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【第百四六節/山上の説教 上】

 コレットは、迷子になった。


 丘を登り始めた当初は、手を引かれていたから良かった。だが、上に近づくにつれて人口密度が増し、人とぶつかることが多くなった。


 弾みで、ズレがちな眼鏡が地面に落ちた。慌てて拾おうと手探りで地面を触り、何とかそれを拾い上げた。


 立ち上がって眼鏡を掛けなおした時には、すでに師の姿が見えなくなっていた。



「……あれっ」



 たらり、と冷や汗が流れる。


 見渡せばそこは魔境。都市の人間も居るには居るが、恐ろしい闇渡りの姿も大勢見られる。


 コレットは今までずっと、煌都の中で育ってきた少女だった。ラヴェンナは十万人単位で人間が居住する巨大な都市だが、それぞれの人間が暮らす範囲など限定されている。コレットは、そんな狭い範囲の中でも、さらに小さな範囲……自分の屋敷とその周辺くらいしか知らなかった。


 だから当然、闇渡りを間近に見るのも初めてだった。大した才覚ではないが、一応は天火を発現させられる継火手であり、家柄も悪くない。召使たちは、お嬢様であるコレットに、決して闇渡りなどという穢れた連中を見せようとしなかった。


 だから、こうして煌都を出て、そのうえ街道から外れるなど、一人では到底出来ないことだったのだ。


 頼りにしていた師匠ともはぐれてしまった。


「うぅっ……先生ぇ……!」


 群れからはぐれた羊のようにか細い声で呼び掛けるが、周囲の雑音に掻き消されてしまう。


 だが、そんな頼りない子羊に群がってくるのは、当然狼だけだ。


 気がつくと、コレットの周囲を三人の凶相持ちが取り囲んでいた。


「クックックッ。お嬢ちゃん、良い所に来たねぇ。買え」


 両手に籠を抱えた痩せぎす男が、ぎょろりと目を剥きつつ花束を差し出してくる。


「ヒ、ヒツジ……まるやき。ある……買え」


 羊の丸焼きを抱えた汗だくの巨漢が、たどたどしい口調で勧めてくる。


「……パン菓子。うめぇぞ。買え」


 だが、コレットの真正面に立った男が一番おっかなく感じた。ゴツゴツとした体型に低い声、何より皮の剥がれた痕のある禿頭。何とか唇を釣り上げて笑顔を作ろうとしているものの、笑い慣れていないのは一目瞭然だった。


 むしろ、そのいびつな笑顔は、コレットの脳内に暗い想像を巡らせた。


 誘拐、身代金、女衒、虐待、監禁等々、物騒な言葉がコレットの脳内を跳ね回り、彼女は「ぴいいいいいっ!」と叫びながら逆方向に逃げ出した。


 直後、どん、と誰かの身体にぶつかって、跳ね飛ばされた。


「きゃっ」


 地面に尻もちをついたはずみで、コレットの眼鏡が地面に落ちた。慌てて拾おうとするが、辺りがさほど明るくないことと、周囲の人間の影、なにより本人の焦りのせいで場所が分からない。コレットの手は虚しく地面を掻くだけだった。


(急がないと、私、私……!)


 闇渡り達の足音が少しずつ近づいてくる。コレットは泣き出しそうになった。


「おい、これか?」


 沸騰しかけていた頭の中に、ぶっきらぼうな声が届いた。「そ、それです!」と慌てて手を伸ばす。眼鏡の縁に指が引っかかった。


 それを掛けなおして視線をあげた時、そこには彼女達を取り囲んでいたのと同じ、闇渡りの白い顔があった。


 晴れた日の満月を思わせる金色の瞳が、コレットをじっと見ていた。目じりは吊り上がっているが、不思議と険は感じない。存外に整った顔立ちも相まって、コレットは肩の力を抜きそうになった。


 だが、左側の頬に刻まれた三本の生々しい傷跡を見ると、やはり闇渡りなのだ、思わされた。


 ……思いはしたのだが、コレットは青年の背後に逃げ込んでいた。束ねられた黒い髪が彼女の顔に掛かった。「うん?」急に盾にされた青年は、特に怒るでもなく、手に持った革袋の中から巻物パイルガラーをつまんで頬張った。


 シャクシャク、と気の抜けるような軽い音が響く。


 そこへ、コレットを追いかけてきた闇渡り達が突っかかってきた。


「てめぇゴラぁ!!」


「ひっ!」


 痩せぎすの闇渡りが、顔中に血管を浮き上がらせて恫喝する。これまでの人生でこれほど柄の悪い声を聞いたことの無いコレットは、青年の黒い外套に掴まって縮み上がった。


 だが、その怒声はコレットではなく、闇渡りの青年に向けられたものだった。


 そしてその当人は、特に気にする様子もなく、巻物パイルガラーを頬張っている。


「コラてめぇコラ、殺すぞオォン!!?」


「ご挨拶だな、おい」


 唾が掛かるほどの至近距離で凄まれても、泰然自若としたままだった。それどころか、煩わし気に片手で男を押しのけてしまった。


「あんたら、押し売りするにしたって……ちょっとは考えてやれよな」


 青年の金色の目が、花束、羊の刺さった串、パン菓子の盛られた籠を順番に眺める。そして、呆れ交じりの溜息をついた。


「食い物はまあ分かる。串焼きもまあ良いとして、花束なんか売ってどうするんだよ。誰が買うと思ったんだ?」


「ぅるっせぇゴラぁ! 誠意見せりゃあ良いだよ!」


「誠意、なあ。それで女の子を震え上がらせてどうするんだよ。ちょっとは言い方とか考えろって。


 それからお前。串焼きって線は悪くないが、ブツがデカすぎる。誰も食えねえぞ」


「お、おれ、食える」


「馬鹿。他人の目線に立てって言ってるんだよ」


「うる、さい。裏切り者。せ、せ、背骨、ぶぶ、ブチ折る」


 二回り以上大きな大男が発する殺気など無視して、青年は最後の一人に声を掛けた。背中側で縮み上がっていたコレットが、恐る恐る首をのぞかせる。


「ったく、あんたがついててこの体たらくかよ、アブネル」


「気安く呼ぶな。俺達が好き好んでこんな茶番をしていると思っているのか?」


「少なくとも、あんたが一番最初に聞き入れたってことだけは知ってるぜ。あんたなりの落とし前なんだろうが、それなら部下にもちゃんと周知させろ。こんなやり方じゃ、いつまで経っても罰金は減らないぜ?」


「……チッ」


 禿頭の男は忌々し気に舌打ちする。だが、青年に向かって言い返そうとはしなかった。彼の言っていることが正論だと認めざるを得なかったのだろう。


 もっとも、それで彼らの間の溝が埋まるわけではない。「行くぞ」と呟くように言うと、踵を返して雑踏の中へと消えていってしまった。


「イスラぁ!! 手前いつかぶっ殺すからなあ!!」


「おー、楽しみにしてるぜー」


 新しい巻物パイルガラーを頬張ったまま青年……イスラは手を振った。そして、それを飲み下すと、ようやく背後に回り込んでいたコレットに声を掛けた。


「災難だったな、嬢ちゃん。怖かっただろ?」


「あ……は、はい」


 先程の連中ほどではないとは言え、やはり闇渡りは恐ろしい。イスラがどうこうというよりも、コレットの中でそうした固定観念が出来上がっているからだ。


 それでも、今度は逃げ出そうとはしなかった。確かにイスラは恐ろしい闇渡りに違いないし、黒い外套の下には大きな伐剣の柄が見えている。さっきまで必死になって掴んでいた外套も、本来ならば忌むべき難民の象徴なのだ。


 だが、イスラの醸し出す雰囲気には、妙な穏やかさがあった。態度や口調こそぶっきらぼうだが、他人を突き離そうとする棘が無いからだ。まるで、大きな犬みたいだな、とコレットは思った。


「見たところ、煌都のお嬢様ってところだろうが……なんで一人でいるんだ?」


「そ、その……本当は、先生と一緒に来ていたんですけど。はぐれてしまって」


「つまり、迷子か」


「……はぃ」


 消え入りそうな声と共に、コレットは再び小さく縮こまった。イスラは「ふぅん」と言いつつ、革袋を差し出した。


「まあ、とりあえず食えよ」


「そ、そんな!」


「毒なんか入ってねぇって。


 まあジタバタしても仕方ないだろ? これだけ人がいるんじゃ、一人を見つけ出すのは結構大変だぜ?」


 イスラの言う通り、丘の上に集まってきた人々の数は、コレット達が到着した時以上に膨れ上がっている。二人のいる場所は外延部なのでまだましだが、丘の頂上に近付くほど人が大勢集まっている。


 その中から一人の人間を探すとなると、確かに途方もない仕事に思えた。


「ん」


「……ありがとうございます」


 革袋一杯に入っていた巻物パイルガラーを手に取る。薄く伸ばした生地に木の実や蜜を練り込み、巻き上げて焼いた菓子だ。口に入れると、意外に強い歯ごたえだったが、素朴な甘さと旨味が詰まっている。


 一つ、二つと食べると、彼の言う通り、確かに少しだけ落ち着いた。


「どうせ今から見世物が始まるんだ。終わったら自然と人も減るだろうし、それまで見物していけよ」


「見世物、ですか?」


「ん? あんた、知らずに来たのか?」


「はい、先生からは、良い勉強になるから……と言われて……」


「良い勉強、ねえ。まあタメになるかどうかは分からないけど、結構面白いとは思うぜ?」


 イスラがそう言った時、丘に集まった群衆の間にざわめきが広がった。


 丘の頂上に、杖を携えた女性が姿を現した。ほっそりとした身体に白いダルマティカを纏い、同じく白い外套を身体に巻き付けている。


 杖の中には、蒼い天火が煌々と輝いていた。決して大きな火ではないが、遠くにいるはずのコレットの目にも、しっかり焼き付くほどの強さを持っていた。


「さて、どうでる? カナン」


 菓子を放り込みながらイスラが呟く。コレットは無意識のうちに、その名前を反芻していた。


「あの人が……継火手カナン……」

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