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【第百五三節/焦り】

「………………」


「………………」


 ぐつぐつと鍋が煮立ち、立ち上った香辛料の匂いが、煙と一緒にイスラとカナンの間を隔てる壁となった。


(…………運が悪すぎるつ!)


 アブネルに指摘され、慌てて走り出したは良いものの、何千人という人間が動く中から一人を見つけるのは至難を極めた。彼のいそうな場所を手あたり次第に当たってはみたものの、悉く行き違った。


 結局、こうしていつも通り、イスラの料理が出来上がってくるのを待つ身となっている。


 最近はコレットが一緒に食卓に座ることが多かったが、今はいない。ラヴェンナのハルドゥスへ手紙を書くと言って出て行ってしまった。


 走り回っている間に、最初抱いていた焦りが消えて、徐々に気まずさや怖さの方が大きくなっていた。今となっては勢いでイスラにぶつかることも出来ず、黙り込んでちびちびと火酒をすすることしか出来ない。


(不甲斐ない……)


 淡々と調理を進める彼を眺めながら、カナンは密かに、自分の手の甲をつねった。


 そんなことをするくらいなら、さっさとこう尋ねれば良い。「私と一緒にいて、負い目とか劣等感を感じたことはありますか?」と。


 答えは出ているが、踏み出せなかった。イスラはいつも通りに手際よく仕事を進めている。そこに感情の波を見出すのは難しかった。


 旅に出た頃からそうだが、イスラは基本的に、あまり表情を動かそうとしない人間だ。最近は雰囲気がいくらか柔らかくなったが、それでも仏頂面でいることがほとんどなので、慣れていない者には怖く映るだろう。


 それでいて、存外人の話をしっかり聞いていたりする。目の前に甘味があれば別だが、滅多に周囲への注意を切らさない人間だ。


 だからたまに、カナンの不意をついて直球を投げ込んでくることがある。


「今日は、静かだな」


 イスラの声で考え事から引き戻される。カナンが顔をあげると、湯気越しに彼がじっと見つめていた。満月のような金色の瞳はどこまでも真っ直ぐで、負い目のあるカナンは直視していられなくなった。


 だが、普段と違う態度をとれば、イスラは敏感に見抜いてくる。カナンも分かってはいたが、耐えられなかった。


「えっと……その……」


 いつもの明朗な喋り方とはうってかわって、はっきりしないうめき声ばかり出てくる。イスラはますます不審そうな顔になる。


 この期に及んでもふんぎりがつかない自分に、カナンは苛立ちを覚えた。他人ではなく自分自身に矛先を向けるのは奇妙なことだと分かっていたが、どうしてもやめられない。


 だが、いくら自分を責めたところで、何も変わりはしない。カナンは混濁する思考を何とかとりまとめ、言葉に変えた。


「……私が、今まで……」


「今まで?」


 イスラは鍋をかき混ぜながら促す。カナンは火酒を少しだけ啜った。


「イスラに……大変な目に合わせてきたな、って……」


 口に出してから、本来言いたいこととは微妙に意味合いが変わっていることに気付いた。無意識のうちに逃げ・・の発言に変わっていたのだ。


 案の定、イスラは「そりゃ、いつものことだ」とこともなげに呟いて、匙にすくったスープの味見をする。「ん……いける」


「あ、あの、そうじゃないのっ」


 イスラはパンを切り分ける手を止め、ちらりと彼女の顔を見る。


「大変な目って、そういう意味じゃないんです……もっと、周りから見られる目線とか、イスラ自身の……その、変な言い方だけど……負い目、みたいなのは。あったのかなって……」


 声がどんどん尻すぼみになっていく。最後の方はほとんど、蚊の鳴くような小ささだった。


 カナンは恐る恐る、上目づかいに彼を見やった。


 イスラは手にパンを持ったまま、少々驚いた様子だった。こころなしか、金色の瞳が普段よりも見開かれているようにカナンには思えた。


 事実、それはイスラにとって、あまり掘り起こされたくない話題だったのだ。


 痛い問いかけだった。


(つーか、馬鹿正直に聞くなよ……)


 苦々しさを覚えないといえば嘘になる。程度の差こそあれ、男としての人格を持つ者なら、自分の弱みを露わにしたいとは思わないものだ。


 ましてや、自分が想いを寄せる相手からこうも直接的に聞かれると、余計に堪える。


(こういうところだよなぁ)


 肩をすぼめて縮こまるカナンを見ながら、イスラは内心で溜め息をついた。最近は相当マシになってきたと思っていたが、やはりこういう「箱入り娘」の部分が完全に消え去ったわけではない。もっとも、そんなお行儀の良さが、カナンの性格の源泉にもなっているのだ。それくらいのことはイスラも理解していた。


 足元に置いていた、火酒の入った杯を持ち上げる。むせるのを承知の上で一気に中身を飲み干した。案の定、喉が焼けて、ゲホゲホと咳が続く。それもやがて落着き、イスラは生理的に浮かんでいた涙を軽く指でぬぐった。


 そして一言だけ「あるよ」と答えた。


 カナンが息を止めた。眉根を寄せて、唇を真一文字に結ぶ。悲しんでいるようにも見えるし、罪悪感を覚えているようにも見える。一つの単語だけでは説明しきれない感情がカナンの胸を満たしていた。


「あのっ……」


「良いんだよ、別に。小さなことだ。気にするな」


 イスラはそう言って、カナンの二の句を封じた。今更思い返しても仕方がないし、湿っぽい話題を続けるのも苦手だ。


 だが、カナンが何か言いたげにしているのは、顔を見れば一目瞭然だった。「気にするな」と言われて本当に気にしなくなるような性格だったなら、ここまで苦労を背負いこむことも無いだろうな、とイスラは思った。


 鍋の下に差し込んでいた明星ルシフェルを抜いて、火を止めた。


「今だから言えるけど、劣等感なんてつまらないものだよ。自分自身が抱え続けるのも馬鹿らしいし、他人に共感を求めるのはもっと馬鹿らしい。結局は、俺がそれをどうやって呑み込むかって話でしかないんだからさ」


「……イスラは、どうやって納得したんですか?」


「サウルだよ。奴が最後に言ったんだ。お前も闇渡りのさだめに抗ってみないか、って……悔しいけど、奴の言ったことが一番の特効薬だったな……」


 イスラの中では自明のことだが、カナンにとっては寝耳に水だった。アブネル達がサウルから大きな影響を受け、今なお心のどこかで崇拝していることは彼女も知っている。だが、まさかイスラにまで影響を及ぼしているとは思わなかった。それも、彼の根源的な悩みを砕くほど強烈な一撃だったのだ。只者でないことは重々理解していたが、彼女の想像を上回るほどの浸透ぶりだった。


「でも、それだけじゃない」


「え?」


 ジャガイモのポタージュを二人分の椀に注ぎ、パンを添える。あらかじめ焼いてあった羊肉の香草焼きも添えてカナンに渡した。


「奴の言葉はあくまできっかけだよ。それで、どうするのか、何をしたいのか……どうやったら、闇渡りであることの劣等感を持たずに済むか、少し考えたんだ」


 イスラは骨付きの肉に齧りついた。自分で焼いたものではなく、露店で買ったものだ。案の定あまり塩がきいておらず、美味ではなかった。カナンは手をつけず、じっとイスラの言葉を待っている。


 数口齧って、呑み込んでから、イスラは続けた。


「結局、大きな答えは見つからなかったよ。俺には大したことは出来ない。卑下してるわけじゃなくてさ。本当に、お前やオーディスみたいな人間と同じ働きは、俺には出来ない。それが悔しくないって言ったら嘘になる」


「…………」


「でも、こうしてお前と膝をつきつめて話せるのは、俺だけだからな。お前の面倒くさい部分とか、駄目な部分とかも、いい加減把握してきたつもりだよ」


「ひどい言い方」


「だってそうだろ? まさか自分のことを、物分かりが良くて従順で素直な良い子、だなんて、思ってないよな?」


「あら、そうだと思いませんか?」


「馬鹿言うな。お前の性根は頑固で不器用、猫を被って大人しい振り……こんなとこじゃないか?」


 ここまで言われると、カナンも苦笑するしかなかった。そしてやはり、良く分かっているな、と思わずにはいられなかった。


「私をそんな風に言えるのって、イスラと姉様くらいですよ」


「だろ? だから、何度でも言ってやるよ。俺はお前の傍から離れるつもりは無い。

 今だって、お前は大勢の人間の生活を背負いこんでいるんだ。そんなお前の愚痴を聞く人間が、一人くらいいたって良いだろ?」


「……イスラが、それで良いなら」


「じゃあ、これでこの話は終わりだ。早く食えよ、冷めちまう」




◇◇◇




 カナンがポタージュに匙を入れる。その表情を見て、何とか彼女のわだかまりを解くことが出来たと確認する。


 嘘は言っていない。全て偽らざる本心だ。


 だが、全て言い切ったわけでもない。


 パルミラを出て、ここに来るまでの間に出した結論に、イスラは満足していた。カナンの支えになることは、それはそれで大きな役割だと思っている。彼女と話すのは楽しいし、ただ一緒にいるだけでも幸福だった。


 だが、今になって、それだけでは治まらない何かが、自分の中で芽生えつつあることに、イスラは気付いていた。


 それを口にすることが出来なかったのは、やはり、イスラが気持ちを言葉にして言い現わすのが下手であったからだ。


 胸の内側で転がる焦りを静めるように、イスラはもう一度火酒を飲みほして、咽た。

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