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【第百四八節/おいてけぼりのコレット】

 オーディスの元を辞した二人は、相変わらずのお祭り騒ぎの中を横切り、丘を降りていた。だが、ハルドゥスの後ろを歩くコレットは、未だに衝撃から立ち直れずにいた。


 頭の中では、今だにカナンの言葉がぐるぐると渦巻いている。それだけでなく、彼女の守火手だという闇渡りを実際に見たことも、強烈な印象として残っていた。


(本当に……闇渡りなんか・・・を守火手に選ぶなんて)


 彼女も見習いとはいえ、継火手の一人だ。いずれは自分にふさわしい守火手を選ぶことになる。それはカナンも同じであったはずだが、彼女はその大事な選択を、よりにもよって一人の闇渡りのために使ってしまった。


 果たして、彼女にその選択を採らせた理由は何であったのだろう?


(確かに、イスラさんは悪い人じゃなかった……と思う、けど……)


 考えれば考えるほど、カナンという女性のことが分からなくなっていく。何故煌都に混乱をもたらそうとするのか、何故闇渡り達につこうとするのか、何故エデンを目指そうとするのか……。


「何か、思い詰めているようですね」


 唐突にハルドゥスが振り返った。「ひゃ、ひゃい!?」とコレットは返答するが、狼狽は少しも隠せていない。分かりやすい生徒だな、とハルドゥスは思った。


「今回の件、君にはどう映りましたか?」


「どう……と、言われても……正直なところ、全然考えがまとまりません。カナンさんの言っていることが正しいのか、間違っているのか……あの人の色んなことが、全然分からないんです」


「それは私も同じだよ。実際に彼女と会って話したわけではないからね。

 しかし、論説そのものには聞くべき点も多々あった。シャティオン卿が知らせてくださった通り、確かに面白い人のようだ」


 ハルドゥスとしては、一つの歴史的な事件に立ち会えた興奮から、実に得をしたという気分だった。オーディスから頼まれた仕事も、かえって他の人間には渡したくないとさえ思える。


 だが、コレットの師として中立的な視点をとれば、彼女が困惑する理由も良く分かるのだった。模範的な……つまりは保守的な空間で育ってきたコレットに、カナンの論説はあまりに歯ごたえがあり過ぎたのだろう。教育上望ましくないことだったかもしれない。


 一方で、これはコレットの成長を促す良い機会かもしれない。カナンが言う通り、煌都をとりまく現実は少しずつ変化を強いられ始めている。それに対応し、生き延びていくのは、今のひ弱なままのコレットでは難しいかもしれない。


「……カナン様のことが気になるかい?」


「えっ……ええ、はい……たぶん」


「それなら、今が良い機会だ。コレット、君は今すぐ戻って、シャティオン卿に同行を申し出なさい」


「はい。……って、ええっ!?」


 飛び上がった拍子に眼鏡がずれた。だが、卒倒しなかっただけましかもしれない。


「実地での勉強ほどため・・になるものはありません。特に、君のようになかなか煌都から出られないような生徒にとっては……」


「待って下さい、家族に何も言わないままなんて……!」


「私の方からお伝えしておきます」


「荷物は」


「後ほど届けさせましょう」


「……先生、私を追っ払おうとしてませんか?」


「まさか。邪推はやめなさい」


 こう言い出したら曲げられないな、とコレットは思った。厳格な探究者であるだけに、一度出した意見はなかなか覆そうとしないのが彼だ。


 全く何も分からない場所に、一人きりで放り出されるのは心細い。しかし、その心細さを大声で言えないのが、コレットという少女だった。




◇◇◇




 師の強引さに押し切られたコレットは、結局、ハルドゥスの乗った馬車が夜闇の中に消えて行くのを指をくわえて見ているしかなかった。


 後に残ったのは、寂寥感と心細さだけ。まさか自分のうかつな生返事のせいで、こんな事態に追い込まれるとは思いもしなかった。


「口は災いのもと……」


 そんな使い古された慣用句を呟いたところで、事態は何一つ変わらない。コレットは仕方なく、元来た道を引き返して歩き始めた。目指すはオーディスがいた本部天幕だ。今のところ、師と面識がある彼以外に頼れる人間がいない。


 丘の上からは人が引揚げ始めていた。おかげで、最初のように迷子になることもなかった。だが、隣を平然と闇渡りの男女が歩き去っていくと、反射的に身構えてしまう。彼らは自分に対してほとんど視線を向けて来ないにも関わらず、コレットはいつ自分が誘拐されるのかとびくびくしていた。


 今の彼女には気付く余裕などなかったが、彼女の左右に広がる光景は実に多彩だった。


 やや下火になったとはいえ、お祭り騒ぎの余熱はあちこちに残っている。


 商売の下手な闇渡り達が売れ残りの商品の前で頭を抱える一方、連携して上手く成果を上げた子供達がほくほく顔で銅貨の数を数え歓声をあげていた。仕事上がりの娼婦達が、草の上に敷物を敷き、なけなしの金をはたいて買った煙草を吸い回している。年老いた闇渡りが、ほとんどタダ同然にまで値引きしてやった木製細工の玩具を、煌都の子供に手渡していた。


 そんな風景も、今のコレットにとっては不気味にゆらめく影法師に過ぎない。


 ようやく目指す天幕が見えて来て、コレットは軽く溜め息を吐いた。無論、彼女はオーディスとは面識がない。先程ちらりと顔を合わせたのが始めてだ。そんな相手に「先生に置いて行かれたので、一緒に連れて行って下さい」と頼まなければならない。


「憂鬱だなあ……」


 失礼します、と小声で言いながら、コレットは天幕を開いた。


 だが、そこに居たのは、オーディス・シャティオンとは別の人物だった。


「あら、どなた?」


 聞き覚えのある声だった。つい先ほど、強烈な印象とともに刻み込まれた声。だが、あの時とは違って、別人かと思えるほどやんわりとした声音だった。


 まばゆい金色の髪、美しく焼けた肌、天火と同じ色の蒼い瞳……。


 いくつかの書類を持った継火手カナンが、きょとんとした顔で小首を傾げていた。

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