周囲から奇異の目で見られつつも、イスラとギデオンは酒瓶と肴の乗った皿を盗んで、そそくさと逃げ出していた。
星穹の間はバシリカ城の庭に面しており、そこに逃げ込んでしまえば、不慣れな空間と縁を切ることが出来る。他の煌都でもそうだが、こうした大きな建物の中には森を模した巨大な庭園が広がっている。
ある時は密会、ある時は陰謀、またある時は恋愛……また、たまに便所替わりに使おうとする不届き者もいる。
だが、こうした庭が作られる本当の理由は、
「つまるところ、本当は皆退屈しているのだ。この煌都という閉ざされた空間にな」
杯を傾けながらギデオンは言う。しかし、その表情や口調を探っていたイスラは、あまり真剣に聞くべきじゃないなと結論づけた。
ただ、仮に酔っていなかったとしても、ギデオンの口数は増えていたことだろう。ウルクの大坑窟でのことを思い返すと、どうもこの男は退屈に飽いているのだな、と考えずにはいられない。
「なあ」
彼の一歩後ろを歩きながら、イスラは問いかける。
「何だ、闇渡り?」
「あんたの話を聞いてると、一番退屈してるのはあんた自身に聞こえるんだけど」
ギデオンは答えなかった。その代わりに、目の前に見えてきたひらけた場所を指差して「あそこで飲もう」と言った。図星か、とイスラは思った。
実際、その一言がギデオンに与えた衝撃は、存外大きかった。言われた当人でさえ、今まであまり意識してこなかったことだ。あるいは、意識すべきでない、と理性が抑え込んでいたのかもしれない。
だから、エルシャの剣匠ともあろう人間が、茂みの陰に蹲っていた誰かにつまづいて、危うく転びかけてしまった。
「うぉっ!?」
「うぎゃっ!?」
しかし、つまづかれた方は、ほとんど蹴り飛ばされる形で頭から地面に突っ込んでしまった。
「っ、失礼! まさか人がいるとは……」
ギデオンが慌てて駆け寄る。そのくせ、片手に持った杯は手放さない。それどころか、転びかけたというのに、中身は一滴も外に飛び出ていなかった。
(何やってんだか……)
そんな珍事を、一歩離れたところでイスラは眺めていた。自分を散々に
だがそんなイスラも、ギデオンが蹴飛ばした人間の姿を見たときには、さすがに目を見開いた。
「あんた、さっき広間の上座の方にいた……」
名前は知らないし、顔を見た記憶もイスラは一度しかない。だが他の人間よりも明らかに上等な服装や装飾品が、彼の身分を証明していた。
「グィド・ゴート殿下……!」
ギデオンが慌てて彼の身体を抱き起す。グィドはぐったりとしていたが、それは蹴飛ばされたからではなく、元々しこたま酒を飲んでいたためだ。曇りかけの月明りだけでも分かるほど顔が赤らんでいる。
「や、やあギデオン卿……すまないね、みっともない所を見せてしまって。こんなところにいた僕が悪いんだ、謝らなくても良いよ……」
酒臭い吐息としゃっくりを同時に吐き出しながら、グィドは弱々しい声でわびた。
「顔に傷が出来ていますな。小さな傷とはいえ、大切な御身です。すぐにでも手当を」
ギデオンが言いかけたその時、グィドの顔がくしゃりと歪んだ。後ろから見ていたイスラは、内心「大の大人がする顔かよ」と思ったが、どうやら今出来た傷ではないらしい。
「うっ……うぐっ、ぐ、ひふぅ……っ!」
「で、殿下!?」
「い……いや、違うんだギデオン卿、そうじゃない……ふぐっ……!」
「なんかあれだな、猫にでも引っかかれたみたいだな」
イスラのその一言がきっかけとなり、何とか崖っぷちのところで耐えていたグィドの涙腺は、あっけなく崩壊した。
◇◇◇
「何もかも僕が悪いんだ……」
月を映し出す小さな湖のほとりで、男三人が皿と酒を囲みつつちびちびと杯を傾けている。風が吹くたびに木々がそよぎ、水面にさざ波が立ち、枝につるされたブランコがきぃきぃと音を立てた。
そこにグィドのすすり泣きと独白が加わって、早一時間が経とうとしている。ギデオンはきっちりと社交辞令を守っていたが、イスラはそろそろ皿と酒瓶の中身が尽きることの方が心配になってきていた。
いくらなんでも、ばったり会ったばかりの男の泣き言を聞き続けるなど冗談じゃない、と言いたかった。肴と酒でも無いとやっていられない。
しかしそんなことを口に出せば、ギデオンが「無礼討ち」とばかりに拳骨を降らせてくる。現に、一時間前についうっかりグィドを泣かせてしまった時も、頭のてっぺんに一発貰っていた。
「僕みたいな不甲斐ない男、マリオンの夫になるべきじゃなかったんだ……でなきゃ、彼女をこんなに苦しめることだって……」
「殿下、あまり自身を貶めないことです。自分で自分に言った言葉は、時として他人に言われるよりも長く残ります」
「ありがとう、ギデオン卿。さすがに剣匠と言われるだけあって、立派な見識をお持ちだね……」
「恐縮です」
「……でも駄目だ。僕は君みたいに自信を持てないよ。だって、君は天下無敵の剣豪、当代最強の天才だろう? 僕みたいな、凡人の出来損ないとはくらべものにならない……」
そうぼやきつつ、グィドはなみなみと注ぎ足した葡萄酒を一気に飲み干した。唇についた水滴を手の甲で乱暴に拭いながら、一息で飲み干し、むせる。ギデオンが彼の背中を叩いた。
「げっ、ぇほっ……! ……はぁ」
「チッ」
イスラは舌打ちした。ギデオンが咎めるように睨みつけるが、グィドは怒りを表さなかった。それどころか「すまないね」と謝りさえする。
最初、イスラが闇渡りであることに気付いた時は動揺していたが、彼はそれ以上の反応は見せなかった。それどころかこうして同じ酒席に座らせて、自分の弱みを延々と聞かせ続けている。正直なところ、イスラは弱音や泣き言ばかり吐くグィドを怒鳴りたい気分だった。だが、彼が煌都の人間にありがちな拒否反応を示さなかったこともあり、何とか堪えていたのだ。
「……分かっているさ、自分でも女々しいってことくらい。本当なら、闇渡りである君に侮蔑されたら怒るべきなんだろうけど……君が僕を見下すのは正しいよ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。俺は、誰かを見下せるほど上等な人間じゃない。そこまで調子づいちゃいないよ」
「それはすまない……けれどね、僕は正直なところ……この世の中の英雄と呼ばれる人たちのことが、心底羨ましいんだ。ギデオン卿や、君のこともね」
だってそうだろう、とグィドは杯の中の葡萄酒を見つめたまま呟く。
「煌都から一人飛び出した美貌の継火手と手を携えて、幾度も危険や戦いを乗り越えた末に、困ってる人たちを連れてエデンまで行こうって言うんだ。本が何冊も書けそうな大冒険じゃないか。
カナン君が凄い人だっていうのは皆知ってるよ。でも、そんな彼女を守り続けてきた君だって凄い人じゃないか。きっと、君にも彼女と同じくらいの天性の賜物が……」
「寝言を言うのもそこまでにしてくれ」
グィドはびくりと肩を震わせた。本物の闇渡りが放つ、殺気を含んだ声は、宮廷のなかで育ってきたグィドにとってあまりに刺激的過ぎた。
顔をあげると、金色の瞳が真っ直ぐ自分を射抜いていることに気付いた。昔、興行師が連れてきた虎を見た時のようだった。その頃はまだ小さく、うなだれ元気の無くなった虎でも怖いと思った。しかし、今目の前にいる若い闇渡りの方が、記憶の中の虎よりも何倍も恐ろしかった。
守火手とは言え一介の闇渡りが、ラヴェンナの王配を睨みつけている……そんな剣呑な状況にも関わらず、今度はギデオンも何も言わなかった。ただ無言で杯を傾けながら、イスラの二の句をじっと待っている。
「俺が素っ裸で生まれた時、持ち合わせていた物なんて何もありゃしない。あるのは、後になって死ぬ気で覚えた知識や技術ばかりだ。あいつみたいな才能なんて何一つ持っちゃいない。
そんな俺が……あいつの隣にどんな思いで立っているか……天性の賜物だと? そんな軽い言葉で片づけられちゃ堪らねぇよ!」
イスラは杯を地面に叩き付けた。中身がこぼれ、芝生に染み込んでいく。
「……そんなに辛いのなら、どうして君は……」
グィドの
「一緒に居たいからに決まってるだろッ!!」
イスラの大声に驚いた鳥たちが、一斉に木々の中から飛び立っていった。そのせいでイスラは、ギデオンが微かに笑いを漏らしたことに気付かなった。
「俺だって、自分の格ぐらい弁えてるよ! 煌都の連中になんて思われてるかなんて、察せないわけないだろ!
でも……それでも、あいつの守火手でいたい。だから血の呪いだって振り切って、必死になって食らいついてるんだろうが!」
あんたはどうなんだよ! イスラは身を乗り出して、グィドの額に指の腹を押し付けた。
「黙って聞いてりゃ、メソメソメソメソしやがって。あんたそれでも男か。嫁さんに認めてもらない? だったら認めてもらえるように頑張るしかねぇだろ。答え出てンのにいつまでもくっちゃべってるのは、手前の覚悟が足りないからだろうが!」
最後の一言と同時に指に力を込めると、グィドはあっけなく転がされた。イスラは肩を激しく波立たせた。自分でも驚くほどに息が上がっていた。
「悪い酔い方だな、闇渡り」
今まで黙っていたギデオンがぼそりと制止した。そう言われて初めて、視界が微かに揺らいでいることに気付いた。少しだけ冷静になり、驚いたまま固まっているグィドの姿も見えてくる。
「……悪い、熱くなりすぎた」
ちょうど酒も肴も綺麗に無くなっていた。イスラは空になったそれらを携えて、一足先にその場を立ち去った。
残されたグィドは、イスラに突かれた額に手を当てたまま、金縛りにでもあったかのように止まったままだった。名残惜しそうに空の杯を弄んでいたギデオンが「大丈夫ですか?」と声を掛ける。
「奴に代わって、謝罪させていただきます。卑賎の出ですので、儀礼というものも分かっていません。
しかし、あの闇渡りが怒鳴ったことには、小生も大方同意しています」
「……分かっているさ。悪いことを言ってしまった。
なかなか、良いことを言うね、彼……名前はなんて言ったかな?」
「イスラ、という名前だったかと」
「イスラ……
グィドがそう言うと、ギデオンはくくっと喉を鳴らした。「まだまだ、英雄などという格ではないでしょう。落ち着きが無さすぎる」
「君から見たら、誰だってそうだろうさ」
グィドは、酒気のせいでジンジンと痛む傷口に触れた。「猫に掻かれたみたい」な三本の爪痕。そう言ったイスラの頬に刻まれていた、大きな傷跡。彼がまだこの場にいたなら、きっともう一度怒られたかもしれないが、それでもグィドは呟かずにはいられなかった。
「格好良かったなぁ、あの傷……」