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【第百五八節/英雄論 上】

「うああああああああっ!!」


 明かりの無い寝室に、獣のような咆哮が響き渡った。マリオンは髪を額に張り付かせながら、目につくものを手当たり次第破壊していた。


 贅を凝らした調度品が宙を舞う。白パンの生地のように柔らかなベッドは無残にも引き裂かれ、解剖された遺体のような有様だった。


 彼女も一応は継火手であり、体内に天火を宿しているため、膂力は普通の人間よりも強い。子供と同程度の重みの銅像であろうと、軽々と投げ飛ばすことが出来る。


 部屋の外では侍女たちが待機しているが、鈍い音や罵声、怒声が聞こえてくるたびに、身を寄せ合って震え慄いた。


 マリオンが発作的に癇癪を起こすのはままあることだが、侍女たちには到底手がつけられない。一度、年配の侍女が止めに入ったことがあったが、髪を掴まれ引き摺り回された。指に一掴みの髪が絡まって、初めてマリオンは落ち着きを取り戻したが、その侍女は真っ青になって城を出ていってしまった。


 だが、一国の女王をこのまま狂乱させておくことも出来ない。誰かが生贄になってでも、彼女を止める必要があった。最も、止められる保証などどこにも無いのだが。


 明らかな貧乏くじだが、王配グィドだけは、率先してその役回りを受け入れた。


「……マリオン、入るよ」


 声が震えないように気を付けながら、グィドは扉を三度叩いた。返事の代わりに、扉に何かが投げつけられ、破城槌でも打ち付けられたかのような音が鳴り響いた。


 彼は振り向いて、後ろで固まって震えている侍女たちに微笑んで見せると、重厚な扉をそっと開いた。


 以外にも、待ち伏せ攻撃は飛んでこなかった。その代わりに、部屋の真ん中で蹲ったマリオンから、虎も逃げ出すような凄まじい一瞥をぶつけられた。


「……入って良いなんて、言ってないわよ」


 くぐもった声でマリオンは唸る。座り込んだ彼女を見て駆け出しかけていたグィドは、その殺気を孕んだ声で無理やり押しとどめられた。唇の片方だけが三日月のように吊り上がっていた。


「ご、ごめんよ。でも、君が心配だったんだ……」


 怖くない、と言えば嘘になる。間近でマリオンと接してきたグィドだからこそ、今の状況がどれほど危険かよく心得ていた。


 それでもなお声を掛け続けたのは、賞讃に値するだろう。


 放っておけなかったのだ。散々に荒れ果ててしまった暗い部屋のなかで、ぽつねんと座り込んでいるマリオンをそのままにしておくことなど、彼には出来なかった。


「もし、君の」


 だが、その迂闊な言葉が、彼女の怒りに油を注いだ。気化した油が燃焼する時のように、彼女の怒気は一瞬で膨れ上がり暴発した。



「誰のせいだと思ってるのよッ!!」



 声を上ずらせながら、マリオンは怒鳴った。急に噴き出した怒りの前に、グィドは身を竦めることしか出来ない。


「あんたみたいな愚図と結婚させられて、私がどれだけ惨めな思いをしてるか……あんた、本当に分かってるの!?」


「…………」


 グィドは何も答えない。答えられるはずもなかった。マリオンが望んでいるのは、彼から明確な回答を聞くことではない。もっと言えば、口を開いてほしいとさえ思っていないだろう。


「糞ッ、糞ッ……何で、エルシャのカナンがあんなのを連れていて、私の守火手がこんな奴なのよ……!」


 マリオンは手を握り締めて、何度も床に叩き付けた。床は大理石で出来ているため、当然彼女の手も痛む。自分自身でやっているにも関わらず、マリオンはそれがとても理不尽に思えた。何故自分が手を痛めなければならないのか、と。


 傍らで容赦のない言葉を浴びせられたグィドの心境など、彼女の眼中には無かった。


 それでもなお、グィドは手を差し伸べようと膝をつく。しかし、その距離は非常に危険だった。


「近寄るな!」


 マリオンの指が、グィドの顔に三本の線を刻んだ。彼は咄嗟に身を引いたが、態勢を崩して無様に尻もちをつく。引っ掛かれた頬からは鋭い痛みが走り、皮膚の表面にぬるい血液が滲み出していた。だがそれ以上に、衝撃の方が大きかった。


 そして、傷をつけた当事者であるマリオンもまた、自分の手が血を流させたことに驚いていた。一瞬、ハッとした表情で彼の顔を見つめるが、その表情はすぐに歪んだ。両腕で強く自分の身体を抱きしめ、険しい声で「出て行って」と唸る。


「あ……」


 何かを口に出そうとしたが、彼の声帯からはどんな言葉も湧いてこなかった。マリオンが先程よりもさらに大きな声で怒鳴ったため、グィドはそれに従うしかなかった。




◇◇◇




 主のいなくなった星穹の間では、顔合わせを兼ねた宴会が開かれていた。主催者はマリオンということになっているが、当人は身体の不調を理由にそうそうに引き上げてしまっていた。


 だが、彼女が居るか居ないかなど、大した問題ではなかった。ラヴェンナ貴族にとって、新しく王位についた女性の価値などその程度でしかないのだ。ある者は社交という言葉に従って交わるべき者と交わり、またある者は供される食事にそれとなく手を出していた。純粋に旧交を温める者もいるし、扇を寄せ合いながら噂話に興じる婦人たちもいる。


 そんな中にあって、一人イスラだけは安堵の溜息をついていた。


 カナンやオーディスが質問攻めにあっている今、つるむ相手もいないため、壁際で黙って腕を組んでいるしかなかった。それに、その方がいくらか気分が楽だった。


 どういうわけかは分からないが、この広間に入った瞬間から強烈な殺気のようなものを感じていた。だが、本物の人殺しが放つ殺気に比べればどこか甘くて、慄くほどではなかった。ただただ息苦しかった。


 自分でも意識しないうちに、指先が首元へ向かっていた。クラバットの圧迫感が鬱陶しい。それがあまりお行儀の良い行為ではないと気付いたのは、少し離れた場所からひそひそと囁き合う声が聞こえたからだ。


 見ると、年若い……少女と言っても差し支えのないような女性たちが顔を寄せて囁き合っている。それでいて、視線はずっとイスラの方に向けられていた。


 俺の顔に何かついてるのか、とイスラは思った。だが、金色の瞳が彼女らの視線と重なった瞬間、相手は頬を染めて扇の後ろに顔を隠してしまった。


(そんな反応されても、困るんだけどな……)


 ふと自分の頬に手を当ててみると、左側に三本の爪痕があることを思い出した。顔を洗う時に、水面に映った顔を見ることがあるが、深く意識することはそうそうない。だが、この場に集まった人々からは、この上なく奇妙に思えるのだろう。


(それにしても)


 エルシャで捕まった時のことを思い出した。カナンと一緒に逃避行をやらかし、挙句の果てにギデオンにのされた・・・・後のことだ。檻の中に放り込まれたイスラは、獄吏たちから野犬でも見るかのような扱いを受けた。


 今は、それが珍獣扱いに変わった程度だろう。イスラは内心そう思っていた。


 物珍しさが、魅力として通じる期間は長くない。見慣れてしまえば、異質な存在はかえって目障りになってしまう。それが彼の考え方だった。いささか悲観的になるのは致し方ないだろう。


 あの日、気絶したカナンを抱えながらエルシャの城壁を駆けのぼった時。眼前に広がるエルシャの大燈台ジグラートと、溶岩のような光の奔流を目の当たりにした時、こう呟いたものだ。



「やっぱり、ここは俺の居るべき場所じゃない」



 それは単に独り言で、返答などあるはずがないと思っていた。


 だが、それが返ってきた時、イスラは驚きよりも先に懐かしさを覚えていた。



「その通りだ、闇渡り」



 声のした方に視線を向けると、見覚えのある男が立っていた。


 銀色の髪。鍛え上げられた体躯と、それを包む黒い軍服。腰には鞘も柄も無骨な長剣を帯びている。顔立ちは端正……とはいえ美男子と形容できるほどでもない。だが、その瞳の中には、一度見たら決して忘れらない鋭い光が宿っている。


「エルシャの……剣匠……」


 イスラは呆然と呟いた。だが、心のどこかで得心している自分がいた。最後に別れた時から、またどこかで顔を合わせる時が来るだろうなと感じていたからだ。


 それはある種の期待であったのかもしれない。しかし、何に対しての期待であるのか、そこがイスラ自身にも今ひとつ分からなかった。


 そんな彼の感慨などお構いなしに、ギデオンは右手に掴んだ酒瓶と、左手の指に挟んだ二つの杯を掲げて見せた。


「私も少々居辛く感じている。積もる話もあることだ、少し付き合え」

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