トビアの出奔とサラの脱走で、誰よりも割りを食ったのはオーディスだった。
元々、サラを使った揺さぶりを計画していた彼は、予想外の所から冷や水を掛けられた形となった。
トビアが夜魔憑きの少女に対してただならぬ感情を抱いているのは知っているが、ここまで大胆な行動に出られるとは思ってもみなかった。要は、トビアを侮っていたのである。
もし速やかに現場に到着していたなら、竜巻を
グィドの噛みつきぶりは凄まじく、剣幕と言っても良い程だった。元は覇気など無い、いかにも軽薄そうな男なのだが、執拗に夜魔憑きを引き渡すよう迫ってくる。あくまで彼の手で、ラヴェンナにおける脅威を排除したいようだった。
なので、オーディスが「私が斬ります」などと答えると、話は収まるどころかますます面倒になっていった。
そしていざ夜魔憑きが逃げたと知ると、半狂乱のような有様で馬に飛び乗り、部下を連れて
「オーディス、俺たちも追おうか?」
降りてきたクリシャがそう言うが、既に何もかも手遅れなのは明白だ。それは、操蛇族の首領である彼女が、一番分かっていることだろう。
「……空の上など、風読みの独壇場だろう。下手に刺激した所で損害を増やすだけだ。第一、もう追いつけまい」
「そりゃあ、あんな高さまで一瞬で昇られちゃねえ」
クリシャは苦笑交じりに空を見上げた。そんな彼女に、オーディスは胡乱気な視線を向ける。
「他人事ではないぞ。奪われたのは君のところの竜だろう。業腹だとは思わないのか?」
「そりゃあ、怒ってるし、もし捕まえられたらぶん殴るけど……ここまで思い切りの良いことをされると、逆に清々しい気分になっちゃってねえ。身内のなかでも、怒ってるやつはほとんどいないさ」
山岳部族の長らしく、クリシャは豪放磊落に笑って見せた。オーディスはまだ言い足りなかった。だが、かつてエマヌエルが、クリシャのそういう大らかなところを好いていたことを思い出し、口を閉ざした。
彼にとっては、夜魔憑きの娘を手放してしまったことよりも、竜を一頭失ったことの方が痛手だった。辺獄に入ってからは輸送手段をこれ一つに頼ることになる。クリシャはありったけの竜を引き連れてきてくれたが、それでも多いに越したことはない。
もっとも、これ以上追及したところで何一つ生産的でないことも理解していた。やるべきことは大量に残っている。諦めたグィドが戻ってきて、また騒ぎを起こされる前に、さっさとティヴォリを立ち去りたかった。
(……が)
優先順位は心得ている。しかし、
◇◇◇
カナンの姿を見つけるのは簡単だった。一連の騒動で負傷した難民達のなかで、手の平に宿した蒼い
今は記憶としてしか残っていない
――僕は、人間の成り損ないなんだよ。
昔、自分の言った言葉が、にわかにオーディスの内側から湧き出してきた。懐かしいな、と思った。そんな風に感傷的な台詞を吐けたのは、そこがエマヌエルの胸の中だったからだ。
(何を考えているんだ、私は。疲れているのか……?)
思い当たることは多々ある。自分が動く分には苦労など感じないが雑多な人々の意思が絡みあい、予想外の展開が連続して起きると、いくら何でも神経を使う。そもそも常識外れの怪物と戦い生還した後なのだから、疲労しない方がおかしい。
思い出に浸るなど、非生産的だ。そこに留まっていては一歩も前に進めない……オーディスは自分にそう言い聞かせると、ちょうど治療を終えたカナンに呼びかけた。呼ばれた彼女は振り返ると、少しだけばつの悪そうな表情を浮かべた。
「カナン様、こちらへ」
そう言って、オーディスはカナンを人だかりから離れさせた。
「トビアさんのことなら、私は何も知りませんよ?」
人気が減るなり、カナンが先手を打って切り出した。オーディスは軽く肩をすくめた。
「現場にはイスラの
「……」
オーディスの言わんとすることを読んだカナンは、少し上目遣いに彼の表情を伺った。そこにはいつもと変わらない、冷静そのものの表情がある。あまりに整った顔立ちのため、仮面をかぶっているかのようだ。
もっとも、カナンがそう感じている人物の胸中は、当人さえ戸惑うほど混乱していた。やはり、エマヌエルのことが思い出されてならなかった。
その動揺を上書きするように、オーディスは続けた。
「私には、貴女を弾劾する権利はありませんし、ましてや罷免することなど不可能だ。ただ、今回のように救征軍の利益にもとる行為を続けられるならば、私とて看過は出来ない」
「……そんなつもりは無い、と言っても、説得力はありませんね」
カナンは開き直った。ここまではっきり言われた以上、はぐらかしても仕方が無い。彼が言う通り、弾劾も罷免も出来ないのだから、認めたところで痛手は無い。それに、彼がこのことを言いふらすとも思えなかった。そんなことをしたところで、カナンの権威を失墜させるだけで、それは救征軍の不利益になる。
「今回限りです。私の……甘さだと思ってください」
微笑を浮かべて、カナンは堂々と言ってのけた。腹立たしさを感じるより先に、エマヌエルも同じような顔をするだろうな、とオーディスは思ってしまった。
この甘さこそが、多くの人間を抱擁する根源なのだ。かつてエマヌエルがそうだったように、カナンも似たような精神を備えている。闇夜を照らす月光のように、彼女達の姿は寄る辺の無い人々の光なのだ。そして光は、善人にも悪人にも平等に降り注ぐ。
だからこそ、自分のような合理主義者がしっかりと手綱をとらなければならない。
「そう信じましょう。……それはそうと、以前私が出した宿題を憶えていられますか?」
「ウルバヌスでのことですね。もちろん憶えています」
「ティヴォリを離れれば、すぐにでもラヴェンナ管区の中心部に入ります。世界中の煌都からも、続々と使節が到着していると情報が入っている……彼らの前で、貴女の考えを披露してもらわなければならない」
カナンに課せられた使命は重大だ。彼女の演説次第で、救征軍に対する見方はどうとでも左右される。煌都の高官たちを説得出来なければ、ろくな救援を受けることは出来ず、辺獄の中で立ち往生する羽目になるだろう。
それは無論、カナン自身も重々承知していた。
だが、彼女の思考はオーディスの想定と少々異なっていた。
「その件については、しっかりと考えてあります。ただ……少し形を変えてみたいと思っています」
「形を変える?」
カナンの悪戯っぽい表情を見て、オーディスは聞き返した。こういう顔をするのは、カナン特有の性質なのだろうと思った。
「旅に出るまで、私は世界の真実を何も知りませんでした。それは、私が煌都の奥深くで育ったからです。これから話しかける人達も私と同じような生い立ちの人ばかり……いきなり私の構想を打ち出したところで、分かってもらえないと思います。
だからまずは、話を分かってくれそうな人達から始めようと思うんです」
「分かってくれそうな人、とは?」
オーディスの問いに対して、カナンはにっこりと笑って見せた。
「それはもちろん、