煌都パルミラと闇渡りの連合の間で行われた戦争は、のちに『サウル紛争』として記録された。ウドゥグの剣を軸として生じたこの紛争は、その最重要人物であるサウルの戦死と、闇渡り達の降伏によって終結した。
しかし、パルミラの商人会議にとって、最大の問題は戦後にこそ待ち構えていた。
紛争はパルミラ都軍の勝利という形で幕を下ろしたが、この戦いでパルミラが得た有益なものは何一つ存在しない。
第一に復興問題が圧し掛かった。
略奪の対象となって壊滅した村がいくつもあり、管区内の重要拠点であるエリコも甚大な被害を被った。失われた資産の額も少なくないため、復興や補填のために多額の財政出動を強いられることになる。
第二に、消耗した都軍の再建。
正規兵の育成には時間が掛かり、最精鋭であった都外巡察隊にも少なからぬ被害が出ている。これはパルミラ管区全体の治安維持能力が低下することを意味しており、二次被害、三次被害が生じる原因に成り得る。
だがそれ以上に問題なのは、戦闘に参加した継火手の大半が深刻な精神的外傷を負ったことだった。
彼女らの活動が鈍れば、燈台の運営そのものにほころびが生じる。かといって替えの利く人材でもないため、辛抱強く回復を待たなければならない。
なお、都軍がパルミラに帰還するのと同時に、ラエドは将軍職の返上を申し出た。戦闘で負った損害や、降伏直前の継火手の暴走を収拾出来なかった責任を取るためだったが、これは却下された。
そして最大の問題が、降伏した六千名以上の闇渡りの処遇である。
カナンの行動によって殲滅という選択肢が消えた以上、都軍は彼らを監視したままパルミラ近辺まで連れてくるしかなかった。
現在、闇渡り達はティベリス河畔に集められ、都軍の監視下にある
無論、こんな状態をいつまでも続けておくわけにはいかないが、かといって彼らに使い道があるわけでもない。煌都が求めるような技能や能力を持っておらず、耕作をさせる土地も無い。一般市民も憎悪を募らせており、下手に接触などさせられないような状態だ。
商人なりに表現するならば、残された闇渡り達はまさに、不良債権以外の何物でもなかった。
こんな状況を作り出したカナンに対して、商人会議の面々も内心では批判したいという思いを抱えていた。
だがカナンが彼らを庇わず、都軍と継火手達が虐殺に走った場合、より深刻な事態になっていたのは明らかだ。
必死の抵抗にあった都軍はますます損耗し、継火手の中には完全に心を壊してしまう者も出ただろう。何より、都軍の虐殺という情報が広まればパルミラの名前に傷がつく。商いの都として栄えるパルミラにとって、評判を損なうのは何よりも恐るべき事態だ。
そうした諸々の理由から、商人会議はカナンを召喚こそしたものの、糾弾すれば良いのか感謝すれば良いのか分からなくなっていた。
カナンと五人の商人は、円卓を挟んで向かい合ったまま、しばらく話を切り出せなかった。お互いに、両者が内心どんな気分であるか察しはついていた。ここに来るまでのどこかで頭を抱えていただろう。
「それで、その……これから君はどうするつもりかね」
気まずい沈黙が垂れ込めるなかで、両替商のアナニアが口を開いた。だが、普段の彼とはかけ離れた曖昧な言葉しか出てこなかった。もっとも、他の者も同じようなことしか言えなかっただろう。
もちろんこんな切り出し方では会話にならない。後を引き継いでニカノルが補足した。
「貴女は今回の事件における最大の功労者です。我々はパルミラの代表として、貴女を高く評価している。
ですが、戦闘の結果生じた難民については、正直なところ面倒が見切れません」
「承知しています。私は……自分のとった行動が間違っていたとは思いません。ですが、政治的な観点から見れば、決して最上の判断ではないことも理解しています」
「同じ認識を持っているようで安心しました。では、新たな難民の処遇については、いかがお考えでしょうか」
「……その前に、一つ提案があります」
カナンは、隣に立っているペトラに視線を送った。それを受けて、ペトラはややうつむきつつ頷いた。
「現在、難民団には就労可能な人間が男女合わせて二千四百人ほど残っています。煌都とは異なる場所で育った人たちですが、倫理観や常識は共有しています。この人たちを、今回の戦いで失われた人的資源の補填として使って欲しいのです」
カナンの提案は、硬直していた商人たちの思考を動かすには十分な威力を持っていた。全員がはっとしたような表情でカナンを見つめる。
彼女が言う通り、今回の紛争でパルミラは少なくない人的被害を被っている。都軍はもとより、地方の村で田畑を耕す農民にさえ被害が出ている。そういったところに成人男性を送り込めば、必然的に女性の助けも必要になるだろう。家事や育児のほかにも、料理や洗濯といった仕事は、いくらでも人手を必要とする。
早い話、これまで難民団として扱われていた人々を、新たにパルミラ管区の住人にしてほしいという申し出だった。
それは同時に、難民団の解体宣言でもある。
パルミラ側としても、断る理由はほとんど無い。行政上の手続きや、従来の住民との調停に手間がかかるだろうが、カナンの提案は考慮するだけの価値がある。
「我々としては願ってもないことです。しかし……その場合、貴女の立場はどうなるのですか?」
「パルミラが難民たちを受け入れてくれた時点で、私は代表の座を降りようと思います。以後は、闇渡り達と行動を共にしたいと考えています」
「そして、どうするのです?」
「…………」
結局のところ、闇渡り達の処遇については何の案も思い浮かばなかった。
そもそも、彼らには行くべき場所が無い。飼われている羊ならば、牧草地から小屋へ連れ帰ることも出来るだろう。だが、野放しになっていた狼たちは、どこに行っても追い払われる。
これは、パルミラ一つの問題ではない。今の世界が抱えている根源的な欠陥なのだ。
寄る辺なき者は永遠に暗闇の中を歩き続けなければならない。
だが、彼らは煌都に対し牙を剥いてしまった。最早脅威として対処されるべき存在である。今までのように野放しにしておくわけにはいかない。
「やはり、機を見て殲滅すべきでないか」
誰かが、そんなことを言った。
カナンは咄嗟に反論しようとするが、言葉が出てこない。これは「良い」か「悪い」だけで解決出来るような、単純な問題ではないのだ。明確な答えを示せない以上、何を言っても意味は無い。
それゆえに、確固たる答えを携えて部屋に入って来た男は、一瞬で場の主導権を奪い去っていった。
「失礼ですが、その決定を下すのは待っていただきたい」
扉を押し飛ばすように開き、オーディス・シャティオンは大股に円卓の前へと進み出た。思わぬ第三者の登場に、商人たちはもとよりカナンやペトラまでも呆気にとられる。
「だ、誰かね君は!」
席を立ったアナニアが誰何する。オーディスは優雅な仕草で一礼した。
「突然押し入ったことに関しては、どうかご容赦願いたい。
私はオーディス・シャティオン。ラヴェンナ管区ウルバヌスの領主にして、辺境伯の位を預かった者です」
商人たちの間に衝撃が広がるのを、カナンは見逃さなかった。彼女も、最初に森の中で出会った時は、どうしてこんな大物が一人でいるのか不思議に思ったものだった。だが、彼について深く考えているような余裕は今まで無く、とりあえずは有力な協力者として見ていた。
そんな彼が今になって身分を明かし、公の場に出てきた。その真意はカナンにも測りかねる。
全員の視線が集まるのを確認してから、オーディスはカナンの瞳を真っ直ぐに見やった。
「カナン様。私は貴女に、一つの道を示しに来ました。貴女に覚悟と意志がおありなら、エマヌエルが通った道を先導いたしましょう」
その名前を聞いた時、カナンは全てを察した。
思えば、その名前の主こそ、全ての始まりなのだ。数年前、ユディトと共に各地の煌都を巡った時、まだ生きていた彼女に出会った。
その生き方と思想に触れたことが、今の彼女を作り上げた。
「聖女の道……救征軍の行路」
「然り。すなわち、エデンに至る道です」