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【第百五二節/アブネルの諫言】

 人々が思い思いの心持ちのまま解散していく中で、闇渡りのアブネルは一人、野原に立っていた。


 都市の住人は、彼に対して強い興味の色を示しつつも、その恐ろしい容貌の故に声を掛けようとしなかった。仲間の闇渡りの中には挨拶をしてくる者もいたが、アブネルは半ば放心状態のまま、それらの言葉を聞き逃していた。


 だが、カナンの涼やかな声が聞こえると、物思いにふけってもいられなくなった。


「アブネルさん、ありがとうございました」


 カナンは一人、アブネルの前に進み出ると、頭を下げた。


「私一人の言葉では、あの人たちを下がらせることは出来ませんでした。本当に、よくぞあの場面で……」


「……俺は、連中が気にくわなかっただけだ。礼を言われるようなことはしていない」


 素っ気なく切り捨てるが、それでもカナンは相好を崩した。「この人らしい」と思った。軽口や下品な冗談を絶やさない闇渡りの中では、アブネルのような不器用な堅物は珍しいのだ。


「それでも。私は嬉しかったですよ、アブネルさん」


「よく言う。貴女は最初から、あの状況を造り出す腹積もりだったのだろう? 貴女自身を餌にして真ん中まで誘い込み、群衆で四方から取り囲む……そんな筋書きだったはずだ」


「……」


 カナンは沈黙したが、それ自体既に答えのようなものだった。


「しかし良かったのか。これで、ラヴェンナは貴女を敵とみなしたはずだ」


「構いません。


 どの道、私たちの行動に彼らが反発するのは目に見えています。そんな状態でエデンまで行って、新しい政体を打ち立てたとしても、彼らは闇渡りを下の存在としか見ないでしょう。


 だからこそ、貴方たち自身の声、言葉をぶつけていかないと、いつまで経っても交渉など出来ません」


「……目先の得は、とらないか」


「それが状況を大きく変える奇貨でない限りは」


 カナンの言葉に対して、アブネルは喉を鳴らして答えた。それが実は笑い声だったのだと、一拍おいてカナンは気づいた。


「貴女はサウルと良く似ている。いや……世の中を変えようという人間は、皆似たような気質を持つのかも知れん」


「と、言うと?」


「大博打が好きな所だ」


「勝算があればこそ、ですよ」


「勝算という言葉が出てくる時点で、貴女はこのやり取りを博打と捉えている。違うか?」


「そう揚げ足を取られたら、こちらとしては何も言えないですね」


「逃げの一手を打つのも早いな。どうにも、貴女は捉え難い」


「よく言われます」


 そう答えつつ、カナンは口の中に笑い声を押し込め、代わりに小さく肩を震わせた。そのあどけない仕草を見ていると、先程までの超然とした雰囲気をどうやって演出していたのだろう、と思わずにはいられない。


 だが、常人には及びもつかないような知恵と、悪戯心に満ちた無邪気さが矛盾無く同居しているのが、カナンという人間なのかもしれない。そう考えると、アブネルにはますます、カナンが奇妙な存在に見えてくる。


「あの若造、良く貴女のような人間に付き合えるな」


「若造、って、イスラのことですか?」


「気に喰わない男だが、闇渡りの分際でよく貴女の守火手をやっていられる」


「ええ。初めて会った時に、彼には私の守火手を任せられるだけの資質があると感じました。実際、私は何度も……」


 アブネルは思わず「んん?」と唸り、まじまじとカナンを見下ろしてしまった。カナンもカナンで、アブネルが唐突に出した頓狂な声を聞いて目を丸くしている。そしてそんな彼女の表情を見た瞬間、アブネルはカナンの中にある大きなズレ・・に気が付いた。


「……俺は能力のことを言ったわけではないぞ、継火手カナン」


「えっ?」


 カナンは心底驚いたような表情を浮かべた。アブネルは言うべきかやや迷ったが、言った後のことはカナンやイスラが考えれば良いことだ、と結論付けた。


「あのな。普通、煌都の継火手と、野良の闇渡りが釣り合うとは考えんだろう? 俺はもとより、他の連中に聞いても十中八九そう答えるはずだ。


 貴女は平等という意識を持つあまり、相棒が同じ意識を持っていると思い込んでいたんじゃないのか?」


 彼が言い終わる前からすでに、カナンの顔からは血の気が引き始めていた。


 口に手を当てて考え込む。思い返すと、アブネルの言葉を裏付けるような態度をイスラがとっていた時期があった。パルミラについてしばらく経った頃から少しずつよそよそしくなり、サウルの反乱が起きた頃にはほとんど姿を見なくなっていた。再会したのは、全てが終わった後だった。


(あの頃……イスラは、何を感じていたの……?)


 アブネルの言う通りだと思った。イスラを守火手として選ぶ以前から、カナンは他人に対する差別意識を持たないようにして生きてきた。自分自身の正義に則り、正しいと思う態度を貫いてきた。


 だが今の自分は、アブネルを通して、人の意識の複雑さを教えられている。少し前に彼が語ったように、イスラが他人よりも深く大きな劣等感を持っていないと、どうして言い切れるだろう?


「どうして……私……?」


「考えなかったのか?」


「…………はい」


 アブネルは再び喉を鳴らしたが、今度は笑い声ではなかった。


「別に、奴の肩を持つつもりではないが、一人の男として言わせてもらうと、なかなか疲れると思うぞ?」


 追い打ちをかけるようだが、世話になっている手前、言っておくべきだろうとアブネルは思った。


 案の定カナンはがくりと肩を落としたが、彼が声をかけるよりも先に「ごめんなさい、ちょっと行ってきます」と言って駆け出していた。その慌てぶりとといい、迂闊さといい、やはりまだまだ若さを隠しきれていない。一体、どれが本物のカナンなのだか分からなくなる。


「……しかし、それは俺も同じか」


 アブネルは、頭皮を剥がれた痕を軽く掻いた。自分はこんなに饒舌な人間だっただろうか? 自問せずにはいられない。


 溜息をつきながら、依然騒がしいままのあたりを見渡す。帰っていく町民、商売を終えた闇渡りの子供、娼婦たち……行き交う人々の影のいずれかに、あの男が死霊となって隠れているならば、きっと大笑いしていることだろう。


 アブネルは、そんな埒も無い想像をして、やはり頭を掻きながら溜息をついた。

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