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【第百五七節/異邦人、イスラ】

 煌都ラヴェンナの中枢であるバシリカ城。そのさらに中心部に位置するのが、星穹の間である。


 練兵場が丸ごと入りそうな巨大な空間の壁面は、名前の示す通り藍銅鉱を大量に使って造られている。貴石で飾られた濃紺の壁には、世界ツァラハトの歴史を題材に取った数々の名画が描き込まれていた。


 そして、アーチを描く天井には、夜空に浮かぶ星々が実物と全く同じ配置で描かれている。


 だが何にも増してこの空間を飾りあげているのは、この場に集まった人々と言うべきだろう。ラヴェンナ貴族、祭司、他の煌都の代表たち……いずれも今現在、この世界の実権を握っている人種だ。



「下らない……」



 だが、玉座に座しているマリオンには、何もかもが色褪せて見えた。レースの垂れ幕を落としているからではない。人も、城も、何もかもが色褪せて見えた。


 居並ぶ貴族たちは、見た目は煌びやかでも、腹の内は真っ黒だ。どこまでも俗物根性が染み付いている。ラヴェンナに到着したてのカナンが、どれだけ慌てふためいてやってくるか見物しようというのだ。


 もちろん、それを企てた自分を俗物でないと言うつもりはない。いくら影で無能と罵られていようと、マリオンは自分自身の力量をよくわきまえていた。


 だが、だからといって、この胸の内の不快さを捨て置くことも出来なかった。



 ともかく、カナンが気に入らない。



 三年前に一度会ったきりだが、あの時の邂逅だけで、マリオンはカナンのことが嫌いになっていた。闇渡りの難民などという厄介事を持ち込んだこともあるが、何よりカナンという女の影につきまとっている、死んだ姉の幻影が鬱陶しかった。言動といい、考え方といい、何もかもがエマヌエルを思い出させる。


 そもそも、マリオンは姉のことが嫌いだった。物心ついた時にはすでに、自分を受け入れてくれるような土壌は残っておらず、評価や名声は全て姉の手中にあった。ならばどうして生まれてきたのかと言われたら、こうして姉の予備になるためだったのだ。


 だから、今回の謁見では盛大にカナンに恥じをかかせてやりたい。自分がカナンをやり込めることが出来たら、エマヌエルにも勝てたような気分になることだろう。マリオンはそう思った。


 広間の扉が開く。それと同時に、楽隊が一斉に喇叭を吹き鳴らした。その華やかな音の中を、継火手カナンはゆっくりと歩いてい来る。ラヴェンナ貴族や、他の煌都の代表たちの視線が一点に集中した。


 彼女の姿を見た時、マリオンはどうしても姉の姿を連想せずにはいられなかった。当然と言えば当然だ。彼女が来ているダルマティカは、生前にエマヌエルが愛用していた物と全く同じだからだ。そして、そんな物を用意出来る人間は一人しかいない。


「オーディス……」


 マリオンは憎々し気に呟いた。だが、彼女の怒気を察した者は誰もいない。貴族たちはカナンの姿に目を奪われ、レースの後ろにいるマリオンのことなど眼中に無かった。


 継火手カナンは、様々な意味で「話題の人」だ。衆目を一斉に集めるのは当然だろう。彼女の人格は高く評価されているが、一方では「ラヴェンナに厄介事を持ち込んだ張本人」と見られたり、「闇渡りを守火手に選んだ不届き者」という意見も出ている。


 だからこそ、この場で自慢の・・・守火手を披露させてやれば良い……マリオンはそう考えていた。


 貴族の中にも底意地の悪い者はいる。彼らからしてみれば、闇渡りなど笑いの種に過ぎない。どうせ文明的な生活とはかけ離れた、不潔な生活しかしていないのだろうと高をくくっていた。


 マリオンもそう思っている。そもそも彼女は、生まれてから闇渡りを見たことなどほとんど無かった。


 だから、一番最後に星穹の間に入ってきた青年が、実は生粋の闇渡りであることに気付くまでに、結構な時間が掛かった。


 黒く艶やかなジュストコートと、同じ色のズボン。ベストとブーツは白。質素ともとれる二色が中心だが、コートの袖や襟元には金糸による精緻な刺繍が施されている。それらも決して派手になり過ぎず、かといって存在感を失わない絶妙な線を突いていた。


 総じて、貴族的でありながら厳格な雰囲気を醸し出す衣装だった。今のラヴェンナではより華やかな服装の方がもてはやされるし、実際にいささか浮いて見える。



 だが、これ以上無いほど、イスラの容姿に合った服だった。



 入ってきた青年が闇渡りだと知れるまでに、広間全体で一拍ほどの間が必要だった。そして皆が気付くのと同時に、謁見の最中であるにも関わらず、参列者の間からどよめきが起こった。


 全員が全員、彼を歓迎したわけではない。もっと言えば、歓迎した人物などほとんどいなかった。


 だが、決して少なくない数の人間が、彼の姿に感銘を受けたのも確かだった。一時的であるにせよ、目を奪われてしまった婦人や令嬢もいる。


 実際のところ、イスラがラヴェンナ貴族の服を着こなせたことには、ある事情が絡んでいた。


 煌都ラヴェンナとその管轄区域は、旧世界の文明や風俗を最も色濃く受け継いだ地域である。技術的な知識や歴史的な記録は相当数失われてしまったが、残ったものも当然ある。その一つが貴族社会特有の衣類なのだが、その意匠はかつて太陽があった時代からさして変化していない。


 つまり、元々は肌の白い人間がもてはやされていた時代の意匠が、そのまま残ってしまったのだ。


 肌の色に関する美意識が百八十度転換してしまった今日こんにち、ある意味では、ラヴェンナ貴族たちは正確な着こなし方が出来ていないのである。イスラの白い肌の方が馴染んで見えるのは、当然と言えば当然だった。


 だが、もちろんそれだけではない。肌の色だけが決め手になるのなら、世の中の誰も、服装のことで悩むことはないだろう。


 普段乱暴にくくっている髪は、丁香クローブ油で整えたうえで、青色のリボンでまとめられていた。存外に整った顔立ちに加え、満月を思わせる金色の瞳や引き締まった口元は精悍な印象を与える。それでいて刺々しさを感じない、不思議な落ち着きがあった。それらはラヴェンナの人々にとって、伝え聞く闇渡りの容貌とは全く異なったものだった。


 異国情緒、という古い表現があるが、ラヴェンナ貴族の心をとらえたのはまさにそうした気分だった。そうなると、彼の頬につけられた三本の爪痕さえ、恐ろしさやおぞましさとは違った印象を醸すようになる。


 カナンが拝跪し、他の者がそれに倣って片膝をついた後も、人々の視線はイスラに注がれたままだった。形式通りのやり取りが進む中、劇作家気取りのある貴族は物語の題材にしようと考え、またある貴婦人はイスラの服の袖口から覗く太い手首に熱い視線を注いでいた。


 そんな野次馬根性に気付かないほど、イスラも鈍くはなかった。自分が明らかに目立ってしまっていることには気づいていたが、それが良いのか悪いのか決めるのは後回しにした。


 今は動きにくい服の堅苦しさ、息苦しさの方が大きかった。だがそれに勝って、レースで覆われた玉座から向けられる、焼鏝やきごてのような視線の方が、イスラには気がかりだった。

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