ラヴェンナ王女の歓待ぶりは、それまでに受けた何よりも手厚かったように思う。もちろん、私とカナンの贔屓目が多分に入っているだろうけど。
それでも、あれだけのお菓子を並べられる人はそうはいない。薔薇のジャムを挟んだマカロンは今まで見たどんなお菓子よりも綺麗だったし、果物の砂糖漬けはパルミラで見た宝石のように輝いていた。
皿も茶器も、豪華さより可愛らしさを優先していて、全然堅苦しくない。エマヌエルがどんな心持ちで私達に接しているか伝わってくる。
でも、何よりも印象的だったのは、卵と牛乳で作ったプディングだった。それ自体はエルシャでも見られるけど、エマヌエルは小さな器に入ったそれに純白の砂糖をまぶして、同じ白い天火で炙った。
当たり前だけど、砂糖をこんなに贅沢に使うなんて私達でも難しい。その上ラヴェンナの白炎で仕上げるなんて、儀式にでも持って行くのかと思った。
でも、炙られ褐色になった蜜からは、私達の理性を粉砕するような素晴らしい香りが立ち上っていた。
「さあ、召し上がれ」
今でも信じられないのだ。
あの時、あんなに穏やかに微笑んでいた女性が、救征軍などという急進的な政策を実行しただなんて。
辺獄の奥深くまで踏み込み、自ら剣を振るい、そして今はこの世のどこにも居ないだなんて……。
エマヌエルの用意してくれたお菓子に夢中になりながらも、頭の片隅では困惑している自分がいた。
救征軍の概要を始めて聞いた時、素人目にもあまりに武断的な政策だと思った。福祉政策の一環としての外征なんて矛盾も甚だしい。そんな意見を堂々と打ち出し実行に移そうとしているのが、こんな母性に溢れた女性だなんて、何かの冗談のようだった。
もしかしてエマヌエル本人はお飾りで、黒幕は他に居るのかもしれないと思った。でも、私とカナンの質問に明瞭に答えるエマヌエルは、操り人形に堕するような無能な人物には見えなかった。むしろ、彼女の洗練された弁論に逆に丸め込まれそうになったほどだ。
事実、カナンがエデン探求などという無謀な思いつきに憑りつかれたのは、この時だったに違いない。
「エマヌエル殿下、どうして貴女は……」
「殿下はよして。エマって呼んでくれると嬉しいわ」
「……エマ、貴女はどうしてエデンを目指そうとするのですか?」
紅茶の入ったカップをおいて私は訊ねた。エマヌエルは「そうね」と呟き、瞑想するように目を伏せた。答えに窮したのではなく、回答をどういう言い回しで表現するのか考えているようだった。
やがてエマヌエルは視線を上げると、私とカナンを順番に見つめて言った。
「ユディト、それにカナン。貴女達は、どうして自分がユディトで、そしてカナンであるのか、考えたことがある?」
私達は同時に顔を見合わせていた。思ってもみない返し方だったし、質問に質問で返すのは卑怯だ。エマヌエル本人も自覚しているようだったけれど、あえてこういう返し方を選んだのだろう。
でも、「自分はなぜ自分なのか」と問われた所で、咄嗟に答えられるわけがない。私のように、普通の人間には……普通でないカナンは、あっさりと答えて言った。
「ただの偶然です」
カナンは少し頰を紅潮させながらも、真っ正面から言ってのけた。
私は何も言えなかった。
カナンの即断ぶりには、悪い意味で驚かされた。
あまりに身も蓋もない答えだけど、それが即座に出てくるということは、カナンが普段から自分自身を偶然の産物と捉えている証拠だ。
言うまでもなく、私達は継火手。この暗闇に包まれた世界を照らす存在だ。自ずと私達の自意識は「自分は特別だ」という方向に流されていく。
私の場合は違った。カナンの隣で生き続けてきた私は、特別というのがどういうものか知っていたし、禄でもないものだという認識もあった。
逆にカナンこそ、内心では「自分は特別だ」と思っているのではないかと疑っていたくらいだ。
だからこの返答には殊更驚かされたし、妹が抱く密かな虚無を目にした気分だった。
エマヌエルはしばらく間を置いてから「偶然、ね」と反芻するように呟き、それから試すように言った。
「……では、貴女は自分自身の権力、地位、力に対して無責任でいられるということね」
おっとりとした口調に針を忍ばせ、突き付ける。カナンは敏感に反応した。
「それは違います。私自身の力と人格は、それぞれ分けて考えるべきものです!
私が私であることはただの偶然に過ぎません。でも……!」
エマヌエルは人差し指を立ててカナンの言葉を遮った。カナンは目を丸くする。
「ただの人間に過ぎない自分に、こんな力が与えられたことには必ず意味がある」
まるで心の中を覗いたかのような、確信的な言い方だった。
それを聞いた時の、カナンの表情。今でもよく憶えている。神から啓示を下された預言者のように、誰にも解けなかった数式の解を閃いたかのように、あるいは赤子が初めて世界を見た時のように……大きく目を見開き、息を詰まらせながら、なんとか「どうしてそう思うのですか?」と聞き返した。
「私も、全く同じことを考えて生きてきたからよ」
エマヌエルの言葉はカナンにとって完璧な答えだったか、あるいはそれ以上だったのかもしれない。カナン自身が言葉に出来なかったことをエマヌエルは鮮やかに言い表して見せた。その衝撃は、部外者である私には想像も出来ない。
事実、エマヌエルとの邂逅はカナンの生涯を決定的に変えてしまった。
他の人には分からなくても、私にだけは分かる。
それまでのカナンは、自分自身の立場に疑問を持ちながらも、明確な行動指針を打ち出せずにいた。十八歳になれば私達は一人前の継火手、言い換えれば未成年としての自由を失うことになる。
突飛な行動をとるかと思えば、誰よりも深く書物を読み込み、時には賢者さえ丸め込んでしまうほどの知識と論理を蓄えていたのも、
それはカナンにとって、生まれ持った疑問や違和感――あるいは罪悪感を抱えたまま生きていくことを意味する。
この時カナンは、自分が抱えていた違和感の正体に気付いたのだろう。ひょっとしたら前もって気付いていたかもしれないけれど、エマヌエルという先駆者の存在は、カナンに勇気を与えてしまった。私の目から見れば、まったく無謀な勇気を。
今や私は、完全に蚊帳の外だった。
エマヌエルは、カナンにとって唯一無二の理解者だったに違いない。あるいはエマヌエルもまた、カナンをそういう目で見ていたかもしれない。それが本当かどうかは私には分からないけれど、互いに決定的に通じ合うところがあったのは確かだろう。
それはきっと、世界でこの二人にしか結べない絆だったのだ。
他の誰にも……私にも、両親にも、ギデオンにも、フィロラオス先生にも、決して築くことの出来ない共感と理解。でも、私はそれを羨ましいとは思わない。
色々と複雑な想いはあるけれど、カナンは世界でただ一人の妹。
エマヌエル・ゴートは、尊敬と親愛を抱くには十分な人格を持った人。
けれども、煌都の住人としては二人とも失格者だ。
世界も、社会も、彼女たちの頭のなかにあるのではない。あの二人はお互いに理解し合えたのかもしれないけど、他の全ての人間から見ればあまりに不可解に映ってしまう。
継火手は煌都の維持に努めれば、それで良い。私達が負っている職務の重大さを思えば、それだけでもう十分に働いていると言えるはずだ。
私達は対価に見合うだけの仕事をしているし、人間らしい生活や幸福を追い求めるのも至極まっとうな感情だ。
無理に義務感を感じて、全てを背負おうとする必要なんてどこにも無いと、私は思う。
継火手は煌都にとって無くてはならない存在。求められる義務に応えているなら、相応の利益を享受するのも妥当なことだ。私がパルミラの首飾りを買うことを非難する人がいたなら、書斎に積んである陳述書や意見書、決裁書の山を送りつけてやろうと思う。
……あの二人は、そういう風には考えられなかった。
だから、エマヌエル・ゴートは辺獄の奥で散華し、カナンはエルシャを飛び出していってしまった。
この時の私は、まだエマヌエルの最期を知らずにいる。それでも彼女の危うさや、浮世離れした部分を感じ取っていた。これ以上妹と話させるのは良くないとさえ思っていた。
まるで、そんな私の気分を察したかのように扉が開いた。
「やっぱりここにいたのね、お姉さま」
ノックもせずに乗り込んできたのは、エマヌエルと同じ色の髪を持った少女だった。ただ、似ているのは髪の色だけで、それ以外は共通点を探す方が難しいくらいだ。
整っているけれど、姉とは対照的なきつめの目鼻立ちに、どことなく生意気そうな喋り方。部屋の中に居る私達を一瞥すると、さすがにドレスの裾をつまんで腰を折ったけど、あまり丁寧な感じではなかった。私達と同い年だからまだ責任感も備わっていなかったのだろう。今はどうか知らない。
「マリオン。入ってくる時はノックくらいしなさいと、いつも言ってるでしょう?」
エマヌエルがため息をついた。垂れ気味の目を細めて妹をたしなめる姿に、それまで遠く感じていたエマヌエルの姿が、少しだけ自分と近づいた気がした。
「こんなところに引きこもっているお姉さまの方が悪いのよ。ギヌエットもカンカンに怒っていたわ」
叱責などどこ吹く風で、マリオンは皿に乗っていたマカロンを摘み口に運んだ。
「それを言うなら、あなたこそ授業はどうしたの?」
「退屈だもの。抜け出てきちゃった」
エマヌエルが二度目のため息をついた。そして、たぶん無意識のうちに零したのだろう、こう言った。
「少しはこの子たちを見習いなさい。あなたと違って、とてもしっかりしているわ」
たぶん、エマヌエルは深く考えずにそう言ったのだろう。普段から妹に対して思っていることをぽつりと漏らしてしまった。そんなところじゃないだろうか。
その時エマヌエルは目を閉じて片手で頭を抱えていた。だから、マリオンの表情も見えなかったに違いない。
「……」
私とカナンは、ごく一瞬、瞬き程度の時間だったのだけれど、マリオンから睨みつけられた。
まるで蛇と目を合わせたかのようだった。私は少し視線が逸れていたけれど、ほとんど真正面から視線を向けられたカナンは、テーブルの下で両脚を硬直させた。
ふと気が付くと、マリオンは何事も無かったかのようにお茶を注いで啜っている。彼女に睨まれたという事実など無かったかのような、一瞬の豹変だった。それが私達には、下手な恫喝よりも怖く思えた。
「……まあ確かに、これ以上ギヌエットから逃げ続けるわけにもいかないわね」
そのエマヌエルの一言が、茶会を終わらせる合図だった。マリオンの登場は、色んな意味で場の空気を壊してしまった。私としては願ったり叶ったりではあったのだけれど、気分が良いはずがない。
カナンも同じ気持ちか、もっと名残惜しかったに違いない。もっとエマヌエルと言葉を交わして、お互いの想いを打ち明けたかったことだろう。
王城から立ち去る時も、エマヌエルはわざわざ城門まで見送りに来てくれた。カナンは彼女の手を固く握って、いつかまた会いに来ると約束していた。私も、遠征の成功を祈っていると言った。色々と複雑ではあるけれど、彼女に死んでほしいとだけは思っていなかった。
エマヌエル・ゴートは微笑みながら私達を見送ってくれた。その穏やかな立ち姿は、今でも鮮明に記憶している。
◇◇◇
先日、煌都パルミラで起きた一連の事件の詳細と顛末が、エルシャに届けられた。カナンがその中でどのような働きをしたか、そしてどんな道を選択したかということも事細かに書かれていた。
父上は信じようとはしなかった。大祭司が集められる会議の場で取り乱し、今にもパルミラからの書状を引き裂かんばかりだったと聞いている。でも、そこに押された紋章は、パルミラの公式文書にのみ付与されるものだ。疑う余地などどこにも無い。
カナンは今、六千人近くの難民を率いて、ラヴェンナ領ウルバヌスに向かっている。
エマヌエルの遺志……第二次救征軍と称して。
ラヴェンナとしても、管区内に入られた以上打つ手は残されていないだろう。殲滅戦を仕掛けて失敗すれば、暴徒化した闇渡りが領内に拡散することになる。その危険性を考えれば、戦闘など起こせるわけがない。
ラヴェンナには、カナンの救征軍を認める以外に選択肢は無い。けれど、それをどう負担するかは、全ての煌都で共有しようとするだろう。現にパルミラは、全煌都に向けて転移門を使用しての参集を呼びかけている。煌都間の連携を考えれば、遠く離れたエルシャも会議には参加せざるを得ない。
こんな経緯があったからだ。エマヌエルや、ラヴェンナのことを思い出したのは。
あの時私が抱いた危機感は間違ってはいなかった。カナンが旅に出た時から薄々何かをやらかすのではないかと思っていたけれど、とうとうこんな大事件を起こすに至ってしまった。
私が行かなければならない。動き出してしまったものは止めようがないけれど、せめて、カナンの真意だけは確認しなければならない。どれくらい本気でいるのか、覚悟は決めているのか……辺獄は、エマヌエルでさえ呑み込んでしまった場所だ。あるいはこれが今生の別れになるかもしれない。
今を逃せば、もうカナンに会えないような、そんな気がするのだ。
あの子は分かっているのだろうか? 自分がいかに大それたことをしようとしているのか。止めようのない流れに押し流されているのか。自分のやろうとしていることが、どれほど多くの人間に影響を及ぼすのか、ちゃんと分かったうえで、それでも進もうとしているのだろうか?
心配にならないわけがない。
カナンは、良くも悪くも、私のたった一人の妹なのだから。