カナンの足元に生じた巨大な魔法陣から、尖塔のように蒼い炎の柱が立ち上がる。
鐘の音が鳴り響く。蝶が羽ばたくように、あるいは花弁が開くように柱が
各々の翼は激流のような炎の波によって織り上げられ、その表面には無数の目と唇とが蠢いていた。人間には分からない言語で歌が紡がれ、怒りに燃えた目は戦場の全ての人間を睥睨する。神々しくあり、かつ禍々しい異形の翼を目の当たりにした闇渡り達は、そのあまりに圧倒的な光景に立ち竦むことしか出来ない。
だが、その術の意味を知っている継火手達は、より大きな衝撃を受けた。
自身の持てる全ての
しかし一方で、天火の大量消費は肉体に多大な負荷をかける。術の代償は肉体に刻み込まれ、継火手の体力を恒久的に低下させることとなる。また、天火の生成能力までも低下させてしまうため、歳をとるごとに病がちになっていくのだ。
熾天使級法術が、命削りの術と呼ばれる所以である。
六枚の翼はカナンの意思に従って動き、叩き付けられたいくつもの法術を一瞬で掻き消してしまった。
だが、唯一マスィルの術だけは相殺し切れず、巨大な翼の一枚が脱落する。
(消耗した分、密度が薄くなっている……!)
カナンは人知れずほぞを噛んだ。戦闘や負傷兵の治療に天火を使ったため、翼一枚あたりの防御力は格段に落ちている。なるべく遠くまで伸ばさなければならないことも、術の弱体化に拍車をかけていた。
しかし、そんなカナンの事情などマスィルの知ったことではなかい。
「……それだけの力を持っていながら、お前は」
マスィルは憤った。何故、自分達の側に立って戦おうとしないのか。何故、救うに値しない者まで救おうとするのか。何もかもが理解出来ない。しかし、錯乱しきった彼女の精神では、カナンの行為の意味を推し量ることなど不可能だった。
浸水して沈んでいく船のように、胸に開いた傷口から憎悪が流れ込んでくる。目に見える物全てが色褪せていた。そんな中で、カナンの姿だけがやけに眩しく見えた。
「……許さないッ!」
新たに術の詠唱を始める。
打ち消されたとはいえ、手ごたえはあった。あの翼を貫きカナンを排除してしまえば、闇渡り達と自分を阻むものは何も無くなる。
そうして敵討ちをしなければ、ヴィルニクが浮かばれない。マスィルはそう思っていた。
「我が彩炎よ、
高く掲げた右腕を中心に魔法陣が幾重にも展開する。カナンと同じように、持てる全ての天火を込めてマスィルは術を発動した。
彼女が開いた魔法陣から炎の身体を持った兵士達が無数に這い出てくる。胴から上は鎧をまとった人間の姿だが、下半身は馬の胴体と一体化しており、蹄が宙を蹴るごとに眩い閃光が瞬いた。
各々が剣や槍を構えながら、広げられた巨大な翼に向かって宙を駆けていく。独自の自我を持つ彼らは、マスィルの命令ではなく、敵意に反応して攻撃の対象を決める。それ故、一度呼び出したら攻撃を止めることは出来ない。
だが、マスィルも止める気は無かった。ただひたすら天火を吐き出して騎兵を増殖させる。彼女の目には、カナンは最早闇渡りと同じ「敵」としか映っていない。
「っ……」
押し寄せてくる炎の騎兵に対し、カナンは残った五枚の翼を翻して文字通り一掃した。衝突と同時にいくつもの爆発が生じ、騎兵達が断末魔の悲鳴を上げて消滅していく。だが、翼の表面に浮き出た唇や目も、斬り込んできた敵によって徐々に削られ始めていた。
加えて、一部の騎兵が翼の間をすり抜けて後方の闇渡り達に襲い掛かる。カナンは咄嗟に翼を差し向けて払い飛ばすが、薄くなった部分に別の騎兵達が群がってくる。
蒼炎の翼が千切れ、天火が霧散するたびに、カナン自身の力も抜けていくかのようだった。それでも気を抜くわけにはいかない。意識を失った瞬間、自分はもちろんのこと、後ろにいる闇渡り達にも炎の騎兵は襲い掛かるのだ。そのまま戦場を突き抜け、黒い外套を着た者は老若男女問わず殺して回るだろう。
マスィルの殺意に従って。
(それだけは、駄目だ)
そう言い聞かせ、術を保とうとする。だが元々少なかった天火の残量は、術の消耗に引きずられて激減していた。
一枚、二枚と翼が脱落していく。カナンの意識も少しずつ暗闇へと引きずられていく。それでも、悲鳴が聞こえてくるたびに、カナンは眠りから引き上げられる。
(もっと……)
殺到してきた騎兵を翼で握り潰す。蒼炎が飛び散り、翼が痩せ細っていく。
(もっと……もっと……!)
騎兵がすぐ傍を通り抜けていく。残った二枚のうち、一枚を向かわせ迎撃する。
だが、そうなると、カナン本人を守る物は何も無い。
視線を前に戻すと、一体の騎兵が槍を構え、真正面から突進してくるのが見えた。翼を呼び戻す余裕は無い。杖で振り払おうにも腕に力が入らない。せいぜい、何も持っていない右腕を伸ばすのが関の山だった。
――もっと力があれば、全てを守れるのに……。
そう願うのと同時に、槍の穂先がカナンの右腕に触れた。
炎が服や肌、肉を焼きながら這い上がってくる……それが見えた瞬間。
鐘の音と共に『門』は開かれた。