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【第百五一節/王の右腕】

 ラヴェンナの継火手たちから向けられた視線には、多分に殺意が含まれていた。


「穢らわしい闇渡りの分際で、継火手の論議に割って入るなど……!」


 差別や偏見。そんな言葉を超えた嫌悪感が、視線からありありと感じられた。


 だが、アブネルはむしろ安心した。やはり都市の人間というのは、こうでなければならない。カナンのような奇妙なお人好しがうじゃうじゃ群生しているのなら、かつて煌都制圧を目論んだことを後悔したところだ。


 ……突きつけられた敵意が、返って彼を大胆にさせた。元より歴戦の闇渡りである彼は、この程度の威圧に屈するほど臆病ではない。


「反対する人間を連れて来い。そう言ったのはそちらだろう。何が悪い?」


「クッ……!」


 継火手たちが苦々し気に呻いた。聴衆の面前で高らかに言い放ってしまった手前、今さら発言を引っ込めることは出来ない。意地悪くも、カナンが「ええ、確かにおっしゃってましたね」と追い打ちをかけた。彼女の援護に対して、アブネルは「フン」と鼻を鳴らした。


「……さっきから聞いていれば、あんたらは手前てめえの仕事を、さも大層に語っているな。が、それが俺らを助けてくれたことが、今まで一度でもあったか?」


 敵意を増す継火手たちの前で、アブネルは、自分がこんな喋り方が出来るのかと密かに驚いていた。元々口数が少なく、頭の中で言葉を選ぶことさえ億劫に思って生きてきたのに、いきなりこんな挑発的な喋りが出来るものなのか、と。


「何故我々が、闇渡りを助けなければならないのだ。貴様らのような、薄汚れた賎民を!」


 靴で頭を踏み躙るかのような罵倒だった。周囲の闇渡りたちが反射的に殺気立つのをアブネルは感じた。彼自身、鉄面皮の下で血液が煮えそうになる感覚を覚えた。


 だが、自分の中で何かが煮え立つ感覚は、これまで何度も感じてきたものだ。自分の場合、それを表には出さず、内面で暴れさせる傾向があると自認している。


 そしてその感覚は、あの男・・・の後ろに居た時に、最も強く煮え滾った。


(……そうか。そういえば、こういうのは奴の独壇場だったな)


 アブネルは、少しだけ笑った。誰にも気づかれない程度の微笑だった。何だか懐かしい気分だった。彼と別れて、まだ数か月しか経っていないというのに、ずいぶん長い時が流れたかのようだ。


 それは、自分がいくらか変わったためだろう。継火手カナンのもたらした影響を実感せずにはいられない。闇渡りとして生き続けていたのなら、こんな風に感傷じみた回顧をすることも無かっただろう。


 もしが生きていたなら、この甘さやぬるさを、吐瀉物でも見るような目で眺めたに違いない。


 そして、そんな風に変わったにも関わらず、まだの残影はアブネルの中に焼き付いている。鮮烈で狂暴な光として。



 だからアブネルは、記憶の中の彼を真似て、嗤った。



「結構な言いようだ。……しかし間違っちゃいない。自慢じゃないが、俺は悪い事でやってない事は一つも無い。誰かに助けられる権利など、本当は無かった……」



 アブネルの笑みは、控え目に言っても凶々《まがまが》しいものだった。それを見ただけで、見物に来ていた娘が気絶し、継火手たちでさえ真っ青になったほどだ。


 だが、大衆の前で弱みを見せられない彼女たちは、内心の恐れを怒りに変えて反撃した。


「分をわきまえているなら、今すぐに口を閉じよ!」


「断る」


「何だと!?」


「何度でも言うが、最初に答えろと言ったのはそちらだ。俺は、そちらの取り決めに従って喋ってるだけだ。


 それとも、何だ? 俺とあんたの間には、他に何かあるってのか?」


「この……っ!」


 怒声を浴びせようとした継火手を、別の娘が押し留めた。闇渡りに楯突かれ、感情的になった彼女が次に言いそうな台詞が、多少冷静な者には分かったからだ。


 もしそれを言ってしまったら、ここに集まった闇渡りのみならず、一般市民までも敵に回すことになる。継火手の威信は絶対だが、さりとて傷をつけて良いものではない。


 アブネルの挑発は、彼女たちの理性を崩すには至らなかった。皆、煌都の支配者となるべく帝王学を叩き込まれて育っている。感情を鎮めて冷静に詰めていけば、論議に慣れていない一闇渡りなど簡単に料理することが出来る。完全に論破してしまえば、土をつけられた自尊心も満たされることだろう。


 だが、彼女たちは完全に見落としていた。視界からも論議からも消えていたカナンのことを。




「何もありませんよ、アブネルさん。私たちは皆平等です」




 カナンの一声は、大きくも無ければ強くもなかった。少し離れた距離にいるアブネルが、何とか聞き取れたくらいだ。


 しかし、その間にいる継火手たちの耳にはしっかりと届いていた。




「なるほど、そいつは有難い」




 アブネルの一言が、彼女たちの理性の糸をぷつりと断ち切った。



「ふざけるな! 貴様らのような屑と一緒にされてたまるか!!」


「近寄るだけでも穢らわしいというのに、なんという不遜……!」


「思い上がるのもいい加減にしろ!!」



 それまで抑圧されていた分、解放された時の罵倒の嵐は凄まじいものがあった。継火手たちは口々に悪口雑言をまき散らすが、カナンを責めれば良いのかアブネルを罵れば良いのか分からなくなっていた。


 彼女たちはこれまで、他人から虚仮こけにされる経験が極端に少なかった。生まれた時から貴重な存在として大切に育てられ、当人たちの優秀さもあって挫折や侮辱と極端に縁遠い生活を送ってきた。事実、燈台に天火をくべることが出来るのは、継火手をおいて他にはいない。だから、彼女たちが特別な人間であることは間違いないし、煌都の人間は決して侮ったりしない。


 だからこそ、カナンの一言は効いた。


 生まれながらの「特別さ」を重んじる彼女たちにとって、それを犯されるのは何よりも赦し難いことだった。


 一方で、留まるところを知らない悪態の数々は、闇渡りたちの敵意を急速に高めていた。特に、名無しヶ丘の激戦を生き延びた猛者ほど、その傾向は強い。この状況を呼び込んだカナンでさえ、内心では危機感を覚えていたほどだ。この時、この瞬間が、最も危険なのだと。


(アブネルさん、どうか……)


 唇を動かして彼を制しようとしたカナンは、意外なものを目にした。


 殺気立つ継火手と闇渡りに挟まれた、火傷と傷だらけの凶相持ちが、この場にいる誰よりも冷静な佇まいだったからだ。


 一人の闇渡りが、近くにあった石を手に取って立ち上がろうとする。


 群衆が沸き立ち、継火手たちが杖を引き寄せる。カナンの周囲にいた人々も咄嗟に割って入ろうとした。


 だが、立ち上がろうとした闇渡りの頭を、アブネルはその大きな手で掴んで無理やり地面に押し付けた。



「座っていろ」



 重々しい声が、いきり立っていた闇渡りたちの動きを止めた。それはまさしく、一軍を率いて戦った者の威厳に他ならない。


 だが、今までの彼であったなら、ここで終わっていただろう。副将として部下を威圧していれば、それで仕事を果たしたことになったからだ。


 アブネルは少し振り返ると、唇を歪めて見せた。それが「微笑」であることに気付いた者は皆無だったが、彼が今までとは異なる雰囲気を纏っているのを誰もが感じ取っていた。



「今、いいところだ」



 頭の中のどこかから、あの男・・・の声が甦ってくる。




『そうだぜ、こいつぁ美味しい流れだ。周りを見てみろよ』




 脳内に響く声が、アブネルを感情の荒波の中から浮上させていた。向かい合って何かを言われても、アブネルはその者を見ていない。否、見えてはいるが、意識は別のところにある。それが彼を際立って冷静にさせていた。


 言われるがままに、アブネルは周囲に視線を送ってみた。依然として怒り狂っている継火手たち、自分の一声で静まった闇渡りたち、水面のような静かな目線を送ってくるカナン。


 そして、それ以外の者たち。


(成程)


 継火手たちには状況が見えていない。己を侮辱したカナンと、存在そのものが不愉快なアブネル以下闇渡りだけに視線が固定されている。


 もう少しでも冷静さを保っていたなら、自分たちが包囲されつつあることに気付いていただろう。



『口喧嘩ってのは、相手をあっためた方の勝ちだぜ。向こうさんの顔色が赤くなり出したら、あとは詰めていってやりゃあ良い』



 最後の詰め手。それが何か、アブネルは考える。奴ならどう振る舞うだろうか、今利用出来るものはなにか……何を突かれたら、彼女たちは嫌がるか?


(奴は、嫌がらせの天才だったな)


 全ての技術を一流にまで引き上げていたが、それ故に研ぎ澄まされた超一流には及ばない……その器用貧乏さを、並外れた悪意で補っていたのがだ。


 そして悪意の本質とは、「相手がされて嫌なこと」を的確に把握し利用することだ。


 だから、今自分の中に甦ってくるこの声は、奴によって鍛えられた己の悪意なのかもしれないな、とアブネルは思った。


 悪意でさえ、他人から学ばなければ生かせない。所詮自分は凡人なのだ。


 だが、だからこそ深く理解出来る。


 アブネルは腕を組み、目を閉じた。それまでの言葉の応酬とは真逆の姿勢だ。継火手たちは構わず罵倒を続けるが、アブネルは何も言い返さない。


 押しとどめた闇渡りたちが再びざわめき始める。


 だが、それは継火手たちも同じだった。彼の冷静な態度を見て、彼女たちも徐々に冷静さを取り戻していく。普段は出さない大声を出し続けたためか、頬は紅潮し、肩で息を切っている。


 しかし、ここで一度冷える・・・のは非常に危険だ。継火手たちの後ろで、カナンは密かに舌を巻いていた。


(ずいぶん辛辣な手ですね)


 一度激怒した後で、ふと冷静になった時、人は自らの姿を顧みる時間を与えられる。そして、大抵思い返される姿は、二度と見たくないと思うほどみっともない醜態だ。


 今、冷静さを取り戻した継火手たちが直面するのは、それまで自分が吐き出した数々の悪態だ。普段ならば決して出すことの無い面をさらけ出して、到底上品とは言えない言葉をまき散らした。それだけでも、彼女たちの繊細な自尊心には大きな傷となるだろう。


 だから、アブネルは言う。



「気は済んだか?」



 愚弄、ではない。嘲弄でもない。


 むしろその正反対……大人が子供の言い分を聞いてあげた後のような余裕を漂わせて、アブネルは言い放つ。


「何だと……っ!」


 継火手たちは再びいきり立とうとするが、出来ない。単純に息が上がっていることもあるが、先程までの自分たちの姿を思い返すと、再び感情を剥き出しにして叫ぶことなど不可能だった。一度取り戻した冷静さが、かえって彼女たちの動きを封じたのである。


 継火手たちからすれば、信じられないような展開だった。自分たちの挑発に目の前の闇渡りが乗せられて逆上すれば、後は上から目線で黙らせられるはずだった。


 だが、現実は全く逆の形になってしまっている。挑発され、怒り狂った自分たちが、闇渡りに見下ろされている。脳の血管が切れそうになるほどの屈辱だが、すでに反撃の手札は無い。今さら場を取り繕うのは不可能だ。


 アブネルの一言は、この場における格を完全に決めてしまったのだ。


 その上で、彼は続ける。



「元々、俺が言いたかったのは一つだけだ。


 あんたらは継火手カナンを散々に言っていたが、そんなあんたらは俺らを助けてくれたことが、一度でもあったか?」



 ラヴェンナの継火手たちは、酸欠の魚のように唇を震わせた。その色は、強く噛み締めたために真っ白になっていた。


「……それは……」


「いや、言わなくていい。答えは聞き飽きるほど聞いた」


 もう何も言わせはしない。




『トドメだ。ぶっ殺せ』




 火傷に爛れた腕を、ゆっくりと持ち上げる。それを向けられた継火手たちが慄くように後ずさるが、アブネルはそのまま水平に腕を薙いだ。


 その腕が向けられた先に、自然と継火手たちも目を向けざるを得ない。


 そして気付く。この場にいたのは自分たちとカナンと、闇渡りだけではなかったことに。


 継火手と燈台の権威を絶対的に信じている、と自分たちが信じていた人々。


 すなわち煌都の一般市民たちの無数の視線が、最初からここにはあったのだ。


 その彼らの目に、自分たちがどう映っていたか。継火手たちにとってそれを想像する恐怖は、闇渡りの前から逃亡する屈辱に勝っていた。

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