確かにそうですね」
そう言いながら、カナンは講壇の上に両肘をついて指を組み、そのうえに顔を乗せた。少し腰を据えて話す相手が出たな、と思った。
「では、貴女はこの囲いのなかで格差が生じるのは、当然のことだとお考えなのですね?」
「当然だと思います。ただ、格差自体は悪いものなので、改善しなきゃいけないとは思います」
「なら、どうしましょうか」
カナンはあえて、自分自身の意見を言わなかった。この討議の方法において、教師側は自分の持論を出してはならないのだ。あくまで主体は生徒であり、生徒との質疑応答を重ねて、その思考を鍛えていく。
重要なのは、明確な答えに導くことではない。考える姿勢そのものを作ることだ。
だから、あえて次のような発言もしてみる。
「犬の大きさが問題になるのなら、いっそ全部可愛い子犬に変えてしまいましょうか?」
「それだと……」
起立したままの少女が口を開きかけた時、また別方向から起立、挙手する者が現れた。
「それだと、囲いを守る者がいなくなります。羊を止めることはもちろん、外から入ってくる泥棒を追い払うことも出来ません」
そう答えたのは、コレットのように眼鏡をかけた少女だった。だが雰囲気はまるで異なっており、良く言えば毅然とした、悪く言えばツンとした態度をしている。挑戦的だが、やり込んでやろうという欲よりも、正解を出したいという生真面目さの方が強く感じられる。
台詞を取られた元気娘の方は「ぐぬぬ……」と歯噛みしつつ眼鏡娘を睨んでいる。眼鏡娘は、少しだけ顔を天井に向けて逸らした。
「そうですね、では全ての犬を大型犬にしてしまいますか?」
「可能であれば、それが良いかと思います。ですが、カナン様のたとえ話に乗るなら……いや、いっそはっきりさせておきましょう。
羊と犬たちのいる囲いとは、私たちの社会の言い換えです。三頭の牧羊犬は、それぞれ社会の上流階級、中産階級、下層階級を意味し、暴れる羊とは」
「社会の中で起きるいろんな問題ッ!!」
言わせないぞとばかりに、元気娘が割って入った。鉄面皮を崩さなかった眼鏡娘が、若干顔をひくつかせた。
そんな二人の回答に、カナンは満足した。彼女がたとえ話の中に織り込んでいた記号の意味とは、二人が言い当てたそれに他ならないからだ。
「見事な答えです。皆さん、拍手を」
率先して手を鳴らしたカナンに続き、他の生徒たちも二人に拍手を送った。遠目にも、二人の頬が赤くなったのが見えた。
「さて……では、そちらの……貴女のお名前は?」
「ポーラ、と言います」
「ポーラさんですね。では、貴女が言った通り、大きい犬とは社会の上流階級を意味していました。私たちの社会が……とりあえずは煌都の中、ということにしておきますが、そこが上流階級の、裕福で権力を持った人々だけになるとしたら、どうなると思いますか?」
「とても社会が回らなくなります。私たちは政治や宗教のことを学んでいても、食べ物の作り方や、建物の建て方を知りませんから」
そうですね、と相槌を打ちつつ、カナンはポーラと名乗った少女が意外と柔軟な思考を持っていることに驚いていた。そう答えるしかないように誘導した面もあるが、彼女は「言わされた」という風には感じていないようだった。そして、言わされたことに気付かないほど鈍くもないだろう。
「では、社会の中には様々な階級を持った人間が分散している方が良い、と?」
「私は……そう考えます」
そう言いながらも、ポーラの言葉には少々迷いが含まれていた。その迷いを突くように、元気娘が割って入った。
「でも、それなら社会の中から格差は無くならないわよ。格差が無くならないなら、不満だって無くならないんじゃないの?」
「それは……」
ポーラが明確に言葉に詰まったのを見て、カナンはこのあたりが潮時だと考えた。講堂に集められた生徒のなかで、彼女以上に突き詰めて考えられる者はいないだろう。
「そこまで。ポーラさんと……貴女のお名前は?」
「アポロですっ!」
「アポロさんですね。お二人とも、ありがとうございました。お陰様で、良い講義になりました」
カナンは二人に礼を言うと、着座させた。あとは、この講義の締めくくりを行うだけだ。
「さて、今までのやり取りで見てきたように、私たちの社会には様々な立場の人間がいます。地位の高い者、低い者。お金のある者、貧乏な者。学のある者、学の無い者。専門的な仕事をする者、単純な仕事に従事する者。ここに格差が生じます。
この社会から格差を一掃することは、非常に困難です。先の三頭の犬のたとえの通り、大きな力を持つ者は大きな対価を得るのです。しかし、それを力を持つ者のみが独占すれば、社会は到底回らなくなります。何故なら、力を持つ者にとって力の無い者は必要不可欠であり、力の無い者にとっても力を持つ者は必要不可欠だからです。
力があるからといって、権力者が全てを行ってしまったら、残された人々には無力感と無気力感、あるいは嫉妬が生まれます。そして大きな犬が病んだり、老いた時、その囲いを守る者は誰もいなくなるでしょう。
また、全ての階級の人々が一つのことに取り組んだとしても、分け前には差が出てくるでしょう。三頭の犬が同時に羊に噛みついたとしても、やはり一番大きな仕事をするのは大型犬でしょうし、その大型犬が一番大きな報酬を得るでしょう。
ではどうするべきなのか。
その答えは様々です。皆さんがこれからの人生の中で考え、獲得していってほしいと思います。
ただ、私個人の意見を言うなら……報酬をもらった大きな犬は、その肉を他の二頭に分けてあげれば良いと思うのです。そして、そのことで決して誇ったり、驕ったりしてはならないのです。
その大きな犬は、きっと普段から他の犬より多くの餌をもらっているはずです。だからこそ、大きくて強い犬でいられる……それはきっと、何か事件が起きた際に重要な仕事をこなすために、羊飼いから多く恵みを受けているからではないでしょうか。
また、他の二頭の犬は、大きな犬とは違う仕事を与えられているかもしれません。小さな犬は羊たちを怯えさせず、中型の犬は大小どちらの犬の仕事も任されているかもしれません。この二頭がいなければ、大きな犬が囲いを守っていくことは出来ないでしょう。
そして何よりも悪い状況とは、大きな犬が何もせず、ただ威張り散らすだけになることです。力を持った者が、その力を正しく行使しないこと……これは憎むべき悪徳です」
長広舌をふるったカナンは、そこで一旦、手元に用意されていた水を口に含んだ。そして、自分が今まで言ったことが生徒たちに伝わるのを待ってから、最後のまとめを行った。
「この講義を通して行ってきたように、私たちは議論することを止めてはなりません。私たちが神から社会性という特質を与えられて創造された以上、格差と権力についての質疑を止めてはならないのです。
だから、この学院にいる間も、あるいは卒業した後も、常に自他に問いかけ、対話することを続けてください。
以上です」
彼女が語り終えるのと同時に、講堂の中は割れんばかりの拍手で満たされた。