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【第百三五節/ティヴォリ 下】

「あまり座り心地の良い椅子じゃないねぇ……おい」


 上座を占拠したグィドが指を鳴らすと、天幕の外に控えていた従者達が仰々しい椅子を数人がかりで運び込んできた。座や背もたれにはたっぷりと綿が詰められ、真紅に染め抜かれたビロードで覆われている。「これこれ、こうじゃないと」と呟きながら、グィドは椅子の中に身を沈めた。


「馬鹿じゃないのかい、椅子に座れるだけ上等だってのに……」


 ぼそりと毒づいたペトラの椅子は、四本の脚の長さがそれぞれ不揃いなので、貧乏ゆすりをするたびにカタカタと音を立てた。隣で同じような椅子に腰かけたカナンは、丸く膨れた彼女の頬をつついた。


 もちろんカナンとしても複雑な気分だ。この時期に軍勢を連れて現れた上、ここまで横柄な態度を取られると、いささか腹立たしくもなる。当人があまり悪意や敵意を持っていないことも、無神経さの表れに思えた。


 グィド・ラヴァル・ゴートは二八歳、ギデオンと同い年だ。だが、冷静で謹厳な彼とは真逆に、軽薄で浮ついた雰囲気がつきまとっている。カナンは心の中で色眼鏡を外して再度観察してみたが、外す前と大して変わらなかった。


 貴人の常として、顔立ちはやはり整っている。淡い金色の髪も、王家たるゴート一族の血筋を引いている証拠だ。貴族や王族が近親同士で婚姻関係を結ぶのは自然なことだし、過去にゴート家の子息がラヴァル家に嫁いだ、ということがあったのかもしれない。


 いずれにせよ、カナンの目の前にいる貴公子はラヴェンナで非常に重要な地位を占めている。女王ほどではないが発言力と権力があり、難民たちの命運を左右することも容易だろう。


(でも、なんでこんな時期に……?)


 カナンは向かい側に座ったオーディスの表情をうかがった。相変わらず冷静な面持ちだが、口を閉ざしたままだ。グィドもあえて視線を向けずにいるようで、両者の間には明らかに険悪な空気が流れている。とても相談など出来る状況ではない。よしんば踏み込んだとしても、即座にグィドに阻まれることは目に見えている。


 最初の一手を打つのは指導者の役目だ。カナンはその責務を果たすことにした。


「グィド殿下、わざわざこんな場所までご足労いただき、恐縮に存じます。つきましては、どのような御用件でいらしたのか、お聞かせ願えますか?」


「おやおや、早速だねえ。馬車に高山から運ばせた氷と、御料農場で育てたブドウのシロップがあるんだ。それから、一緒によく冷やした白ワインも持ってきてる。本題に入るのは氷菓と酒を愉しんだ後にしよう」


「……はぃ?」


 カナンは、おそらくここ数週間で最も間の抜けた声を漏らしてしまった。


(今はそんな呑気なことを言っていられる状況ではないのに……)


 むしろ、いきなり完全武装した集団に押し寄せられたことで、闇渡り達の間に動揺が広がっている。ヒルデやゴドフロア、サイモン達を使って動揺を鎮めさせているが、カナン本人が姿を見せなければ効果は薄いだろう。果たして、目の前にいる男はどの程度現状を把握しているのだろうか?


 あるいは交渉上の戦術なのかとも思ったが、グィドの表情から「裏」を読み取ることは出来そうにない。それどころか、カナンの返答を待たず侍従を走らせてしまった後だった。


 相手がどう思っているかはあまり考えず、どんどん自分の調子に任せて物事を進めてしまう類の人間なのだと、カナンもようやく理解した。理解して、内心溜息をつきたくなった。


(たぶん悪い人じゃないのだろうけど、間が悪すぎるわ……!)


 ニコニコと笑顔のまま酒を注いでいるグィドは、あまり下心を感じさせない。あの呑気さも、ある意味では育ちの良さからくる余裕のようなものなのだろう。ただ、状況に即しているとは言い難かったが。


 全員分の白ワインを注ぎ終わったグィドは、皆が困惑顔なのも大して気にせず晴れやかな表情で「女王陛下の健康を祈って!」と音頭を取った。まばらな、呟くような答礼がぽつぽつとあがり、カツンカツンと今ひとつ締まらない乾杯が響き渡った。


「……乾杯も終わったところで、殿下、そろそろ本題に入りましょうか」


 全員がともかく一口目を呑み終えた時点で、オーディスが再度斬り込んだ。だが、グィドは「うん」と生返事をしただけで、紫色のシロップを砕いた氷の上に振りかける作業に熱中する振りをした。オーディスに対する反応だけは、明らかに嫌悪感や敵意が混ざっていた。


 だが、オーディスが作ってくれた糸口を無駄にするわけにはいかない。カナンは彼の言葉を引き継いでさらに踏み込んだ。


「恐れながら、殿下が兵を連れてこられたことで、難民たちの間に動揺が広がっております。私は、彼らの代表として一刻も早くお言葉を取り次ぎたいのですが……」


「若いのに仕事熱心だねぇ、偉い偉い」


 こういう台詞が出たとしても、別に茶化したり馬鹿にしているわけではないのだ。カナンもそれは分かっていたが、やはりその無神経ぶりに頭が痛くなった。


 だが、次に彼の放った言葉は、カナンの頭痛など吹き飛ばすだけの威力を持っていた。


「でも心配しなくて良いよ。ここからラヴェンナまでは、連中は僕の軍勢の監視下に置くから。君らは先にラヴェンナに行って、話を詰めておいでよ」


「……今、なんと?」


「うん、つまりね、君らのお仕事は僕が預かるよ。お疲れ様」


 グィドは全くの無邪気だったが、最後の「お疲れ様」の一言がペトラの導火線に火をつけた。もともと油を染み込ませた状態で火種の近くに置いていたのが、燃え移って一気に点火してしまった形だ。



「ふざけるんじゃないよ、この野郎っ!!」



 子供並みの体躯から発せられたとは思えないほどの大声が天幕を揺らした。机がガタリと揺れ、グィドは水を掛けられた猫のように椅子の上で飛び上がった。


「あたしらが……カナンがここまで、どれだけの苦労を背負ってやってきたと思ってるんだい!? あっちを立ててこっちを守って、ゴタゴタが起きないようにいつも頭を下げてきたってのに、それをお疲れ様の一言で済ます? 冗談も休み休み言いな」


「そ、そうムキにならなくたって良いじゃないか。結局は武器も何も無い、老人と女子供ばっかりの難民連中なんだろ? それの指揮をラヴェンナまで預かるから、君たちは休」


「辺獄には!? あたしらはこれからエデンまで行かなきゃいけないんだよ。ラヴェンナまで休んでろ? その後は丸投げする癖に? そういうのを良いとこ取りって言うんだよ!」


 ペトラの剣幕に気圧されていたグィドだが、カナンが彼女を制止するのを見ると、今度は逆に胸を張った。


「ふんっ、偉そうに言ったところで、君たちは僕らラヴェンナの人間が寛容だから成り立ってるんだ。何なら、今すぐにだって騎士達に制圧させることだって出来るんだぞ!」


「ちゃんと物を考えて言いな!」


「何だって!?」


「そんな簡単に済む話だったら、誰もこんなに困っちゃ……」


 今度はカナンも、少し強めに彼女の肩を押さえた。


「ペトラ、そこまでです」


 鬱憤を晴らしてくれるのはありがたいが、そればかりに熱中して交渉をおろそかにしてはいけない。グィドの言う通り、今の自分達は各煌都の微妙な思惑の中で、辛うじて爪先立ちをしているような状態だ。感情に流されて失敗すれば、情勢の波に呑まれて溺れてしまう。


「殿下、先程も申し上げた通り、難民達は常に不安の只中にあります。己惚れるつもりはありませんが、今まで彼らとの関係をなんとか維持してきたつもりです。もし指導者が変われば、彼らは自分達が見放されたと感じるでしょう」


 自分が良い羊飼いかどうかは分からないが、少なくとも致命的な反乱は起こされなかった。食事と安全の提供という最低限の部分をカナンはしっかりと守ってきたし、だからこそ難民たちも、不満を述べつつ彼女に従ってきたのだ。


 グィドが人事の変更をどの程度深く考えているのかは知る由もないが、上層部からのあおりを喰らうのはいつも下々の人間だ。これで食料や雑貨の配給が滞れば目も当てられない事態に陥るだろう。とても楽観論で片づけられる事象ではない。


 だが、ラヴェンナの王配は妙に頑固だった。ペトラに怒鳴られたことでへそを曲げたのか、カナンの言葉にも耳を貸そうとしなかった。


「見放される? 彼らが君に対して、そこまでなついているとは思えないね。聞いたよ、数日前にも娼婦が揉め事を起こしたり、反乱を起こされたそうじゃないか。それじゃあまとめられてるとは言えないよ」


「……」


 カナンは口を閉ざした。怒ったからではなく、驚いたからだ。


 彼女は難民団で起きている出来事を日誌にまとめ、十日分毎にパルミラとラヴェンナ両都市へと送っている。もちろんそこには、グィドが言ったことも記述してあった。


 だが最初の反乱はいざ知らず、先日の娼婦たちの事件に関する日誌は、まだラヴェンナに送っていない。つまり、グィドが本来知りえないはずの情報なのだ。


 彼は感情任せの反論として口に出したようだが、カナンやオーディスにとっては看過出来ない重要事だった。


(私達以外の誰かが、ラヴェンナに情報を送っている……?)


 そうだとすれば、グィドのこの奇妙な動きにも納得がいく。難民団の内外で密かに連絡を取り合っている者。そのいずれかに踊らされているのだ。


 だがいくらそそのかすといっても、難民たちのまとめ役などグィドから見れば貧乏くじも良い所だろう。一体何が彼をここまで駆り立てているのかは、カナンにも分からなかった。


 いずれにせよ、ここまで熱くなられたのでは話にならない。元々の自分本位な性格も相まって、今のグィドを説得するのは至難の業だろう。つくづく面倒なことになったな、と思った。


「……まあ、良いではありませんか」


 腕を組んだまま静観していたオーディスが、口を開いた。全員の視線が集まる中、彼はグィドに向かって空色の瞳を向けた。


「グィド殿下がここまで意欲を見せておられるのだから、カナン様の仕事を引き継いでいただくのも良いでしょう」


「オーディス、本気で言ってるのかい!?」


「もちろん、ただ……」


 彼の言葉に合わせるように、天幕の外から書類の束を抱えたギスカールが入ってきた。両腕に抱えるほどの束がどさりと机の上に置かれるが、それは最初の一つに過ぎなかった。続いてザッカスやプフェルといった、事務手伝いをしている闇渡り達が次々と書類を持ち込んでは積み上げていく。最初はグラスと氷菓の器しかなかった机は、完全に紙の大陸と化してしまった。


「シャティオン卿、こちらでよろしかったですか?」


「結構。……さて、グィド殿下の目の前にあるのは、本日分の未決済の書類となります。右手側にあるのが食料の補充に関するこれまでの管理表、要望書及び嘆願書。左手側にあるのが難民団内部での人事、福祉、ならびに法務に関する記録。最後に置いたのが、これまでカナン様のつけてこられた日誌となります。しっかり数えたことはありませんが、まあざっと見積もって二千枚近くにはなるのではないでしょうか。


 無論、殿下が指導者に就任される以上、これらの重要な記録にはしっかりと目を通していただかなければなりません」


 その書類の量は、机仕事に慣れていない者なら吐き気を催すほどに膨大だった。グィドの表情を見るまでも無く、彼の意地が折れかかっていることに気付くのは難しくなかった。


 カナンは「こんなに仕事してたんだ」としみじみと呟き、ペトラはそんな彼女を見て苦笑いを浮かべている。グィドの顔色は、最初に彼が持ち込んだブドウのシロップと同じ色になっていた。


「さて、もちろんやっていただけますね?」


 オーディスはにこりと笑って追い打ちをかける。グィドは瀕死の金魚のように口をパクパクと動かすが、それだけだった。


「こ……こんなの出来るわけないじゃないか!」


「しかし、カナン様はやっておられます。代わるというのであれば、最低でもこれくらいのことはやってもらわなければなりません」


 オーディスはグィドを追い詰めに掛かっていた。相変わらずオーディスに対してだけは憎々し気な表情を浮かべるが、それでも正論の前には膝を屈するしかない。反論も出来ずにオーディスと書類の山とを見比べるだけだった。


 もし天幕の中に慌てたヒルデが飛び込んでこなければ、グィドは音を上げていただろう。


「カナン様、緊急事態です!」


「……天幕で話していると、何かと事件が舞い込んできますね」


 さらりとカナンは言ってのけたが、ヒルデの告げた内容を聞くと、さすがに表情を変えざるを得なかった。



「闇渡りのアブネルが、仲間を連れて脱走しました!」

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