過去に建造された様々な城塞都市の例にもれず、ラヴェンナもまた、大燈台と王城を中心にパイ生地のような形で市街を展開させている。中心部から外延部に向かうにつれて、居住者の所得が下がっていくのも様式通りだ。
そんな街の中にあって、上流層と中流層の狭間に建てられたサラベルジュ学院の存在は、ある種象徴的な意味を持っている。
継火手は現在の世界において並ぶ者のいない地位にあるが、地位すなわち裕福、と等式で結ぶことは出来ない。家庭ごとに事情があり、カナンやユディトのようにこの上なく恵まれた環境で育つこともあれば、その辺の庶民よりやや上の生活水準で育つ継火手もいる。
それでいて、継火手という地位に沿った仕事を求められるため、手を加えずにいたら煌都の内部に強力な不満分子を作ることになりかねない。
そんな事態を防いでいるのが、サラベルジュ学院のような存在なのだ。他の煌都にも同じような学院が設けられている。
ここに集められる生徒は、継火手の子女を筆頭に、祭司階級や軍人、あるいは裕福な家庭の子息である。重要なのは、学院内で最も優遇されるのが継火手の子女たちであるという点だ。学院とは煌都の権力関係の縮図であり、これを尊重し遵守するような人間に育て上げることこそ、第一の目標なのである。
例えば、せいぜい二階建ての家に召使一人くらいしか雇えない家庭の継火手と、使用人や従業員を千名以上抱えた大富豪の子息が廊下ですれ違ったとする。所有する富の差は歴然だが、それでも大富豪の息子の方は、継火手の娘に対して道を譲り、深く頭を下げなければならない。
これは少女に頭を下げているというより、彼女の内にある天火に頭を下げるという意味を持つ。天火は煌都の根本であり、これなくして富の蓄積はあり得ないからだ。
そうして頭を下げられ続ければ、どんなに家庭はつつましくとも、継火手の少女たちの中には強烈な自尊心が根を張ることになる。
それが増長という形で、悪い方向に育ってしまうことも無くは無い。だが、歪んだ心構えを矯正することも学院の役割の一つだ。そうやって、品行方正で誇り高い継火手を量産していくのである。
また、格差が明確になっているとはいえ、普段家から出ることの無い継火手の少女たちが同年代の男子と触れ合える数少ない場でもある。学院のなかで見染めた軍人の子息を、卒業後に守火手として任命するという事例も珍しくない。
一方で、超一流の家系の娘たちにとっては、むしろ悪い虫がつきかねない場所でもある。授業の早さも、必然的に最大公約数的なところに落ち着いてしまう。そのため、最上層の家の娘たちは、むしろ学院に通わされることはなく、著名な家庭教師を雇って一対一で授業を受けることが多い。まさにカナンやユディトがその例に当たる。
そんなわけで、サラベルジュ学院を訪れたカナンにとって、院内の光景はとても物珍しいものだった。
列柱の並ぶ廊下には、質素な意匠のローブを着た生徒たちが行き来している。少女たちが楽しげに喋り、時折弾けるように笑い声を上げる。一方で眉間に皺を寄せ、身体を丸めて本を覗き込んでいる少年もいる。その両肩の上に、落第とか追試といった不可視の
そんな生徒たちも、カナンの姿を見ると即座に道を譲り、挨拶をした。継火手の少女たちが軽やかな声で「御機嫌よう」と言うと、カナンもそれに応じて「御機嫌よう」と返した。内心では堅苦しさと可笑しさを覚えていた。
カナンも一応は学院に通ったことがある。しかし実際は父親が顔つなぎを目的として通わせただけであり、授業を受けたことは片手で数えるほどしかない。
父親の教育方針によって、フィロラオスのような一流の学者に師事することが出来たのは大きかった。今の自分は、教師陣とユディトを加えた、ごく限られた範囲で形成されたと言って良い。授業の密度は濃く、気に食わない授業の時は平然と抜け出ることも黙認された。それくらい自由でなければ、今よりも遥かに酷い不良娘になっていたことだろう。
そうして家庭教育を肯定する一方で、カナンは密かに学院の生徒たちを羨んでいた。
「いかがですか、我が校の生徒たちは」
先を歩く初老の祭司が、振り返りカナンに問うた。今日、カナンをこの場に招待したのはこの男性だ。昨日の歓迎会の折りに、生徒たちの前で特別講義をしてほしいと依頼してきたのだ。
唐突と言えば唐突なお願いだったが、カナンも満更ではなかった。オーディスも「ぜひ行かれるべきです」と勧めてくれたため、難民団の仕事を任せて出掛けることが出来た。
「とても快活な子たちですね。皆明るくて、楽しそうで……」
「もちろんです。継火手であれ、そうでない者であれ、子供は子供。明るく元気なのが何よりも大事です。それが主体性を育み、ひいては人間的な成長を促す切っ掛けになります」
そんな学院長の言葉を聞いて、カナンはふと、トビアのことを思い出した。彼ほど快活で素直な少年を、カナンは他に知らない。彼のような少年こそ、こうした学院にはふさわしいかったのかもしれないな、とカナンは思った。
(元気にしているかな……?)
道を別った
「こちらが、大講堂になります」
院長が重厚な樫の扉を開く。同時に、集まった生徒たちの漏らすざわめきが流れてきた。
カナンが扉を通り、講堂の中に入ると、その声はますます大きくなったようだった。彼らの中からは親近感も嫌悪感も感じれず、純粋に噂の渦中の人がやってきた、という好奇心だけがある。年齢層は大体十歳から十五歳の間までだろうか。人数は、全員で二百名ほど。
講堂は、教壇を取り巻くように机と席が段状に配置されている。深めの器を半分に切ったような形、と言えば良いだろうか。その弧になっている部分には大窓があり、ラヴェンナの大燈台の放つ光が直接差し込むようになっていた。
また、教壇の黒板の上には、天火を戴いた小さな燈台がある。燈台というより燭台とでも形容した方が近いだろうか。
「諸君、静粛に」
院長が手を叩くと、波が引いていくようにざわめきが消えていった。生徒たちの視線が一斉に院長に向けられる。そういう訓練がなされているからだ。だが、ちらちらと自分に向けられる目線に、カナンはしっかりと気付いていた。
院長は手に持っていた小さなランプに、聖銀で作れらた棒を近付けた。ランプの中で揺れる天火が棒に吸い込まれる。棒の先端が天火によって赤熱化し、その赤熱化した部分を、院長は頭上の燭台へと触れさせた。
天火が棒から燭台へと移り、小さな発火音と共に天火が灯った。その光が教壇と黒板を明々と照らす。
煌都の学院に共通する儀式であり、天火の神聖さを意識させると同時に、その光によって学識を得るという意味合いを含んでいる。
「今日は特別な講師の方に来ていただきました。諸君もご存じのことと思いますが、煌都ウルクから遥々難民を率いてこられた、継火手カナン様です」
院長が手を差し伸べる。カナンは微笑を浮かべながら、生徒たちに向けて小さく会釈した。
「カナン様は弱冠十八歳ながら、すでに並みの継火手でも成し遂げられないようなことを成されてきました。今日は私の無理を聞いていただき、こうして諸君の前で講義をしていただくことになりました。
では、カナン様。早速ですが……」
はい、とカナンは応じて、教壇の中央へと移動した。
権杖の先端に蒼い天火を灯し、それを頭上の燭台に触れさせる。カナンの蒼炎は即座に燃え移り、一際明るい閃光が放たれた。
カナンと言えば蒼炎、という風に、すでにラヴェンナでは広まっていた。ここまで来る道中でも、幾度も継火を行ってきたが、そのたびに彼女の蒼い炎は、人々に強烈な印象を刻んできた。
そんな継火手が目の前にいる。生徒たちの期待はいや増すばかりだ。普段は真面目に授業を聞かない生徒も、今日ばかりは食らいつくようにカナンの顔を凝視している。
子供とはいえ、そうした興味や好奇心が一斉に向けられると、相応の
だが、これ以上に大きな重圧を何度も前にしてきたカナンにとっては、どうということもない。
カナンは杖を黒板に立て掛けると、小さく息を吸った。
「皆さん、始めまして。院長先生からご紹介に預かった、エルシャの継火手、名をカナンと言います。
先生もおっしゃられた通り、私は今年十八歳になり、継火手として一人前になったばかりでした。それがどういう因果か、大勢の人々の運命を預かる立場に立っています。その過程において色々なことがありましたが……今日は、そのお話はしません」
彼女がそう言った時、明らかにがっかりしたような表情を浮かべた子が、何人かいた。恐らくカナンの波乱万丈の物語を聞きたかったのかもしれないが、それは吟遊詩人がいくらでも語ってくれる。もちろん、幾分脚色されているかもしれないが。
「今日、私は講師としてこの場に呼ばれています。ですので、皆さんの
……と、言っても、退屈なお話をするつもりはありませんし、する権利もありません。私は、格式ばった授業が嫌いな生徒でしたから」
そう言って微笑むと、何人かの生徒がクスクスと笑ってくれた。
「ですから、主題について考える前に、一つたとえ話をしましょう。
皆さんのなかには、記号学の応用による文献読解を修めている方もおられると思います。その方は、普段学んでいることを応用して、ぜひ私のたとえ話を解き明かしてください」
さっき笑ったのは別の生徒たちが、懐から巻物や書物を取り出すのが見えた。そう言った生徒たちは、真面目に勉強をしている一団なのだろう。一方で、近くにいる優等生たちに、本を覗かせて欲しいと頼む生徒もいる。また、
難民や民衆に語り掛ける時もそうだが、カナンは、集団の中に垣間見える個々人の動きを観察するのが好きだった。それを見ることが出来るのは、人々の前に一人で立った者だけなのだ。
「では、始めましょう。題名は『暴れ羊と三頭の犬たち』」