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【第百三八節/カナンと鼻血】

「もうやめて!!」


 そう叫びたかった。だが、自分を置き去りにして動いていく状況の中で、カナンの思考は停止してしまった。


 あの時とまるで同じだ。名無しヶ丘で、マスィルと相対せざるを得なかったあの時と。


(私は、また止められないの……?)


 彼らは助けられることを望んでいない。


 救われることが、かえって惨めさを自覚させてしまうから。今になって劣等感を刺激させられても、それを覆すことは出来ないのだ。


 そもそも、救うとか助けるとか、そういう立場に立っていると考えること自体がおこがましい。自分は力を正しく行使することに拘るあまり、いつの間にか他者の心情を読み取れないほど傲慢になっていたのではないか……カナンはそう思った。


 明晰なはずの思考は空回りを繰り返し、頭の中に無意味な空白を生み出し続ける。自分が今どこにいて、何をしているのかさえ把握出来ない。




 だから、いつの間にか臨界寸前の法術の前に、杖も持たず詠唱もせず飛び出していた。




「……あれっ?」




 竜の上のクリシャが驚愕に目を見開いている。後ろから「何だと!?」と狼狽する声が聞こえる。


(やっちゃった……)


 そう思うのと同時に、目の前の地面が爆ぜた。クリシャが咄嗟の判断で天火の軌道を逸らしたのだ。辛うじて直撃は避けられた。


 だがもちろん、撃ってしまった以上爆発はするし、爆風も発生する。

 何一つ考えもせずに法術の間に割り込んでいたカナンは、巻き起こった風圧によって土や小石と一緒に吹き飛ばされた。


 視界が夜空と地面を何度も往復し、聴覚は爆音の衝撃で飽和している。彼女の中の妙に能天気な部分が「まるで風車の羽みたい」と呟いていた。


 そのまま、壊れた風車の羽と化したカナンは、勢いよく走ってきていたアブネルらを巻き込んで地面の上を転がった。


「か、カナン様あああああっ!!」


 ぐらぐらと揺れる視界の向こうで、ユランから飛び降りたクリシャが駆け寄ってくるのが見えた。


「ご無事ですか!?」


「え、ええ、平気です。なんとも……」


 カナンはそう答えたが、鼻の奥から生暖かいものが流れてきた。「あれ?」手の甲で拭うと、血がべったりとついていた。


「鼻血……」


 吹き飛ばされ、アブネル達を薙ぎ倒した後に地面を何度も転がった。そのなかでぶつけてしまったのかもしれない。


 最後に流したのはいつだろう、と埒も無いことを考えてしまった。意外にも旅に出てからは一度も流していない。エルシャに居たころは、鼻血でなくとも血が流れれば家中大騒ぎになったものだ。


「っ、そうだ、アブネルさん……!」


 振り返った瞬間、カナンは服の胸元をぐいと引っ張られていた。すぐ目の前にアブネルの凶相がある。クリシャが再び気色ばむが、カナンが制止するよりも先に怒鳴り声が響き渡っていた。



「馬鹿か貴様! 何を考えているッ!!」



 寡黙な大男の発した怒声は、先程の爆発に匹敵する威力を持っていた。大音声が梢を揺らし、一度ならず二度も驚かされた鳥たちが夜空に飛び立つ。


「な、何と言われましても……私も、何を考えていたのか全然、分からなくて……」


 カナンの返事はアブネルやクリシャのみならず、居合わせた全ての闇渡り達の口を開いたままにさせてしまった。だが、いくら唖然とされたところで無い袖は振れない。本当に何も考えていなかったのだから。


「何も考えずに、法術の前に飛び出したのですか……!?」


 クリシャでさえも若干狼狽えていた。法術の威力を知っている継火手だけに、カナンの無謀極まりない行動は完全に常識の範疇を超えていた。


「貴様……俺の言ったことを聞いていなかったのか」


 脱力したアブネルはカナンの服から手を離した。死を覚悟していたというのに、完全に水を掛けられてしまった形だ。先程までは畏まった口調で話していたというのに、敬語を使うことさえ忘れてしまっていた。とても逃げ出せるような空気ではなくなってしまっている。


「それは……聞いていました。ちゃんと分かっています」


「分かっていたらこんな真似をしようとは思わんだろう。俺達は助けられることを望んでいないし、助けられるべきとも思っていない。そう言ったことをもう忘れたのか」


「忘れてはいませんよ。でも、私はたぶん、何度でも繰り返すと思います」


「名無しヶ丘の時と今回で、合わせて二回だ。もう十分だろう」


「何回繰り返したって、十分じゃないですよ。……貴方たちが一緒に来てくれないのなら」


 話ながら、カナンは少しずつ頭の中が整理されていくのを感じていた。


 自分が採った行動は、論理的な思考に基づいた結果と到底かけ離れたものだった。つまるところ、選びようのない二択を迫られた時に、自分がどう行動するのかということが証明されてしまったのだ。


 たとえ理屈にかなっていなくとも、あるいはそれが望まれていないとしても、自分は誰かを助けるために飛び出してしまう。そういう人間なのだ。


 それが人々の呆れを呼ぶということは、今のアブネル達の表情を見ていれば良く分かる。だが、それがカナンという人間の本性である以上、どうやった所で変えることは出来ないのだ。


「……何故、そうまでして俺達を助けようとする?」


「それが私という人間だから、です」


「はた迷惑な話だな」


「そうかもしれませんね」


 カナンは尻もちをついたまま辺りを見渡した。誰も彼もが、困惑や呆れ、あるいはそれに類する表情を浮かべている。ちらちらと木々の間に視線をやる者もいたが、結局駆け出そうとはしなかった。


 拭いた鼻血が、また垂れてくる。カナンはもう一度手の甲で鼻の下を拭った。


「でも、やっぱり悲しいじゃないですか」


「悲しい?」


「貴方は、自分達は焼かれて然るべき人間だと言った……でも、本当の悪人ならそんなことは言わないはずです」


 アブネルの脳裏に、サウルの姿がよぎった。彼だけでなく、カナンの言う「本当の悪人」という言葉にサウルを重ねた者は少なくなかった。


「自分を悪だと自覚している人が、本当の悪人のはずがないですよ。そんな人たちが、自分には生きている価値が無いと思って死んでいくなんて……やっぱり、良くないです」


「よく、俺達みたいな人間を憐れもうという気になれるな」


 アブネルは嘆息交じりに言った。どうやらこの継火手には何を言っても通じそうにないと感じ始めていた。この底抜けのお人好しぶりは、ある意味聾者や盲者以上に不自由な人生を彼女に強いているのではないだろうか。


「当たり前ですよ。私達は、同じツァラハトの上にいる者同士なんですから」


 爆発の衝撃で揺さぶられていた感覚が、少しずつ戻ってきていた。カナンは手をついて立ち上がるが、直立しようとするとわずかにふらついた。その肩をアブネルが支える。


 ようやくふらつきが無くなった頃には、鼻血は止まり、他の傷跡もすっかり無くなってしまっていた。


「……私は継火手です。この通り、傷だってすぐに治るし、血も簡単に止まってしまう。


 でも、流れているのは同じ赤い血です。私の血がこんなに簡単に止まるのに、他の人の血を流れたままにしておくことは出来ません」


 鼻の下に赤い染みを残したまま、カナンは闇渡り達に向けて微笑んだ。




「どうか諦めないでください。私達と一緒に、生きていきましょう」




 言いたいことは言い切った。カナンには、これ以上彼らに向けられる言葉は無い。


 だが、もしこれが届かなかったとしても、やはり自分は諦められないだろうな、と思った。


「…………」


 闇渡りのアブネルは、禿げ頭のあちこちに血管を浮かべていた。眉間がひくつき、耳の先端まで赤く染まっているのが分かる。


 彼はしばらくそうして黙りこくっていたが、やがて水を沸騰させた薬缶やかんのように、大きく長い溜息をついた。



「……負けだ。帰るぞ」



 その言葉とともにアブネルが踵を返した。


 カナンはホッと胸をなでおろし、クリシャもまた戦槍を地面に突き立てた。号令に従った闇渡り達も、大方が「やれやれ」と呟きながら居留地に向かって歩き始めている。


 だが、もちろん闇渡りの中には反発する者もいた。


「おいおい、引っ叩かれた餓鬼じゃあるまいし! いまさら戻るなんざダサ過ぎるだろ!」


 闇渡りの一人がそう叫び、数人もそれに賛同する。だが、アブネルは片手で彼らの反抗を抑え込んだ。


「ダサいも何も、名無しヶ丘で死ぬはずだった俺らがノコノコ生きている時点で、相当ダサいんだよ。今さら面子なぞ気にしてどうする」


「けどなぁ……!」


「それに」


 アブネルは首だけカナンの方に向けた。普段は鉄面皮のその顔が、カナンの目には少しだけ優し気に見えた。


「若い娘に鼻血まで流されて引き留められたんだ。これで振り切っていくんじゃ、甲斐性が無さすぎる」


 冗談の下手な人だな、とカナンは思った。それでも不器用な彼が最大限に気を使った結果なのだということも理解していた。


 カナンは軽く首を傾げて微笑を向けるが、すでにアブネルは背を向けて歩き始めていた。「さっさと鼻血を拭け」という捨て台詞を残して。

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