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【第百五五節/継火手たちの昼食会】

「ハイッ、いち、に、さん、し! もう一度いち、に、さん、し!」


「……」


 カナン率いる難民団の一角で、奇妙な光景が現出していた。


 筋骨隆々の老騎士ゴドフロアが、イスラの手を取ってダンスのステップを踏んでいる。少なくとも当事者の片方はそのつもりだ。


 しかしもう片方のイスラはと言うと、完全に目が死んでいた。


 彼とて小柄なわけでもなければ非力なわけでもない。が、ゴドフロアの常人離れした膂力と体格の前では、文字通り大人と子供ほどの差がある。踊っているというより、振り回されていると言った方が適当だろう。


「どうなされた守火手殿! 足が遅れておりますぞ!」


「いや、遅れてるっつうか、地面に着かないんだが」


「ダンスは相手と呼吸を合わせることが何より肝要! そんなステップでは恥を搔きますぞ!」


「話聞いてくれよ」


 イスラの抗議など歯牙にもかけず、ゴドフロアはイスラを振り回し続けた。


 そんな彼らの様子を、少し離れた位置に立っていたオーディスは、優雅にコーヒーを啜りながら見物していた。




◇◇◇




「イスラがダンスの練習?」


 昼食のパンをぱくつきながら、カナンは目を丸くした。手元にあった書類を眺めながらの食事だったが、思わず文字を追う視線が止まってしまった。


 同じ席で昼食を摂っていたペトラが、木苺のジャムを掬いながら「らしいよ」と答える。


「それもラヴェンナの宮廷式の、最高に格式ばったやつらしいね。何だってそんなの……」


 艶やかに光るジャムをたっぷりと塗りたくったパンに、ペトラは大口を開けて齧りついた。


「あら、始めたのは書写の練習だって、ザッカスが言ってましたが」


 部下から聞いた話を披露しながら、ヒルデは小さくちぎったパン生地を自前の香草茶に浸してから、小鳥のようについばんだ。


「他のことはともかく、彼の書写の技術は、第一級の筆耕としてやっていけるだけの値打があります。それに、ああ見えて丁寧なところもありますから、良い教師になると思いますよ」


「まあ、ザッカスさんはそうかもしれませんけど……二つ並行して練習してるってことですか?」


「いや、おれが聞いた話だと、あのアブネルとかいう闇渡りを口説いて、闇渡りの武術を仕込んでもらおうとしてるそうですよ」


 一人だけ剛快に羊の骨付き肉を齧りながら、クリシャが割って入った。


「アブネルって……イスラ嫌いの急先鋒じゃないか」


「そう。だから、何度も門前払いされたって。まあアブネル本人は割と丸くなった感じがするけど、他の連中は揃いも揃って、繁殖期の雌竜みたいに気が荒いから」


「……ここ数日妙に騒がしかったのは、それのせいだったんですね」


 はぁ、とカナンは溜息をついた。良くも悪くもイスラらしい話だと思った。


「ヒルデんとこの守火手も、結構触発されてるそうじゃないか。どうなのさ?」


 クリシャが身を乗り出してたずねる。長身の彼女が屈むと、他の者からは机が縮んで見えた。


 ヒルデは綺麗に姿勢を保ったまま、落ち着いた仕草で茶を啜る。


「こてんこてんにされてるそうですよ。全然敵わないって嘆いてました」


「そう言う割に、結構冷たいじゃないか。傷の手当てだってしてやらないんだろ?」


「それくらい、自分でやれるから良いんです」


 涼しい顔で突き放すヒルデを眺めながら、カナンは少し意外に感じていた。


 普通、継火手と守火手は、繋がりの深さ故に恋愛感情を抱き易いと言われている。なので、縁で結ばれた二人がそのまま結婚に至ることも一般的だ。


 そういう意味ではイスラとカナンは真っ当だが、ヒルデとギスカールの関係は少々変わっていた。


「別に批判するつもりは無いのですが」


 ヒルデが陶のカップを置くと、コトリと小さな音が鳴った。


「継火手も守火手も、要は世の中に数ある仕事の中の一つに過ぎないと思います。だから、何より大事なのは、その仕事をキッチリこなせるかどうかだと思います」


 色恋とは縁遠い乾いた意見だが、ヒルデはあっけらかんとしていた。意地や見栄ではなく、本心からそう言っているのだ。そうしてまた、何事もなかったかのように香草茶を啜る。


「はぁー。あんた、あたしより二十も若いってのに、ずいぶんと達観してるねぇ」


 指についたジャムを舐めながらペトラが言う。


「達観て言うより、仕事人間過ぎるんだってば。ギスカールだってなんだかんだ言って遊んでるよ?」


「それ、うちのサイモンが引っ張って行ったんじゃないかい?」


「操蛇族の若衆もですよ。毎日奪い合うように仕事して、稼いだ金で石鹸買って風呂入って酒飲んで、それが済んだら女の子。お陰で娼婦連中はウハウハ……って、ヒルデは良いの?」


「うん? 何がです?」


 クリシャに話題を振られても、相変わらずヒルデは落ち着き払ったままだった。


「いやだからさ。ギスカールだって娼婦の女の子の所に行ったりしてるんだよ? 妬んだりとか無いのか、って」


「いいじゃないですか、別に」


 ヒルデはけろりとした表情で言ってのける。


「娼婦たちの仕事を否定しないことは、私たちが結んだ合意の通りです。それに、ギスカールが誰を好きになっても、私は別に構いません。


 まさか、彼に私を好きになれなんて言えませんから」


「あんただって十分器量良しじゃないか。その気になったら……」


 ペトラの擁護に対して、ヒルデは静かに首を振った。否定の意だった。


「変に思われるかもしれませんけど……私は他人に恋愛感情を抱かない人間なんです。今までもそうでしたし、多分これからもそうだという確信があります。


 でも、それが少しも辛くないんです。仕事を……数字や文字の中に垣間見える、人々の生活を守る仕事が、何よりも愛おしい。だから、他人の赤ん坊をあやすことは出来ても、自分の子供の面倒を見ることは出来ないと思うんです」


 彼女の独白は、簡単には受け答えし難いものだった。だからこそ、ヒルデ本人もおおっぴらにすることが出来なかった。言い切った今になって、語った当人が不安になり始めていたほどだ。


 だが、元から変わり者揃いの面子の中では、そんな心配などただの杞憂に過ぎなかった。


「私、分かります……ヒルデさんの気持ち……」


 最初にぽつりと呟いたのはカナンだった。ヒルデの話は、カナンにとっても共感するところの多い内容だった。


「私も、もしエルシャから旅立つ踏ん切りがつかなかったら、守火手なんて選ばなかったと思います。親にやっかまれながら、頼まれてもいない学問だけを延々と続ける……そんな風になる、かな」


 今まで何度か、イスラと出会わなかった未来を夢見たことがある。いずれも妙に生々しくて、起きた時に冷や汗まみれになるような夢ばかりだった。夢はたいてい一人称のはずだが、カナンの場合はなぜか三人称で俯瞰することがたびたびあった。


 結婚していたとしても、していなかったとしても、自分の目はどんよりと曇っていて、生気の欠片さえ感じられない。酷い時など、夫の立ち位置に、エルシャの軍人だったあの忌まわしい男が納まっていることさえあった。


 そして、そんな世界の自分が眩しそうに見ていたのは……。


(よりにもよって……)


 思い起こすだけで、カナンは心臓の下あたりに小石を詰められたような圧迫感を覚えた。



「でも、カナン様はイスラさんを愛しておられるのでしょう?」



 ぼんやりしていたため、ヒルデの不意打ちはてきめん・・・・に効いた。効き過ぎて、んでいたパンが喉に詰まりかけた。


 ごほごほとむせながら、カナンは恨めし気にヒルデを見やる。堅物で、仕事が何より大事と語った彼女にしては珍しく、「してやったり」と言いたげな笑みが口元に浮かんでいた。


 クリシャにバシバシと背中を叩かれ息を吹き返すと、カナンは「ともかく!」と仕切りなおした。


「さっき話題にも出た通り、娼婦の皆さんがあまりに高給取りになり過ぎると、職業分布が悪い方向に傾く恐れがあります! 今まで週三回の営業を認めていましたけど、週二回に減らす発議をしますっ!!」


「ま、その話は休憩が終わってからでも良いじゃないか。ねえ?」


 勢いよく宣言したものの、あっさりとペトラに流されてしまった。他の二人もニヤニヤとした表情のまま「うんうん」と頷いている。思ったより味方が少ないことにカナンが焦りを抱いた時、離れていたオーディスが仕事場に戻ってきた。


 カナンはふいに現れた助け船に飛びついた。


「ちょうど良かった! 今、イスラがダンスの練習をしてるって話をしてたんです!」


 カナン以外の三人は、同時に「そういえばそんな話題だったな」と思った。


 オーディスはあっさりとそれを認めた。


「ええ、していますね」


「何でですか?」


 だが、底意地の悪さで言うなら、オーディスに勝る者はこの中に居ない。彼はフッと笑うと、晴れやかな顔で「教えません」と言った。


「彼も一人の男です。男にだって秘密はあるし、隠しておきたいこともある。あまり詮索し過ぎるのは、感心しませんね」


 そう言い放ってから、オーディスは自分の仕事場に座って書類をめくり始めた。


「さて、そろそろ休憩も終わりです。まだ食べ終わっていないようですが、急いでください。時に正確なるは王者の資質、と言いますので」




◇◇◇




 仕事を再開してしばらくしてから、ペトラはふと、クリシャに質問があることを思い出した。


「ところでさ、クリシャ」


「何です?」


「あんたの守火手って見たことないけど、誰なのさ」


「いやいや、最初に紹介しましたよ。ユランのヴォイチェフ」


「えっ」


「ヴォイチェフ」

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