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【第百三三節/カナンの助言】

「トビア兄ちゃん、ずぶ濡れだけど何かあったの?」


 一緒に狩りをしていた闇渡りの少女に尋ねられ、トビアはどんな顔をしたら良いか分からなくなった。


「い、いやあ、ちょっと崖から足を滑らせちゃってね……くしゅっ」


 鼻の下をさすりながらはぐらかす。イスラに川の中へと引きずり込まれた後、カナンの天火で服や髪を乾かしてもらったが、生乾きのまま逃げるようにその場を後にした。さすがに状況を察して居たたまれなくなったこともあるが、何よりイスラの剣呑な表情に堪えられなかったためだ。


(そりゃあ、察してはいたけど……)


 トビアでなくても、彼らの近辺にいる人間なら、二人の間の空気感が変わったことに気付くのは難しいことではない。むしろ誰でも気付けるくらいに寛いだ雰囲気が漂っている。あまり一緒にいる場面が無いのだが、それだけに、ああして二人きりになれる時間は希少だったのだろう。


「……悪いことしちゃったなぁ」


「え?」


「いや、こっちの話だよ。それより、君達の成果はどうだった?」


 トビアが尋ねると、前を歩いていた男の子の一人が得意げな表情で数羽の兎を掲げた。他の子供も、各々木の実やキノコ、薬草、魚といった獲物を集めている。


 彼自身も、一匹の猪を仕留める成果を挙げていた。イスラ達と出会う直前に探していた個体で、彼らから離れた後に偶然狙うことが出来たのだ。


 野生の動物は、手早く解体しないと大幅に味が落ちてしまう。イスラ譲りの解体術でさっさと必要な部位を切り取り、それ以外は埋めてきた。


 闇渡りと一口に言っても、その全員が荒んだ暮らしをしているわけではないし、常に切った張ったの闘争の渦中にいるわけでもない。年少者はこうした狩りや採取を通じて、夜での生活に適応していくのだ。


 そんな文化に目をつけたカナンは、少数の少年少女に従来通りの採取を命じていた。もちろん監視はつけざるを得ないし、一度に一組か二組ほどしか出せないが、その見返りとして集めた成果に応じた報酬を出すようにしている。


 具体的には、配給されるパンや生活雑貨の量を上乗せしたり、比較的良い状態の天幕を使えるように手配した。


 当然と言えば当然だが、元々、闇渡りの年少者は地位が低い。力が無いのを良いことに搾取される立場にあるのだが、カナンは彼らの働きに対し正当にむくいようとしていた。


 闇渡り達もカナンの評価方法を歓迎しており、中にはカナンへの憧憬を隠さない子供もいる。


 なにかと状況に強いられることの多いカナンだが、そんな中でも弱者の立場から改善しようとするのが、為政者としてのカナンの一特徴だ。もちろんそれは良い事ばかりではないのだが、トビアや、闇渡りの子供達から見れば、十分凄い事だと思えた。


「トビア兄ちゃんは、ずっとカナン様と一緒だったんだろ? 俺たちと一緒に仕事なんて、しなくて良かったんじゃないのか?」


「僕が好きでやってるだけだよ。それに、ヒルデさんやオーディスさんみたいな仕事は、まだ出来ないからね。こうして君達と行くほうが役に立つと思うんだ」


「ふーん」


 その言葉は半分本当で、半分は嘘だ。実際にはカナンから頼まれて監視役を請け負っているのである。


 元から逃げ出す気の無い人間を見張っても仕方が無いが、万一ということもあるし、見張りを立てないという姿勢自体が不信を招きかねない。


 そうなると適任なのは、比較的歳が近い上に、すぐ誰とでも親密になれるトビアしかいない。彼の人当たりの良さは、最早一種の才能と言って良いだろう。


 トビア自身も、最近色んな人に言われてようやく自覚出来たことだった。それまでは彼にとって至極当たり前のことだったのだ。


 風読みの里では、誰からも当たり前のように可愛がられてきた。そんな背景が、過酷な環境のなかにあっても、温和で純粋な性格を育んだ。


「貴方は、イスラとは真逆なんですよ」


 カナンにそう言われたことを思い出した。


「イスラの強さは、一人きりで孤独な世界を生き抜いたから身についたものです。

 でも、貴方が持っている素直さや穏やかさは、貴方だけのものですよ。それがトビアさんの強さだと、私は思います」


 人は生まれた場所、育った環境から否応無しに影響を受ける。それは魂の一部となって、死ぬまで心に刻みつけられる。闇渡りの子供達が狩りや採取を身につけ、やがて本物の闇渡りとなっていくように。


 トビアは、人間が与えられる環境の中で、とても良いものを受けた子供だった。


(だから僕はイスラさんに憧れた……そして、サラに惹かれたんだ)


 カナンは彼の生い立ちを強みと言ってくれた。それは、そうなのかもしれない。トビア自身も、自分がこの環境から得てきたものの大きさを自覚し、理解していた。


 それでも憧れを切り離すことは出来ない。孤独の中で鍛え上げられたイスラの強さは、トビアにとって憧憬そのものだった。


 もちろん、イスラはそんな風に言われた所で喜ばないだろうが。




◇◇◇




 居留地に戻り獲物の納入を終えると、トビアは帰還報告のため、子供達と別れてカナンの元に向かった。


 カナンは、一仕事していたトビア達よりも先に居留地の天幕に戻っていた。いつもはヒルデら数名の詰めている大型の天幕だが、今は彼女一人だけだ。先程休息をとったので、今度は他の者に権利を譲っていた。


 トビアが入ってきた時も、天幕の中を歩き回りながら、次々と書類に目を通している所だった。


「カナンさん、全員戻りました」


 そう報告を受けると、カナンはいつも通りの笑顔で「お疲れ様です」と言った。


 そこに裏表があるわけではないのだが、カナンがイスラと一緒にいる時とは、明らかに違った笑顔だった。先程の光景を見てしまったために、トビアには一層違いが浮き彫りになっていた。


「あ、あの……さっきは邪魔をしてしまって、すみません……」


 トビアはもじもじと視線を揺らす。ちらりとカナンの顔色を伺うと、彼女の表情もまた、微妙に狼狽しているようだった。動揺を見せない心づもりだったが、いざ言葉に出されるとボロが出たのだろう。手に持った紙の束で顔の下半分を隠しているのを見ると、難民団の指導者、孤高の継火手の面影など微塵も感じられない。


「まあ……恥ずかしかったのもありますし……もったいない気も……してるん、ですけど……」


 言っている内に、カナンの耳の先が見る見る赤くなっていく。何事もそつなくこなし、はじめての体験でも即座に要領を得てしまう彼女だが、このくすぐられるような感覚だけはまだまだ克服出来ていなかった。


 そんな風にもじもじしているカナンを見ていると、トビアも先程の気恥ずかしさが蘇ってくる。


「僕が気を利かせられたら良かったんですけど……」


 そうしたら、二人はどこまで進んだのだろう? ふとそんなことを思った。


「そんなこと……いいんですよ。今は同じ気持ちだって分かってるから、だいじょうぶ」


 やはり照れくさそうな笑顔でカナンは言った。そして、トビアは自分でも意識しないうちに「うらやましいな」と呟いていた。

 言ってから、ハッと気が付き我に帰る。どうしてこんな言葉が出てしまったのか、自分でもある程度分かっていた。


 耳聡いカナンにも聞こえていた。「何が」うらやましいのかということも察していたし、その背後にある関係性も理解している。

 だが、その言葉尻を捉えようとはしなかった。


「……イスラは、はっきりと物を言ってくれる人だから、分かりやすいんです。それに約束だってちゃんと守ってくれる。


 でも、世の中には口を開いてくれない人も大勢います。そんな人達だって……受け入れてくれるかは分からないけど、かならず耳には届いている。


 もし、私がそういう人を好きになっていたら、きっと正直な言葉を言い続けていたと思いますよ」


 そう言いながら、カナンは内心で自分の不器用さに呆れていた。助言をするにしても、もう少し違った形があっただろうに。こと恋愛に関する話となると、途端に余裕が無くなってしまう。


(悪い癖だわ)


 だが、そんなカナンの自戒とは裏腹に、トビアは何か感銘を受けたような表情になっていた。


「ありがとうございます、カナンさん」


「そんな……ただのお節介ですよ。私だって偉そうに言えるほどの経験はありませんから」


 カナンがそう言った時、休憩を終えたペトラ達が戻ってきた。天幕の人口密度が飛躍的に高まり、トビアはあらためて礼を言い彼女の元を辞した。


 自分の天幕に戻る間、カナンが言っていたことを繰り返し考えてみる。女性からの意見は貴重だった。もしそれを実行する機会があるなら、迷わずにやってみたい。


「そんなにすぐってわけには、いかないだろうけど……」

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