サラは、暗闇の中に横たわっていた。疲労が身体を包み、浅く不快なまどろみに沈んでいた。
時折、彼女の脳裏に、記憶の泡沫が夢となって浮上する。思い起こす度に罪悪感や劣等感を刺激し、少女の額に汗を浮かべる。
(わたしは、知ってる……ここを、この場所を……)
それは、懐かしくも空虚な暗闇。
檻に入れられていた時、自分を包んでいたもの。
四角い箱のなかに全てが詰め込まれていた。たった一つの窓には鉄格子が嵌められ、黒い垂れ幕が掛けられている。
それが大きく広げられると、別の世界があった。自分を恐怖、蔑み、好奇心、そして好色の目で見る者共の世界が。
一度は
あの時間が、自分の人生の中で唯一有意義な時間だったと思う。記憶の泡沫が、そこだけは淡く輝いている。たとえ、その光を発するのが邪悪な黒い炎であるとしても。
だがそれさえも失われ、自分は向こう側にいる意味を喪失した。破れかぶれに復讐を望んだが、元よりその意思は強固ではなく、あっさりと破れてしまった。
その結果がこれだ。
(わたしは、還ってきたんだ)
外の世界から、こちら側へ。そしてもう二度と境界を跨ぐことは無いだろう。行き着く先は一つ、死の世界だけだ。
あるべきでない者が、この世に座を占めることは許されない。
『その通りだ、サラ』
暗闇の中から、灰で出来た人形が現れ囁きかける。子供が作ったかのようなそれは、眼窩と口の部分だけがぽっかりと開いていた。その一粒一粒に、人間が焼ける時のあの禍々しい臭気が染み付いている。
『ずっと言い続けてきただろう。お前が行くことの出来る場所など、この世のどこにも無いのだと。
これはお前への報いだよ』
(……そうだね、オムリ)
記憶の湖水から、次々と死者たちが浮上してくる。首の折れた者、全身を刺し貫かれた者、挽肉のように潰された者……どの者も、怨嗟の声を漏らしながら彼女を取り巻き、不揃いな腕を伸ばしてくる。まるで、彼女が使役する夜魔たちのように蠢き、少女を死の水の中へ引き摺り込もうとする。
四肢が解体される。血は流れない。身体は木製の操り人形に変わり、球体を組み合わせて作った関節は簡単に壊れてしまう。首がもぎとられ、光を失った青紫色の瞳が水の中に沈められる。
ぽちゃん、と、冗談のような水音が響いた瞬間、サラは覚醒した。
おびただしい量の冷や汗を浮かべたまま、サラは大きく呼吸した。心臓が早鐘を打っている。それでいて、心は凪のように静まり返っていた。肉体は死への恐怖に震えているが、精神は運命を受容しようとしていた。
足元から鎖の鳴る音が聞こえる。見ると、右足首に足枷がつけられており、そこから伸びた鎖は遺跡の残骸に絡みつけられていた。天幕の中には彼女一人だけだが、布の壁にはいくつかの影法師が映っていた。靴が砂を踏む音が聞こえてきた。
サラは上半身だけを起き上がらせると、自分の内側に居る夜魔たちに呼びかけてみた。だが、手元に黒い霧のようなものが生じるだけで、明確な形を伴って現れることは無い。
自分が力を制御出来ず、暴走させてしまったことは認識している。その後、解き放たれた魔神が好き放題に暴れまわったことも、記憶の一部として確かに焼き付けられていた。いくらそれが彼女の意思を離れた行為であったとしても。
「わたしが……たすけて、だなんて……お笑い
サラは自嘲した。夜魔憑きの力が暴走した瞬間、自分はトビアに向かって、確かにそう言ってしまったのだ。
あれほど意識的に悪役として振舞っていた自分が、結局は我が身可愛さのために泣き言を吐いてしまった。それは、自分の決意の弱さを表す事実だ。
本物の怪物になりたいというのなら……ベイベルと同じ存在になりたいと思うのであれば、自分はむしろ、怪物と一体化したことを喜ぶべきだったのだ。
(でも、わたしはそう思えなかった)
どこまで言っても、自分の中の「人間」が邪魔をする。どうして夜魔憑きの力は、自分の心までも黒く染めてくれなかったのだろう? 最初から異常な精神を持って生まれてきたのなら、人間の世界に対する狂おしいほどの渇望を抱くことは無かっただろう。もしそう生まれてきていたなら、どれほど生き易かったことだろう。
……そんなことを考え続けたところで、何の意味も無い。そう思い、サラは再び自嘲した。
最早、自分を貶める言葉しか湧いてこない。
「……」
自分の中の夜魔は、まだ死に絶えていない。これほど大きく損傷したのは初めてだが、いつかは以前と同じ勢力にまで回復するだろう。
だが、今はまだ、実体を持って顕現出来ない。自分のやろうとすることを止めることは出来ない。
手の平に浮かべた黒い霞の中から、サラは隠していたものを取り出した。
人面を模した彫刻、髪を束ねたような意匠の柄、折れた刃……ウドゥグの剣の残骸だ。
本当はカナンが現れた時の切り札として使うつもりだった。損傷しているとはいえ旧世代の武器である。継火手に対して圧倒的に不利な自分が渡り合うためには必要だと思っていた。
それが、こんな形で役に立つとは思わなかった。
折れた刀身は、それでも鋭さを保っている。肌を裂き、血管を破るには十分だろう。
サラは、それを自分の細い首筋に押しあてた。
「っ……」
手が震える。意識せずとも、身体は恐怖を覚えて竦みあがっている。どこまで往生際が悪いのだ、と怒鳴りたくなった。それだけに、一線を越えることさえ出来れば、あとは簡単だという確信があった。揺れる刃が首筋に細く赤い線を描き、背筋に悪寒が走る。
(少しでいい……ほんの少し、わたしに勇気があれば……)
やるべきことははっきりしている。それをするだけで良いのだ、と言い聞かせる。脱力しそうになる腕を叱咤し、サラは両手を剣の柄に沿えた。
夜魔たちが蠢き、赤ん坊のように小さな手が、彼女を押しとどめようとする。だが、それはいずれも実体を伴っておらず、サラに触れることさえ出来ない。
あとは引き斬るだけだ。
そうして力を込めた瞬間、サラの耳に、風の吹きすさぶ音が聞こえた。