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【第百三四節/「ふたりぼっちの怪物」 下】

 オムリはいつも「俺は夜魔憑きを飼い慣らしている!」と言い張ってたけど、ほんとうは怖がっていた。そうでなかったら、わたしの檻を鋼鉄に変えたりはしなかっただろう。


 わざわざ煌都の商人から高い金を払って買いつけるなんて、ふだんのケチな姿からは想像もできない。


 わたしも、檻から出ようとする意思はすこしも無かった。出たところでどこに行けば良いのか分からないし、生き抜けるとも思えない。わたしはただ黙って、オムリの商売道具であり続けた。


 ウルクの近くまで来た時も、わたしは何も考えていなかった。ここでも同じことをして、何事も無かったかのように通り過ぎていく……オムリはお金や略奪品を、わたしには痺れた心が残るだけ。


 その日も、わたしは垂れ幕に覆われた檻のなかで、膝を抱えてすわっていた。


 外からは、ほかの人たちが騒ぐ楽しそうな声が聞こえてくる。笛や太鼓、弦楽器の音が奏でられ、それに合わせて手拍子が鳴りひびく。垂れ幕の隙間から、祭りに出される色んな食べ物の匂いが忍びこんできた。



 わたしとは、無縁の世界。



 たった薄布一枚なのに、その距離はどんな砂漠、どんな山脈よりも広大に思えた。


 すごくみじめな気分だった。生きている限り、わたしはずっとこの気持ちを味わい続けるんだ。そして、その疎外感は今になっても消えずに残っている。


 だから、わたしは目を閉じて眠ることにした。死に一番近い状態。そして再び目を開いた時には、またおろかな男の人が檻の中に忍び込んできて、わたしの悪魔に絞め殺される……それがわたしの人生なんだ、と。


 その時までは、そう思っていた。




◇◇◇




 暗闇のかなたから、いくつもの悲鳴が聞こえてきた。でも、最初はただの夢だと思っていた。わたしの見る夢に、ろくなものなんてないから。時々、わたしが殺した人たちの顔が浮かびあがってくることさえある。だから、悲鳴なんて不自然でもなんでもない。


 けれど、何かの焼け焦げる臭いが届いてきた時、わたしは現実へと引き戻された。


 薄い垂れ幕の向こう側で光がゆらめいている。人々の悲鳴と一緒に、木々や天幕が燃え盛る音が聞こえてきた。布切れが熱風でゆらめいた時、わたしはその向こうに信じられないものを見た。


 銀色の仮面をつけた不気味な兵士達が、闇渡り達に襲い掛かっている。抵抗する者は容赦なく殺され、そうでない者は縄で縛り上げられた。でも、何よりも目を引いたのは、広場のあちこちにばら撒かれた真っ黒な炎だった。


 わたしはそれまで、天火というものをまともに見たことがなかった。火そのものだって、ちゃんと見たことがあったか憶えていない。でも、あの黒い炎からは、普通の火には絶対にない禍々しさと威圧感を感じた。ましてや、あれが聖なる炎だなんて、今でも信じられない。


 わたしのなかに潜む夜魔たちが怯えていた。彼らは天火を恐れるから、自然な反応だ。ただ、夜魔憑きのわたしには、彼らの恐怖が伝わってくる。胸のあたりがざわざわして、それに応えるようにわたしの影が檻のなかで蠢いた。


「いったい、何が起きてるの……?」


 誰も応えてくれるはずなんてないのに、思わずそう呟いていた。仮面の兵士達の姿は異様だけど、装備は闇渡りなんかと比べものにならないくらい整っている。でも、煌都がわざわざ祭りを楽しんでいる闇渡り達を捕まえる理由なんて、何も思いつかなかった。


 その時、わたしの影がさざ波のように激しく震えた。何も命じていないのに、檻の中の暗闇いっぱいに獅子の頭、山羊の角、軍旗や槍が生え出てくる。それまで自分の力の全てを出し切ったことなんてなかったから、こんなに色んなものを宿しているんだ、と驚いた。


 でも、それでさえ、檻の前に立った彼女・・の前ではちっぽけなものに過ぎなかった。



「これはこれは……実に珍しい。夜魔憑きなどただの伝説に過ぎんと思うていたが、世の中にはまだ神秘が残されておる。のう、そうは思わぬか?」



 檻の垂れ幕を払いのけた彼女は、闇渡りと正反対の日に焼けた黒い肌を持っていた。しなやかな長い手足、長身を縁取る夜空のような髪、そして人とは思えないほど整った美貌……まるで、伝説やおとぎ話に出てくる女神そのものだった。


 でも、善の女神なら、あんなに悪そうな顔はしなかったんじゃないかな。


 彼女の問いかけは、兵士達に拘束されたオムリに向けられていた。顔を腫らしたオムリは必死におべっかを言ってたけれど、それがどれくらい彼女の耳に届いていたかは分からない。ただ、オムリの怯え切った表情や反応を愉しんでいるようだった。でも、たぶんわたしを見つけた瞬間から、興味の矛先は変わっていたと思う。


 彼女はオムリには何も答えず、檻の奥へと逃げこんだわたしに問いかけた。


「娘よ。それほどの力がありながら、このような俗物の言いなりになっておるのは何故なにゆえか?」


 実のところ、すごく怖かった。自分を嫌いながらも、死ぬことだけは恐れてきたわたしは、あの時オムリに負けないくらい怯えていたはずだ。


「…………だって、わたしはここでしか生きていけないから」


 でも、わずかな沈黙が先だっただけで、答えは簡単に出てきた。


 彼女は質問を続ける。


「そう思うか? むしろ力こそ自由の源であろう。弱者は常に強者の風下に立つものだ。


 娘よ、お前には凡人を屈服させるだけの力があろう。それをもって、何故闇渡りの女王になろうとせなんだ。さすれば、こんな小汚い檻に押し込められることもなかろうに」


 そう言って彼女はククッと喉を鳴らした。


 彼女の言う通り、わたしはやろうと思えばなんだって出来たはずだ。オムリを殺すことなんて簡単だったし、他の人を力で支配すれば、わたし自身は何もしなくても生きていける。



「でも……そんなの嫌よ」



 そう、嫌だったんだ。彼女に促されるまでもなく、わたしの口は自然と開いていた。



「わたしは……正真正銘の怪物よ。そんなこと、誰かにいわれなくたって分かってる。だから、こんな醜い姿を晒したくないだけよっ!


 怪物がほかの人を支配して何になるの? どうせ目の届かないところで馬鹿にされるだけよ。でも、自分が馬鹿で、醜悪だなんて、わたし自身が一番分かってるんだから……だから、恥の上塗りなんてしたくないのよっ!!」


 わたしは、世界の誰よりも自分が嫌い。今だって変わらない。どんなに嫌いな人が出来ても、結局それ以上に自分の醜さを自覚してしまうから。


 ましてや、この姿を大勢の人間の前に晒すなんて……それを恥じらいもせず誇示するなんて、死んでも嫌だ。


 今さら責めるつもりはないけど、わたしの捻くれた性格は檻のなかで形作られたものだ。でも、鋳型のなかに押し込まれた子供の成長としては、ある意味正しいのかもしれない。育っていくなかで同時に歪められていく魂は、二度と真っ直ぐにはならない。曲がっているのが当たり前になってしまう。わたしがことさらに恥らいを覚えるのは仕方のないことだ。


 だから、トビアが苦手。すこし話しただけでも分かってしまう彼の純粋さは、とても健全な環境でなければ創られないだろうから。トビアと話していると、自分の惨めさを嫌が応にも感じさせられてしまう。


 きっとトビアには、わたしの気持ちは分からないだろう。


 そしてベイベルもまた、共感はしてくれなかった。


 ただ、わたしの劣等感を笑い飛ばしてしまった。



「何かと思えば下らない! 怪物のお前が、人間の視線など気にしてどうする。真の怪物ならば、もっとふてぶてしく振る舞うものだ。

 第一……」



 彼女はその長い両腕を伸ばし手をかざした。手の平の中心に真っ黒な炎が生まれる。たいした規模ではないはずなのに、檻の奥にいたわたしの肌がチリチリと痛んだ。


 ベイベルの両手が檻に触れた途端、鋼鉄は飴細工のように溶け崩れた。易々と侵入をはたした彼女は、すこし窮屈そうに身をかがめながら、うずくまるわたしに手を伸ばした。


 怯えていた夜魔達が狂ったように攻撃を始める……でも、ベイベルに触れることさえ出来ず、次々と灰に変えられていく。まるで蜂蜜を求める熊と、応戦する蜜蜂のようだった。


 ベイベルの手がわたしに触れた。そのまま焼け崩れることはなかったけれど、触れられた場所が腫れるくらい熱かった。とても人間の体温とは思えない。


 焼き殺されると思った。でも、わたしの想像とは裏腹に……最初に抱いた恐ろしい印象を裏切るように、ベイベルは優しくわたしの髪を梳いた。


 わたしたちを覆うように黒い炎が巻き上がり、鋼鉄の檻を溶かしていく。崩れた鉄の天井の向こう側に、金色に輝く綺麗な三日月と、無数の星々を見えた。



「やはり思った通りだ。月の光に照らしてみれば良く分かる。娘よ、汝は実に美しいぞ」



 温められた空気が空に向かって吹きあがる。火の粉が飛び散り、髪がみだれた。


「美しい……わたしが?」


「然り。お前が恥じ入ることなど何一つとして無いのだ。お前にはこのような檻など似合わぬ。余が、より居心地の良い居城を与えてやろう。同じ怪物のよしみとしてな」


「怪物だなんて……だって、貴女は継火手でしょう?」


「建前としては、な。だが、余の力は人間どもの恐れを引き出すもの。到底聖なる炎とは言えぬだろう。どれ、ひとつ怪物としての手本を見せてやろうではないか」


 ベイベルはわたしを抱き寄せたままオムリの方を向いた。彼の表情が氷のようにかたまる。蛇に睨まれたカエルのようだったし、嗜虐心に満ちたベイベルの目線は、獲物を追いつめた捕食者そのものだった。


「オムリ、とか言ったな。余としては貴様に対して思うところは何も無いのだが……まあ、不幸とは出逢いたくなくても出逢ってしまうものだ」


 ベイベルの手に黒い炎が宿る。それが何のために現れたのは分からないほど、オムリは鈍くない。


「ま、待ってください、継火手様……! 私は貴女様の望まれた通り夜魔憑きを献上いたしました! どうか、どうか御寛恕を! 御慈悲を!」


 両脇を兵士達におさえられたままオムリはもがいた。その醜態を見て、ベイベルは一層喜悦を深める。後になって分かったけど、彼女にはこういう場面がどうしても必要だった。こういう風に、誰かから恐れられることで、怪物としての人格を守っていたんだ。


 そして、葡萄酒の最後の一滴を飲み干すように、相手の命を摘みとる。


「余は別に怒っておるわけではないのだ。故に、赦すこともない。残念だったの」


 ベイベルの手がオムリの顔を覆う。それが触れた瞬間、オムリの顔面の肌が、まるで沸騰したシチューのようにぐずぐずと湧き立った。どんな音も聞こえなくなるほどの絶叫が響き渡り、オムリは最後に「化け物め!」と叫んだ。


「どうも。ありがとう」


 沸騰が全身に広がり、ボコボコという音が聞こえたと思った次の瞬間、オムリの身体は内側から粉々になって吹き飛んだ。地面に飛び散った肉片さえ、黒い天火の残滓に炙られて灰にかわり、わたしの養父がこの世に存在した痕跡は文字通り霧散してしまった。


 ベイベルがわたしを見下ろす。


「この男は、この世にあって実に取るに足らない存在であった。ただ、お前を縛る鎖ではあった。そして、新しい鎖を繋ぐ権利を持つのは、それを断ち切った者だけだ。


 我が名は神の門ベイベル、お前の新たな主人だ。


 娘よ、お前の名は何と言う?」


「……サラ」


「なんと、闇渡りには似つかわしくない名だ。その名は古い言葉で王女を意味するものだぞ」


「そうなの……?」


 わたしもベイベルもびっくりした。わたし自身、自分の名前にそんな意味があったなんて知らなかったし、一体両親が何を思ってそんな名前をつけたのか、理解に苦しむ。生まれた時のわたしは、ただの闇渡りの子供に過ぎなかっただろうから。


 でも、王女サラという名前は、この日から特別な意味を持つようになった。


「王女、王女か……ふふ、良いではないか。実に良いな。運命を感じさせる」


 ベイベルは上機嫌でわたしの手を取った。その手が引いて向かう先は、また新しい檻のなか。黒い天火に照らされた大坑窟。


 でも、わたしには分かっていた。「鎖を繋ぐ」とか、「お前の主人」とか言っていたけれど、ベイベルがわたしに望んでいたのは、そんなものではないのだと。


 そしてわたしも……もう一人の怪物の心が分かっていたから、何も言わなかった。夜魔達は怯えていたけれど、わたしはもう少しも怖くなかった。


 ベイベルの心の奥底にあるものが、わたしには見えていたから。




◇◇◇




 彼女の心が分かることが、特別なことだと思っていた。今でも、たぶんそうなんだろう。


 でも、継火手カナンが現れてからすべてが変わった。


 ベイベルに支配されていた人たちにとっては幸せだったかもしれない。ホロフェルネスは監獄に入れられたし、わたしとネルグリッサルは使い走りをさせられるようになった。でも、それはまあ、良い。わたしたちだって善人ではないのだから、報いがあって当然だろう。


 ベイベルがあんな目に遭っていることも、仕方のないことなのかもしれない。


 絶え間なく自分の天火で身体を焼かれ続けている彼女は、わたしたちの前から去り、大坑窟の深い闇のなかに降りていった。そこで天火を使い続けることが、結果的に彼女の苦痛を多少和らげることになる……そして、己惚れるわけではないけど、わたしを焼き殺さないためだろう。


 内心で孤独を恐れていたベイベルにとって、今の状態こそ一番辛いはずだ。それが、今まで犯してきた罪の報いだと思う。



 でも、わたしはカナンを赦す気になれない。



 あの人がベイベルを倒したからじゃない。


 あの人が、ベイベルを理解しながら、それを利用したことが赦せないんだ。


 正直、相手があの人じゃなかったら、今みたいな道化踊りなんてまっぴらごめん。でも、わたしが動くことで少しでもカナンを困らせられるなら、そこそこ遣り甲斐がある。ラヴェンナのガタガタぶりはウルクに負けず劣らずだし、もうそろそろ、わたしにとって有利な援軍がやってくる。


 どこまでだって困らせてやろう。


 誰のためでもなく、わたし自身の復讐心のために。

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