(どうしてこんなことに……)
カナンの後ろを歩きながら、コレットは今に至るまでの素早い流れを思い返した。
出戻りした先で偶然出会った、難民団の指導者カナン。自分に困惑と衝撃をもたらした相手は、あっさりその身を引き受けることを了解してしまった。ハルドゥスに言われたことも一字一句伝えたが、かえってカナンをその気にさせてしまい、気がつくとこうして彼女の後ろを歩いている。
「あ、あの……どこに向かってるんですか?」
「お風呂です」
「お風呂?」
おうむ返しに言っているうちに、高めの垂れ幕で区切られた場所へと連れてこられた。幕をめくって中に入ると、五十個ほどの樽が間隔をあけて並べられていた。樽底は鉄で出来ており、全体を支えるための支脚もついている。
その樽の中に、同じく幕の外からぞろぞろと入ってきた男衆が水を注ぎこんでいた。
「きっ、きっついないこれ! 何回やっても!」
両手に水の入った桶を持った青年が、ゼェハァと荒い息を吐きながら駆けずり回っている。他の連中も似たり寄ったりといった有様だ。
「おらおらサイモン、チンタラするんじゃないよ!」
ゴーレムの肩に座った幼女が、両足をぱたぱたと揺らしながら命令する。方々で「畜生!」と怒声が上がった。
「ペトラァ! お前、ゴーレムあるなら手伝えよ!」
「へー、そんなこと言って良いのかい? そんならあたしが、あんたら全員分の賃金をかっぱらうことになるんだけど?」
「ほどほどで良いんだよ! ほどほどに手伝え!」
「
「くっそォ!!」
そんな中、イスラは一人黙々と、川と樽との間を往復していた。両端に桶を吊るした棒を、あろうことか両肩に乗せて歩き回っている。汗こそかいているものの、表情は涼やかだった。
「あの人……」
見覚えのある人物にコレットが目を引かれている間、カナンはゴーレムの上に座ったペトラと何かを話していた。二人の立ち話が終わるのと、五十個の樽が満杯になるのはほぼ同時だった。もしかすると、カナンがその時間を見計らっていたのかもしれない。
「みなさーん! お疲れ様でーす!」
カナンが両手をパンパンと叩くと、息を切らしていた人足達がのろのろと列を作った。ペトラの抱えていた袋を受け取ると、その中に入っていた銅貨をカナンが手ずから渡していく。
渡す報酬の額は、担いだ桶の数と、往復した回数に応じて決められている。ゴーレムの上に座ったペトラが木の板に記録をつけており、同時に不正が無いか目を光らせているのだ。
「お疲れ様です、サイモンさん」
「おー、カナンよぉ。もうちょっと単価を上げてくれても良いんじゃねえのか?」
「ええ、目下検討中です」
カナンと人足達のやり取りを横目に見ながら、コレットはカナンの思惑をおぼろげながらも読み取っていた。
この難民団の中では、煌都と似たような経済構造が造られつつある。先程の押し売りといい、こうして人足を雇って働かせていることといい、一般的に知られている闇渡りの生活とは大きく異なっている。
(でも、これは煌都の仕組みとも違ってる……)
基本的に、煌都では親の仕事がそのまま子供に受け継がれることが多い。就業の選択肢が非常に限られているのだ。
居住範囲が決められている煌都では、必要以上に子供を生むことが歓迎されていない。故に、家業をそのまま子供に継がせても差し支えがないのだ。本人がどう思っているかは、この際問題にはされない。大工の子供ならそのまま大工になり、料理人なら料理人、商人なら商人になる。
うっかり子供が増えてしまった場合、その家庭には特別に税金が掛けられることになっている。これは当人が生まれた煌都に居る限り続くため、「課税対象」と烙印を押された子供はたいてい行商人や旅芸人として、燈台と夜の狭間を歩む生涯を選ばざるを得ない。
対して、この難民団で行われている方法……各人が自らの職業を選び、それによって賃金を得るという昔ながらの手法は、煌都にない自由さがある。
もちろん、この程度の規模の経済など
(分かった上で、こんなままごとを……?)
カナンはおっとりと微笑んだまま、人足達に報酬を払い続けている。
最後に、イスラがカナンの前に立った。
「お疲れ、イスラ」
「ああ」
「この後……お願い出来ます?」
「ん、立て替えとくよ」
他の者よりも多い報酬を受け取ったイスラは、淡泊にそれを財布の中へと滑り込ませた。二人の会話の内容は、二人にしか分からない。
「イスラ、今日も稼いだな。この後飲みに行くか?」
サイモンがイスラの肩に手を回すが、彼は膝を曲げてその腕を躱した。
「悪いけど用事が出来た。ってか、お前、毎日酒買ってるから金が貯まらねえんだよ。少しは蓄財しろ」
「うっせえ。チッ、ノリの悪いやつだぜ」
「そりゃどうも。じゃ、そういうことで」
イスラはひらひらと手を振って出て行ってしまった。他の人足達は、サイモンを中心にしてどやどやと騒いでいる。
「さて、と」
カナンは中身の軽くなった袋をペトラに返すと、地面に突き立てていた杖を手に取った。
「コレットさん、火をくべる手伝いをしてくれますか?」
「火……天火、ですか?」
「それ以外に無いでしょう?」
カナンはくすくすと笑いながら、杖の先端を樽の底へと近付けさせる。燈台に継火をするのと同じ要領で火を灯し、樽に張られた水を温めていく。彼女はさも当たり前のようにやっているが、樽の中の水を温めるためだけに天火を使うなど、コレットにとっては到底信じられないことだった。
汚れた樽の下にくべられた蒼い炎は、瞬く間に樽の中の水を温めて、白い湯気を立ち上らせる。コレットも渋々カナンに倣ったが、彼女の天火に比べて、明らかに小さな炎しか生み出せなかった。
(天火をこんなことに使うなんて……)
内心、そう思わずにはいられなかった。カナンの行うことはいちいち不可解で、コレットの中の常識と折り合いをつけるのは難しそうだった。
結局、五十個ある樽のうち、ほとんどはカナンが片づけてしまった。
「ペトラ、終わりました!」
カナンが声を張り上げると、天幕の外に居たペトラが「あいよ」と返した。
「皆、樽は五十個しか無いんだからね。喧嘩しないで、ちゃんと譲り合うんだよ!」
はーい! と姦しい声が聞こえてくる。いつの間にか、天幕の外には男衆とは違った喧騒が出来上がっていた。天火を使うことに集中しきっていたコレットは、その声が若い女性のものばかりであることに気付かなかった。
「さ、引き揚げますよ」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ、まだ息が……!」
息も絶え絶えといった様子のコレットとは対照的に、カナンは涼しい顔ですたすたと歩いていく。その彼女と入れ違いになるように、外に控えていた女たちが一斉に雪崩れ込んできた。
その女たちの格好を見て、またもやコレットは衝撃を受けた。
黒い外套の下に、信じられないほどの薄着や、軽薄ささえ感じさせる色合いの服を着ている。いや、衣服以前に、彼女達の帯びる雰囲気がすでに、その職業を如実に示していた。
他人に見られることに慣れているためか、娼婦達はカナンやコレットの存在など気にせず服を脱ぎ捨てていく。なかには、カナンに向かって気軽に挨拶をよこす者もいた。カナンも小さく返事を返すが、表情にどこか複雑そうな色が混ざっていることにコレットは気付いた。
「……ラハさん、お疲れ様です」
とりわけ気の強そうな娼婦に、カナンがねぎらいの言葉を掛ける。先程までの明朗さが、ずいぶん陰っているように思えた。
声を掛けられた娼婦は、返事を返すでもなく、俯きながら小さく鼻を鳴らした。
天幕を出て、しばらく歩いてから、コレットは改めてカナンに問いただした。
「カナン様……今の人達は、娼婦、ですね……?」
「そうです」
「そんな……」
言いたい言葉が、コレットの喉元まで這い上がってきた。それが実際に出てこないのは、単に彼女の気が弱いからだ。
だが、コレットの無言の批判は、カナンも感じていることだろう。
誰かから非難されても仕方が無いと、カナン自身も思っているのだから。
「コレットさん、私の話を聴いてくれますか?」
「……私も、貴女の考えが知りたいです。貴女は、私にとって分からないことだらけの人です」
「そう思われるのも仕方がないですよね。じゃあ、ついてきてください」
カナンはコレットを促して、居留地の中心にあたる天幕へといざなった。そこには司令部として使っている天幕の他に、カナンやオーディスといった、重要人物が寝泊まりするための天幕が立てられている。
その中に、カナン専用に割り当てられた天幕もあった。入り口の傍で、倒木に腰を下ろしたイスラが黙々と食事の準備をしていた。