ラヴェンナ管区に属する都市の中でも、ウルバヌスは屈指の規模を誇る都市である。
ラヴェンナ領の外縁部には、それぞれ五つの辺境伯領がある。ウルバヌスはパルミラに近いこともあって、昔から交通の要衝として栄えてきた。
街の中心には運河が流れている。ティグリス川の支流から、人工的に延長された川であり、流れは非常に穏やかだ。これを使って船を行き来させることで、ウルバヌスは陸運以上の効率で経済を回転させている。
もちろんこれも旧時代の遺産なのだが、技術面に限らず文化面においても、ラヴェンナの土地は過去の面影を色濃く残している。
シャティオン家の城に入ったカナンの目に、最初に飛び込んできたのも、旧時代の手法で描かれた巨大な絵画だった。
黄金の額に飾られた絵は、数百年経っても褪せることの無い特殊な顔料によって、今でも神秘的な美しさを保っていた。
雲から突き出た岩の上で、一組の男女が天を見上げている。その目線の先には、歌い踊る無数の天使の姿、そして光に包まれた何かが存在している。
(似ている……)
カナンはぼんやりとその目に見入っていた。他に考えるべきことがあまりに多く、また彼女自身もなるべく考えないよう目を逸らしてきたこと……だが、ここに描かれた絵は、自分に何かを問いかけているかのようだった。
「カナン、その絵がどうかしたのか?」
見たことのないカナンの表情に、イスラは思わず声を掛けていた。ハッとしたようにカナンは我に返り、すぐに「なんでもないですよ」と微笑んだ。
それが誤魔化しであると瞬時に見抜けたが、生憎追及するような時間は無かった。
「お客様方、主人の用意が整いました。どうかお進み下さい」
「ありがとうございます」
男性の執事に促され、カナンは絵から目線を外した。
城の奥へと誘う執事に続き、カナンとイスラ、さらにペトラやサイモンも歩き出した。
城の廊下には、世代を経て受け継がれてきた芸術品が等間隔で並べられていた。旧時代に彫られた彫像、装飾を凝らした武具、絵画に装飾品と、半ば美術館めいた様相だった。
こうした美術品は、もちろん趣味で集められている場合もあるが、貴族の責務として保護されているのだ。この辺りの事情はカナンの実家にも言える。
だが、よく見るとつい最近追加されたもの、寄贈された新作も混ざっていた。神が世界に夜をもたらす場面を描いた連作もあった。大地の上に神が覆いを掛け、太陽の光を妨げている。どこの煌都でも見られる、ありきたりなモチーフだ。
懸命に過去の形式を真似ているものの、それに囚われ過ぎていた独創性が無いというのが、カナンの評価だった。
(美男が美術好きというのも、ちょっと出来過ぎよね……)
オーディスのような男性が芸術家のパトロンを買って出ているというのは、ある意味では自然だし、逆に少し冗談ぽく思えた。どうしても自己愛的なイメージが浮かんでしまう。
ただ、それは現実のオーディスとは一致しないように思えた。余裕や落ち着きに満ちていても、自己に耽溺しているようには少しも見えない。まだ知り合ってからあまり経っていないが、彼が人間らしい隙を見せた所を、カナンは知らない。
そう思っている内に、目の前に両開きの木製の扉が現れた。執事が軽くノックする。
「旦那様、皆様をお連れ致しました」
「御苦労」
扉を内から開けたのは、オーディス本人だった。
「ようこそお越し下さいました、カナン様」
優雅に一礼するオーディスは、旅装を解いて貴族らしい礼服に身を包んでいた。
(
真紅のジュストコール、黒いジレ、キュロット。形式通りの組み合わせだが、ここまで完璧に着こなしているとうっかり溜め息が出そうになる。あまり凝った匂いの香水をつけていないことも、返って洗練ぶりを表しているようだった。装飾品は、指輪も含めて何一つ身に着けていない。
「こちらこそ、招待していただいて感謝しています。でも、どうして……」
言いかけた時、カナンは彼の背後に数人の人間が立っているのを認めた。
オーディスに促されて広間の中に進むと、待ち構えていた人々は一斉に跪き頭を垂れた。
「お初にお目にかかります、カナン様」
一団の先頭で膝を折ったのは、がっしりとした体格の初老の男性だった。貴族の礼服を着ているが、雰囲気は明らかに騎士のそれである。君主に向ける最敬礼の仕草も、他の誰よりも堂に入っていた。
「我輩はゴドフロア・ロタールと申します。以後、お見知りおきを」
いきなり跪かれて面食らったカナンだが、いつまでもゴドフロアの灰色の頭髪を見下ろしているわけにはいかなかった。慌てて顔を上げるように頼み込む。だが、老騎士も、その後ろの者達もびくともしなかった。
一見したところ、ゴドフロアほど老けている者は他にはいない。それどころか、カナンより少し年上か、同年代にさえ見える者の方が多いくらいだ。ほとんどは騎士の印象を備えた若者ばかりだが、一人だけ女性の姿があった。それどころか、傍らには継火手のシンボルである権杖を置いている。
「ロタール卿、ヒルデ。あまり頭を下げてばかりだと、カナン様も困惑される」
「む……これは、失礼仕った」
古風な物言いと共にゴドフロアは口ひげをつまみ、立ち上がった。その後ろにいた継火手の女性も彼に倣う。
歳の頃はカナンよりも幾分上で、二十代の前半といったところだろうか。固く結い上げられた茶色の髪にきりりと吊り上がった目じりが印象的だった。それだけでも真面目そうに見えるのだが、手袋や祭司服の襟で徹底して素肌を隠しているため、潔癖症とか堅物といった言葉がどうしても思い浮かんでしまう。
そんな彼女が、初対面であるにも関わらず目じりに涙を溜めているので、カナンは一層戸惑ってしまった。
「……ヒルデ・ブラントと申します。どうかよしなに……」
スンスンと鼻を鳴らしながらの挨拶だった。良く見ると、ヒルデ以外にも感極まった面持ちの者が何人か見受けられる。
「オーディスさん、この方達は……」
「ここに揃った者は皆、エマヌエル殿下に忠誠を誓っていた者達です。……いえ、今もその忠誠は死んでいない。だからこそ、今回の呼びかけに応じて集まってくれたのです」
「然り。我らがエマヌエル殿下より受けた御恩は計り知れないものがあるのです。なれば、その御遺志を継いだ貴女に従うことも、また道理」
彼らは次々とカナンに握手を求めてきた。カナンは彼ら一人一人の顔と名前を憶えるのに手いっぱいになっていたが、自分の後ろについてきてくれた、難民団のメンバーたちの複雑な表情にも当然気が付いていた。
オーディスが協力者の当てを持っていることは察していたが、ウルバヌス到着と同時に、しかもこんな形で引き合わされるとは思っていなかった。いつの間に連絡を出したのかさえ分からない。確かに、パルミラからラヴェンナに着くまでの間にオーディスが単独行動をとることは多かったのだが、その時点ですでにこの演出を考えていたのだろう。
「さて、話し合うべきことはあまりに多い。こんな形では、双方を引き合わせた意味もない。
じきに食事の準備が整います。両者とも、どうか席に座ってお待ちください」
オーディスが促す。カナンに断る理由は無い。が、何もかもオーディスの筋書きに沿っているのだろう。それを思うと、いささか複雑な気持ちになった。
嫌悪感や怒りではない。ただ、オーディスのあまりにそつの無い動きが、少し怖く思えたのだった。