「……どこに行く気だ?」
喧騒から離れた天幕の中、添え木を足に当て横たわっていたイスラは、隣の少年に声を掛けた。
イスラの金色の目には、闇の中でびくりとトビアの肩が震えたのが見えていた。
「そうビビるな。止めたりしねぇよ」
「……」
「あの子の所に行くんだろ?」
「はい」
ふぅ、とイスラは息を吐いた。今になって痛みが酷くなってきていた。骨の一部が、焼けた石炭に変わったかのように熱い。今更泣き出したりはしないが、汗ばかりは彼にも止めようが無かった。
濡れて張り付いた髪を掻き分けながら、イスラはもう一度息を吐いた。
「行って、その後どうする」
イスラの質問に対して、トビアは何も答えなかった。石のように固まり、少しも動かない。ただ、緊張した息遣いだけが聞こえる。
「ちょっと考えれば分かるが、あの子はここにはいられない。難民にだってなれやしないさ」
「そんな……!」
「お前だって分かってるだろ。あの子が人間の間に入っていけるなら、最初からあんなに捻くれたりはしねぇさ。
どこかから爪弾きにされた連中は、同じように除け者同士で混ざりあえる。でもそれは、お互いに群れからはぐれた羊だって自覚があるからだ。
あの子はどうだ? 自分のことを虎だと思ってる。虎は狼みたく群れないし、飼いならされて牧羊犬になることもない。そういう生き方をしてきているからな」
「……それは、サラのせいじゃないですよ」
「ああ。カナンなんかは、世界の仕組みが悪いって言うだろうさ。
でも、現実はあの子を許しちゃくれないぜ?」
剣先で突くように、イスラは次々と正論を投げつけた。
だが、彼がどれだけ批判的なことを言おうと、トビアはもう反発しなかった。
イスラが何のためにこんなことを言うのか理解していた。そして、彼が自分の答えを洞察していることにも、当然だが気付いていた。
「……ありがとうございます、イスラさん」
「そりゃあ、何の礼だ?」
「僕を心配してくれて……でも、もう覚悟は出来ています」
イスラは腕に力を込めて、上半身だけを起き上がらせた。金色の瞳が、真っ直ぐに少年を射抜く。
「覚悟って言葉は、そんなに安いもんじゃないぞ。分かって言ってるんだな?」
長らくカナンと共に過ごしてきたイスラは、その言葉に宿る重さを十分に承知していた。覚悟を決めるとは、すなわち自ら退路を断つことだ。
意志の無い者の「覚悟」など、必ず惨めな結末を迎える。仮に上手くいったとしても、本物の意志が宿っていない限り、その者の内的な成長は皆無だ。そうして、次の機会には挫折する。
カナンは、自分の信じる正しさのために、全てを捨てる道を選んだ。地位も、将来も、金も、名声も、家族さえも捨てて、己の進路を定めた。
それぐらいのことをやって、ようやく本物と言えるのだ。
だからイスラは、トビアに問うておかなければならなかった。
お前に未練は無いか。
お前に迷いは無いか。
お前に勇気は有るか、と。
トビアの答えは簡潔だった。
「はい……!」
少年は小さく、しかしはっきりそう答えた。その表情や声音一つとっても、彼が半端な気持ちで答えたのではないと分かる。
「なら、良い」
イスラはぽつりと呟いた。それから手元にあった
「上手く使え。俺にとってもまだ要り様だから、使い終わったらその辺に置いてってくれ」
「良いんですか? イスラさんが協力したって、バレちゃいますよ」
軽く鼻を鳴らすと、イスラは再びごろりと横になった。
「俺は足が痛くて眠りこけてた。気がついたらお前が明星を持ち出して好き勝手やってた……そうだろ?」
「……ありがとうございます」
トビアは明星をベルトに吊るすと、身の回りにある物をかき集めて背負い袋に詰め込んだ。難民の一員として旅をしてきたおかげで、必要なものは全て揃っている。二人分となるといささか不安だが、これ以上時間をかける余裕は無かった。
その間、イスラはじっと天井を見つめたままだった。幽霊に気付かない一般人のように、傍で誰が何をしているか、完全に無視していた。
イスラ自身も自覚していなかった。どうしてそこまで素っ気ない態度をとろうとするのか。何故、憎まれ口のような形でしか、忠告を口に出来なかったのか。自省するのが苦手な彼には、もやもやとした曖昧な不快感のようなものでしかない。だが、単純に不快感と言い切れないところが、輪をかけて不愉快だった。
(なんだってんだ、こいつは……)
こういう時、無性にカナンの声が聴きたくなる。彼女は、他人の心の中にあることさえ、簡単に言葉に変えてしまう。人によってはそれを薄気味悪く感じるかもしれないし、逆に救いと感じるかもしれない。
イスラにとっても、救いとまでは言わないが、ある種の心地良さがあった。
そんな風に思っていたからだろうか。天幕の戸布を持ち上げ、見慣れた顔がひょっこりと首を突っ込んだ。
「イスラ、それに……」
カナンは、警戒する猫のように固まったトビアを見て口をつぐんだ。
彼女は何も言わず、静かに相好を崩した。イスラには、彼女がどこか安心しているようにも見えた。
「カナンさん、その……」
「大丈夫、分かってますよ」
天幕の中に入ったカナンは、懐から銀色に輝く鉄片を何枚か取り出すと、立ち竦んだままのトビアの手の中に押し込んだ。
「ペトラが使っている護符です。聖銀も混ざっているから、私の
彼女が言う通り、トビアの手に握らされた鉄片には、ほのかな熱が込められていた。焚火にかけた鍋のようだが、少しも冷える気配が無い。
「……カナンさんまで、こんな……」
立場も何も持たないイスラとは違い、カナンは難民団の頂点だ。最も不正や不公平から遠い存在でなければならないのに、自分のためにとても危ない橋を渡ろうとしている。もし他の人間に知られれば、それだけで信頼が揺るぎかねない。
カナンがその危険性を理解していないはずがない。パルミラ以来、トビアはカナンのすぐ近くで、彼女の明晰さを目の当たりにしてきたのだから。
だが、当のカナン自身には、少しも後悔など無かった。
「私、安心してるんですよ?」
「安心?」
「ええ。貴方が、集団の中でも自分の価値観を見失わない人だから」
そう言って、カナンは穏やかに微笑んだ。
「私は長として、集団の中の集団を救える立場にあります。でも、少数者の意見を汲み上げることは出来ても、個人々々を救えるほど器用ではありません。
それが出来るのは、個人のために孤独を選べる……貴方のような個人なんですよ」
優しい口調ではあったが、その言葉に込められた厳しさをトビアはしっかりと読み取っていた。
カナンが言わんとしていることも、先程イスラが言ったことも、結局は同じことを指しているのだから。
集団を離れ、孤独な人間と同じように、自ら孤独を選択し共有する……集団の中で生きられない人間を救うには、それ以外に方法など無いのだ。
それが並大抵の労苦でないことを、イスラとカナンを見続けてきたトビアは、しっかりと理解していた。
だが、そんな二人を見てきた彼だからこそ、彼らが作り上げた関係性に憧れるのだ。
「……ありがとうございます、イスラさん、カナンさん」
天幕の戸布に手を掛けて、トビアはもう一度だけ振り返り言った。イスラはぶっきらぼうに「さっきも聞いたよ」と返した。カナンは何も言わず、いつもと変わらない穏やかな表情のまま、静かに頷いた。
前を向くまでのわずかな時間の中で、トビアの脳裏にこれまでの出来事が走馬燈のように駆け巡った。
アラルト山脈で出会った時のこと、地底の大坑窟を駆け巡ったこと、砂漠のオアシスやパルミラの造船所跡、名無しヶ丘の戦場、そして今、ここ……、
その全てを胸に納め、トビアはもう何も言わずに天幕を飛び出した。一路、囚われたままのサラの元へ向かって。