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【第百五四節/登壇】

 仄暗い明かりに照らされた劇場に、俳優達の歌声が響き渡る。貴賤を問わず、多くの人々の視線が壇上へと集められていた。


 舞台の中心に向けて光が集められ、そのなかでエマヌエルの姿をした役者が剣を振り上げる。夜魔に扮した役者が襲い掛かるが、彼女の振るう剣の前に恐れ戦いて舞台から降りていく。


 だが、エマヌエルもまた膝をつき、剣を地面に突き立てた。



『おお、神よ。志半ばでついえる我が魂を救い給え!!』



 歌の旋律に熱情を込めて、俳優が声を張り上げる。熱演に感動した観衆から拍手が巻き起こった。


 舞台を見下ろす桟敷席に陣取ったユディトもまた、煙の立ち上るパイプを置いて、軽く手を鳴らしていた。もっとも、他の聴衆よりはいくらかおざなりではあったが。


 同席するハルドゥスは、そんな彼女の姿に目を奪われる思いだった。元々学者肌の人間で、異性に対する感心もほとんど持たない男だが、そんな彼でさえ思わず引き寄せられてしまう美しさをユディトは帯びている。


 今は仕事着を兼ねている祭司服を脱ぎ、代わりに純白のキトンを纏っていた。一枚の布を半分に折って首や腕を出し、いくつか留め具で留めただけの簡素な服だ。


 肩から指先までは剥き出しになっていて、純金製の小さな腕輪以外には何も着けていない。ほっそりとした指先と、天火を浴びた小麦色の肌を晒すという行為に、彼女の自信が現れている。


 露わになった丸い肩には、金色の髪が滝のように流れていた。劇場の仄かな明かりが、その髪に得も言えない艶を与えている。



『嗚呼、エマヌエルが斃れるとは! ラヴェンナの輝ける栄光が曇るとは!』



 男女問わず一握りの目敏い観衆は、桟敷の中で煙をくゆらせる美女に気付いていた。逆にユディトも、下の席から見上げてくる不躾な視線に気付いていたが、歯牙にもかけない。


(しばらくは、ラヴェンナでもキトンが流行るだろうな)


 ハルドゥスは漠然とそう思ったが、ユディト並みに着こなせるのは極々限られた者だけだろう。そもそもが古風な衣装で、その上肢体の線が露骨に出てしまうため、余程自信のある者でなければ悲惨なことになってしまう。


「……ハルドゥス博士は、エマヌエル殿下のことをどうお考えですか?」


 視線は舞台に向けたまま、ユディトが問いかけた。


「立派な方であったと思います。あの方の遺した事績の数々は、今もラヴェンナ管区全土に影響を及ぼしている。


 誠に、聖女と呼ばれるに足る人物であったかと」



『騎士たちよ、我がともがらよ。嘆いてはならない』



「それは、ラヴェンナの人間としての発言ではありませんか? 私は博士の、歴史家としての意見を聞きたいのです」


 手厳しいな、とハルドゥスは内心で呟いた。とても十九になろうという歳の娘とは思えない。


「それについては、私もまだ結論を下せていません。何しろまだ三年程しか経っていない。歴史的な、長期的な視点で見れば、エマヌエル殿下の政策は未だ終わっていないとさえ言えるでしょう」


「なるほど……たしかに、歴史として俯瞰すれば、そういう見方にもなりますね」


 そう言って、ユディトは笛状の細長いパイプの吸い口に唇を寄せた。女性的な煌びやかさとは無縁の渋い作りのパイプだ。煙草そのものの栽培量が限られている現在、喫煙文化は非常に趣味的な範囲でしか残っていない。当代屈指の美女と謳われるユディトだが、こと喫煙に関してだけは驚くほど硬派なこだわりがある。


 だが、しなやかさのなかに宿った確固たる芯こそが、ユディトの本質と言えるかもしれない。


 継火手ユディトの辣腕ぶりは、既にラヴェンナの上流階級に知れ渡っている。カナン率いる難民団の到着を控えて各煌都が相談を行う中、ユディトはエルシャ代表として一際強い存在感を放っていた。



『ラヴェンナの栄光は終わらぬ。騎士たちよ、悲しむなかれ!』



 パルミラが発議し、ラヴェンナが招集をかけた今回の会議は、元々全ての煌都が難民団=第二次救征軍を支援するという既定路線を取っていた。正式な決議はカナンが到着してからになるが、状況的にはそれが最も合理的で、かつ負担の少ない選択になるからだ。



 ところが、この既定路線に異を唱えたのが、カナンの出身地であるエルシャ……もっと言えば、継火手ユディトその人だった。



 彼女はラヴェンナに到着すると早々に根回しを行い、瞬く間に支援の方向へ靡いていた煌都のいくつかを引き込むことに成功していた。


 結果、事前会議における歩調の一致は完全に崩され、世論は賛成派と反対派に綺麗に二分されてしまった。


 賛成派からは「円滑に進むはずだった論議を乱した」と糾弾されているが、そんな声などどこ吹く風といった様子で振舞っている。ある晩、招かれた先の宴席で、酒に酔った貴族から度を過ぎた罵倒を受けたが、全く顔色を変えなかったという。



『西方を見よ! 荒野の果てに目を向けよ!』



 それどころか、翌日酔いから醒めたその貴族と顔を合わせた際、やはり全く感情を乱さないまま腰を折って挨拶し、相手を恥じ入らせた。結果、彼女の顔にそぐわない豪胆さが知れ渡り、ますます支持者を増やす結果に繋がった。


 実のところ、継火手カナンの輝かしい事績や逸話に対して、ユディトはその美貌以外に何も持ってはいなかった。少なくとも、ラヴェンナの人間は貴賤を問わずそう考えていた。


 ところが、彼女がラヴェンナに着いてからの数週間で、その知名度はカナンと並ぶまでに至っている。さすがに支持者の数を覆すには至っていないが、元々圧倒的に不利な状況下でこれを成したのは、彼女の並外れた政治力を示す好例だった。



 しかし、それはあくまで院外政治の技術であって、実質的な政策ではない。



 そもそもカナンの難民団、さらにはエデンへの遠征が支持されるのは、それ以外に有効な難民政策が打ち出されなかったからだ。


 いくら院外政治が優れていたところで、実質的な政策が何も無ければ、誰も彼女を支持しなかっただろう。しかし、現実にはユディトは驚異的な追い上げでカナンの難民政策をおびやかしにかかっている。




 つまり、カナンの政策に匹敵するだけの秘密兵器・・・・を、ユディトが既に用意しているということだ。




 用心深いことに、ユディトはその腹案を一部の人間にしか明かしていない。影響力があり、かつ信用のおける人間を抱き込み、その人物の影響力でさらに共鳴者を増やすというのが彼女の戦略だ。


 この場合、二次、三次的に取り込んだ人物には、ユディトの腹案は明かされない。だからハルドゥスも、ユディトがどのような逆撃を用意したのか知らない。



『西方より、再び希望はきたる! 騎士たちよ、悲しむなかれ。命長らえよ!』



 ユディト自身が政策を秘密にしたまま味方を増やすのは不可能だ。だが、身内のうち、誰かひとりでもなびけば、それに続こうとする人間心理が働くのは当然のことだ。


 誰が発言すれば、誰を呼び込むことが出来るか。その人物は秘密を堅持出来るか。そも、自分の意見に対して納得するか? ユディトは、その見極めをするのが抜群に上手かった。


 今日、彼女が自分を呼んだのも、自分がどちら側に属する人間なのか見極めるためなのだろう。ハルドゥスはそう推論した。現状、ラヴェンナの上流階級でカナンの演説を目の当たりにしたのは、ハルドゥスとコレットだけだった。数日前には何人かの継火手たちが意気揚々と出かけて行ったので、今頃彼女たちも何等かの接触をしたことだろう。


「この劇ですが」


 パイプから口を離したユディトが呟いた。


「ずいぶん、エマヌエル殿下への賛美が盛り込まれていますね」


「今でも殿下を題材にした劇は人気があります。当時の民衆からの支持は絶大でしたし、今でも一部には崇拝している人々が残っています」


「例えば、オーディス・シャティオン、とか」


「……そこで彼の名前が出ますか」


 知り合いの名前を出されて、ハルドゥスは冷や汗をかいた。別に彼自身にはやましいことなど一つも無いのだが、「オーディス」と呟いた時のユディトの口調は、聞く者を緊張させるある種の気迫が籠っていた。


 怒気、否、殺気とさえ言えるかもしれない。


「この劇団の出資者の中に、シャティオン家の名前がありました。しかも、大規模な出資を始めたのは、彼がパルミラで再び表舞台に姿を現してから。


 聞くところによると、この劇の脚本が上がったのも、上演が決まったのも、つい最近のことだそうですね?」


 これは取り込みどころではない、詰問だな。ハルドゥスはそう思った。


「……残念ながら、私には何も答えようがありません。彼と昔から付き合いがあるのは確かですが、彼に対して積極的に協力しようと思ったことは無い」


「ご友人同士なのに?」


「友人だからこそです。彼は歴史を作る側の人間だ。対して私は、歴史の記録者に過ぎません。私情と学術をいつにしてしまえば、歪んだ書物しか書けなくなってしまいます」


「…………」


 ハルドゥスは単眼鏡を外して、小さな観覧鏡を目に当てた。ユディトと視線を合わせないためだった。今でさえ、身体の右半分に相当な圧力を感じていた。うっかり目を合わせてしまったら、古い伝説の登場人物のように、石になってしまうかもしれない。



『再び希望は来る! 新たな火を灯す者が闇を拓き、新しき世界を創る!


 騎士たちよ、命長らえよ。真実の継火手の訪れのために、命長らえよ!』



 エマヌエルに扮した役者が渾身の声を張り上げる。それに合わせて楽隊が荘厳な後奏を奏で、感動した観客たちが席から立ち上がり拍手する。


 割れるような喝采の中、しばしの間ユディトとハルドゥスは動かなかった。ハルドゥスに関して言えば、動けなかったと言った方が正確だろう。


 だが、やがてユディトは小さく息を吐くと、ころりと表情を変えた。パイプを置いて、さも感動したとばかりに両手を打ち鳴らす。


「イザベル、花を」


「は!」


 桟敷の隅に控えていた従者が、用意していた花束をユディトに差し出す。彼女はそれを持って立ち上がった。


「あまり楽しまれているようには見えませんでしたが」


「いえ、見ごたえはありましたよ? さすがは過去の文明を受け継いだ煌都と言うべきですね。脚本以外は素晴らしいものでした」


 ユディトは完全無欠の笑顔で毒を吐く。ハルドゥスは苦笑するしかなかった。


 そんなやりとりが行われているとは露知らない観客たちは、第二の見世物とも言うべきユディトの登場に注目する。彼女がただ立ち上がっただけで、それまで演じていた役者さえ凌ぐほどの強烈な印象があった。


 影の中から、光の中へ。黄金のような髪が、照明の光を受けて眩く輝く。


 ユディトが舞台に向けて花束を投げる。観客がざわめく。エマヌエルがそれを受け取り、片手を差し上げて桟敷席の貴人を紹介する。しかし、それ以前に既に、彼女の完璧な所作は大衆の視線をすべて集めてしまっていた。



「これ以上、あの子の好きにはさせない。


 私は全力をもって、救征軍を……エマヌエルの亡霊を叩き潰す」



 ユディトの呟きは、当人以外には誰にも聞こえなかった。


 明らかに自分へと向けられる拍手の中、ユディトは胸に片手を当て、たおやかに一礼した。

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