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【第百五六節/ラヴェンナ入城】

 ラヴェンナ管区の心臓部であるゴート家直轄領は、政治的中枢であるにも関わらずあまり交通網が発達していない。今でこそ煌都という政治、経済、文化の中心だが、元をたどれば要塞であり、必要以上の主要道路は敵の侵攻を容易にしてしまうからだ。


 交易商や騎士団、巡礼者、旅芸人、誰にとっても旅のし易い地形ではない。小高い丘が無数に連なり、歩くだけでも相当な疲弊となった。主要道路の道幅はさほど広くなく、不必要なほど蛇行している。


 いっそのこと道路を離れて歩けば……そう思って道を離れる者もいるが、丘は一面に石や岩が転がっており、華奢な靴ならば数日と持たずぼろぼろになってしまう。足の裏には痣がいくつも出来る。それがラヴェンナの丘だ。


 一方で、闇渡りの隠れる場所を潰すため、林や森は徹底的に伐採されている。騎士団の巡回回数も多く、治安という点で言えば、王家直轄領ほど徹底して守られている土地は他に無い。


 そして、そんな悪意さえ感じさせる難路を越えた先に、煌都ラヴェンナの大燈台ジグラートと王城バシリカの威容が姿を現すのだ。


 周囲には農村や耕作地が広がっているが、他にも旧時代の建造物の跡が地面から顔をのぞかせている。しかし、それは他の煌都でも同じことだ。一つ違うことがあるとすれば、時々、何百年も前に使われていた武器の残骸が掘り起こされることくらいだろうか。


 カナン率いる難民団が逗留を許されたのも、そうした旧時代の残骸が転がる場所だった。


 元々招かれざる客人であることは重々承知している。だが、今回は今までと少し事情が異なっていた。


 難民たちを取り囲むようにずらりと整列した歩兵たち、城壁の上から密かに照準を向けている大型弩。何かの手違いが起きれば、すぐさま攻撃を受けそうな状況だ。


 もちろん、現在の情勢下でそのような迂闊なことをするとは思えない。しかし、難民側に誤解を生じさせかねない構えでもある。


 それでも、闇渡りたちは何も言わなかった。カナンが自制を呼びかけるまでもなく、彼らは粛々と自分たちの生活を守った。無論、胸中穏やかではない者もいただろうが、ティヴォリ遺跡の時のように率先して騒動を起こそうとする者は皆無だった。


 カナンにとって、嬉しい変化だった。


 しかし、喜んでばかりもいられなかった。




◇◇◇




「バシリカ城への登城命令、ですか……」


 使者から渡された書簡に目を通し、カナンはこめかみを軽く摘んだ。


「女王陛下は直々に、ここまで難民を率いてこられたカナン様を称美したいとお望みです」


「……今すぐに参上しないと、失礼にあたりますね」


「ラヴェンナ貴族の御歴々はもとより、各煌都の使節の方々も、カナン様の御到着を心待ちにしておられます」


 はい、とも、いいえ、とも言わない、絶妙に逃げ場を潰す受け答えだった。彼らの立場からすれば、雲の上の人々を大勢待たせているのだから、カナンにはどうしても来てもらわなければならないのだ。


 カナンは「分かりました」と答えた。


「少し準備がありますので、その点は御容赦頂けるよう、女王陛下にお伝えください」


「かしこまりました。お時間は、如何程でしょうか」


「……登城の時間も含めて、一時間ほど頂きたいですね」


「そのようにお伝え致します」


 使者が風のように去って行った後、カナンは小さく溜息をついた。


 事前のやり取りを見ていたオーディスやペトラは、カナンが何らかの無理難題を吹っかけられたのだと悟った。


「何か書いてあったのかい?」


 ペトラの質問に対して、カナンは「はい……」と歯切れ悪く答えた。そして、命令の書かれた書簡を彼女に手渡す。


「なになに……ラヴェンナの統治者であり神の炎の守護者たるマリオン・ゴートの名において命ず。次の者、表彰のための謁見を賜る故、速やかに登城されたし。


 エルシャの継火手カナン、ウルバヌス辺境伯オーディス・シャティオン、ウルバヌス筆頭祭司ヒルデ・ブラント、その守火手ギスカール、ヴェンド領領主クリシャ・ツィルニトラ、闇渡りのイス……イスラ!?」


 ペトラの叫びに合わせて、天幕の中が一斉に騒ついた。カナンは額に指を当てながら再度溜息をついた。


「ラヴェンナに着いたら必ず謁見しなければならないと思ってましたけど……思っていたより遥かに早かったですね」


「そりゃそうだよ、こっちはまだ荷解きだってろくに出来ちゃいないってのに」


「それよりもイスラさんの件です。もちろん、カナン様の守火手だから、登城を命じられるのは当然かもしれませんけど……」


 回ってきた書簡を読みながら、ヒルデも眉間に皺を寄せた。


「準備なんて……」


 カナンは天幕の天井を仰いだ。これは明らかな嫌がらせだ。到着して間もないところに登城命令を出すだけでも嫌らしいが、その上満足に準備も出来ない。ラヴェンナ組はちゃんとした正装を揃えているが、イスラだけは例外だった。


 正直なところ、格式を重視するラヴェンナならば、最初からイスラの存在を無視すると思っていた。それがこのような形で利用してくるとは想定外だ。


「何だか、名前の順番にも悪意を感じますね……ヒルデ様と私が前後で繋がっているのに、わざわざカナン様とイスラを分けて書いてるあたりとか……」


 ギスカールは自前の癖っ毛を掻きながら呻いた。書き方といい、やり口といい、随所に嫌らしい意図が感じられる。


「どう考えても嫌がらせじゃないか!」


 回ってきた書簡を読みもせず、クリシャはそれを放り投げた。


 机の上を弧を描きながら通り過ぎた書簡は、最終的にオーディスの手中に納まった。


「……陛下の悪戯癖も、困ったものだ」


「落ち着き払っている場合かい? 命令されてる以上イスラを連れていかせるしかないけど、そうしたらラヴェンナ貴族の前で恥をかかされるんだよ。カナンも、イスラあいつも……」


 付き合いが長い分、ペトラにはラヴェンナ側のやり方が赦せなかった。自分たちが強気に出られないのを良いことに、こんな陰湿な手口を使ってくる相手を好けるはずがない。元々からりとした性格をしているだけに、余計に怒りは募るのだった。


 だが、オーディスは腕を組んだまま不敵に笑っていた。そんな彼に一同の視線が集中する。


「オーディス、あんた、ずいぶん余裕だけどさ。まさかこうなるって分かってたのかい?」


「……マリオン陛下のことは良く知っている。少々短気なこともね」


「と、いうことは」


「事前に用意はしておいた。心当たりはあるだろう?」


 あっ、とカナンは声を出した。ここ数日イスラがダンスの練習をさせられていることは知っていたが、それを監修していたのはオーディスだ。彼が、イスラが公衆の前に引き出される可能性を考えないはずがない。


「……また先読みしたのかい」


 ペトラが呆れ気味に呟く。オーディスのあまりの周到ぶりに不気味さを覚えることも多々あるが、最近は別の印象を抱くことの方が多くなった。


「ああ、こんなこともあろうかと」


 オーディスはいつも通り涼やかな微笑を浮かべているが、いくらか鼻が高くなっているようにペトラには見えた。




◇◇◇




「ありゃマメな性格って言うより、人を出し抜くのを愉しんでるんだよ」


 オーディスの使っている天幕の前で、ペトラはカナンに向かってそうこぼした。


「でも、いつもこうして助けてもらっているじゃないですか。悪く言ったらダメですよ」


 正装したカナンがやんわりとなだめる。白いブラウスと黒いズボン、その上に没薬樹の刺繍が縫い込まれた純白のダルマティカ。胸元には翼と杖と火の意匠を合わせたペンダントが揺れ、嵌め込まれたサファイアが蒼い光を反射させている。手には無論、継火手の象徴である権杖を握っていた。


「……悔しいけど、そうなんだよねぇ」


 はぁ、とペトラは溜息をついた。最近は彼に対する不信感よりも、やり込められている悔しさの方が大きくなっていた。相変わらず胡散臭いところもあるのだが、当人は無意識のうちにそう振る舞っているようにも見える。


 それに、彼がカナンやイスラを軽んじたところを、ペトラは一度も見たことがない。それだけでも、少なくとも悪い人間ではないのだろうな、と思う。


「良く分からない奴だよ、まったく」


「すまないが、そういう性分だ。我慢してもらいたい」


 どのあたりから聞いていたのか、天幕から出てきたオーディスが意地悪く笑った。


 彼もまた、ラヴェンナの貴族らしく洗練された衣装に身を包んでいる。以前ウルバヌスで見た服装と同じで、真紅のジュストコールを中心に上手く纏められていた。ただ、指輪も含めて一切装飾品をつけないのは、彼の頑固なこだわりなのだろう。


「相変わらず、良く似合いますね」


「恐縮です。ですが、賛辞は彼に譲りましょう」


 そう言って、オーディスは首を傾げながら悪戯っぽく片目を瞑った。そして芝居がかった仕草で、カナンを天幕の方へと案内する。「覗いてみてはいかがですか?」


「え、ええっ!?」


 カナンの顔が紅潮するのと、杖の先端の天火がボッと燃え上がるのはほぼ同時だった。


「もうほとんど着替え終わっています。心配は無用ですよ」


 くつくつと笑い声を噛み殺しながら、オーディスは小声で囁いた。


「そ、それじゃあ……」


 泥棒のように中腰になりながら、カナンはそっと天幕の垂れ布に指を掛けた。そして中を覗くのとほぼ同時にはっと息を呑み、その場でくるりと回転して後ろ手に布を引っ張った。


「どったの?」


「……っ!」


 カナンは林檎のように顔を赤くして、無言のままブンブンと首を横に振った。オーディスは相変わらずくつくつと笑い、ペトラはますます怪訝な表情を浮かべる。


「……私、イスラ連れて行きたくないっ!」


「えぇっ……?」


 いきなり何を言い出すんだ、とペトラが思った時、布の隙間から腕が生え出てカナンの頭を小突いた。


「何を馬鹿なこと言ってるんだ。急いでるんだろ、そこどけよ」


「ああっ!」


 カナンが止める前に、イスラは無理やり天幕の垂れ布を持ち上げていた。


 果たして、そこに立っている青年を見た時、ペトラも確かに唸らざるを得なかった。やり込められたようで悔しいのだが、それは感嘆の唸り声だった。

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