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【第百十七節/奇跡 上】

 継火手の少女が叫ぶような詠唱と共に法術を放ってくる。カナンは蒼い天火アトルを纏わせた杖を振るい、空中で少女の術を叩き落とした。


「もう撃つな!」


 カナンは少女の元まで駆け寄り、弛緩した腕から権杖を奪い取った。


「や、やめ……!」


「しっかりして下さい!」


 身を縮ませる少女を揺さぶり、渇を入れる。恐怖で揺れていた瞳がおさまるのを待ってから、カナンは後方に下がるように言いつけた。


「で、でも、まだ戦いは……」


「そんなもの、とっくに終わっています。さあ、これ以上ここに居ても、心を擦り減らすだけですよ。貴女は下がって」


 壊れた人形のように頷く少女を仲間に押しやると、カナンは燃え盛る戦場を再び走り出した。


 少女に言った通り、闇渡りの組織的な抵抗はすでに壊滅している。あの少女は恐怖にかられ、何もない所に法術を撃とうとしていた。そんなものが万一誰かに当たっても、良いことなど何も無い。


(これが、戦争……)


 どの方角からも悲鳴や断末魔の声が聞こえてくる。燃え盛る炎にまかれた幾人もの闇渡りが、それでも剣を振りかざして走り、力尽きて倒れていく。カナンの嗅覚は人の焼ける臭いで飽和していた。


 この場所に理性など無い。あるのは殺すか殺されるかという強迫観念だけだ。


 世界が闇に包まれて、一つだけ良いことがあったとすれば、それは戦争が無くなったことだ。そんなことをするには、人間はあまりに余力を失い過ぎた。


 煌都という機構は、限られた領域内で文明を保持するためのものだ。逆に言えば、保持するのがやっとでそれ以上のことは出来ない。


 だが、それは闇渡りという他者を想定していない。彼らが一斉に立ち上がる事態など、最初から考慮されていなかった。


 だから、戦争が起きた結果、戦い慣れていない人々がどのような心理状態に陥るかも無視された。


 神から力を与えられた継火手が、倫理を踏み躙って虐殺に走るなどあってはならないことだ。


「止めさせないと……今すぐに!」


 視界の端で天火の光が瞬いた。それが向かう先には、戦意を喪失して固まった一団がいる。


 カナンは迷わず法術を放った。


「我が蒼炎よ、車輪を象り咎人の行く手を阻め、回れ炎の剣! 智天使の輪ケルディムズ・リープ!」


 駆けるカナンを覆うように、六つの炎の輪が展開した。


「行け!」


 号令とともに蒼炎の戦輪が一斉に放たれる。それらは空中を進む法術とぶつかり、一方的に蹴散らした。カナンの完璧な統制のもとで全ての法術を叩き落とし、なおも勢いを失わない。


 旅に出たばかりの頃に一度だけ使用した術だが、威力、精度、展開数の全てにおいてあの頃を凌駕している。


(私はずっと、この力と向き合ってきた)


 この旅の中でいくつもの戦い経験し、より良く天火を扱うよう常に心がけてきた。そうすることで己の力の総体を自覚し、正しく制御するに至った。


 今なら上級法術である智天使級の術も、難なく扱うことが出来る。


(呑まれてはいけないんだ)


 カナンの意思に従い、炎の輪が飛び交う天火を次々と掻き消していく。それを撃った継火手達がどんな表情をしているかは、あえて考えないことにした。糾弾されるのも憎まれるのも、せめて、全てが終わってからにして欲しい。



 だが、ただ一人だけ、カナン本人に明確な敵意を示した者がいた。



 戦輪を操るカナンの足元に、彼女のものとは別の魔法陣が展開する。対処する余裕は無い。飛び退くしかなかった。


 カナンの身体が浮いた瞬間、魔法陣が火花に変わった。爆発に吹き飛ばされ、視界がぐるりと回転する。地面を転がされ、舞い上がった砂埃が目に入った。


 全身の打ち身に耐えながらカナンは立ち上がった。目に浮かんだ涙を拭うと、煙の向こうに憎しみの形相を浮かべたマスィルが見えた。


「マスィルさん……」


今まで色んな人間の表情を見てきた。だが、ここまで深い憎しみの色は見たことが無い。


 目を釣り上げているわけでも、口元を歪めているわけでもない。だが緑色の瞳には光が宿っておらず、乱れた赤い髪が風に乗ってたなびいている。



「お前は何をしている?」



 決して大きな声ではなかったが、カナンは臓腑を掴まれるような寒気を覚えた。氷のように冷え冷えとしているが、その下には溶岩のように燃えた憎悪がある。憎しみを向けられるのは大坑窟で経験済みだが、ベイベルのそれには自己憐憫や嫉妬が多分に混ざっていた。


 マスィルは違う。純粋に闇渡りと、その前に立ちふさがるカナンを憎んでいた。


「奴らは敵だ。一人残らず焼き払うのが、我々継火手の使命だ。それなのに、どうして奴らを庇う?」


「彼らに戦うだけの力は残っていません。これ以上はただの虐殺です。それは継火手としての名誉を穢す行いです」


 カナンの言葉を、マスィルは一笑した。


「今はそうかもしれない。だが、連中は闇渡りだ。何度でも我々に牙を剥く。後の禍根を断つためにも、一時の不名誉を被ることなど……」


「嘘を言わないでください」


「……」


 マスィルの言うことは全て嘘だ。誰でもそう断じることが出来る。当のマスィル自身でさえ、自己正当化であることを否定しなかった。


「貴女は……守火手を殺されたことに対する復讐がしたいだけだ。でも、そんなことのために天火アトルを使うのは……!」


「そんなこと、だと!?」


 マスィルの戦斧が炎で包まれる。それは、彼女の怒りを表象するかのように激しく燃え立っていた。気流に髪が流され、それ自体が炎のように激しく揺らめいた。


「私のヴィルニクが殺されたことが、そんなこと!? ふざけるな!!」


 斧が振るわれるのと同時に、火花の波がカナンめがけて押し寄せてきた。同じく天火を纏わせた杖で振り払うが、マスィルの怒りは一層激しくなる。


「あいつらが戦いを仕掛けてこなければ、ヴィルニクが死ぬことも無かったんだ……あいつらの勝手でヴィルニクは殺された。だったら、復讐して何が悪い!?」


 マスィルが法術を唱える。撃ち出された炎の槍に、呼び戻した戦輪をぶつけて相殺する。


 だが、今度は別の方向に閃光が見えた。カナンは戦輪を盾にして凌ぐ。マスィルのそれとは違い、大した威力ではなかった。しかし、それを撃ったのは、憎しみではなく恐怖にかられた継火手達だった。


 ふと気が付くと、カナンは弧の形に包囲されていた。継火手だけでなく、パルミラの兵士までもが槍先をカナンに向けている。一定の距離を保って、それ以上踏み込もうとはしてこないが、何か切っ掛けがあれば堰を切ったように襲い掛かってくるだろう。


「……この有様を見てみろ。皆、あいつらが憎いし、怖いんだ。私だって、これ以上誰かを失うのはたくさんだ。


 そこを退け。パルミラのためにも……死んでいった人々のためにも、私たちは復讐しなければならないんだ」


 それは理屈にさえなっていない。ただの感情論に過ぎない。


 カナンはいくらでも否定出来た。だが、あえて言葉は使わず、両腕を開いてマスィルをじっと見据えた。


 それは、場違いなほどに静謐な動作だった。包囲している兵士や継火手達も、炎から逃げ惑っている闇渡り達も、示し合わせたかのように動きを止めて一人の少女に視線を注いだ。それらを一斉に浴びながらも、カナンは少しも動揺しない。


「邪魔をするなら、お前も一緒に焼き殺すぞ!」


 そう言い放つマスィルの方が、逆に気圧されていたほどだ。憎しみが一旦は揺らぎ、それを自覚したがために一層激しく燃え上がった。扱える法術の中で最強のものを選び、詠唱を始める。彼女が力を集めていることに気付いた他の継火手達も不揃いながら術を編み上げる。


 三十弱の天火の輝きに曝されながら、それでもカナンは少しも怖気づいてはいなかった。


 振り返ると、戦意を喪失して呆然としている戦士達や、坑道から押し出され逃げ場を失った女子供の姿が見えた。


 彼らを助けることに意味はあるのか? 助けた後どうするのか? 彼女自身、自問せずにはいられなかった。


 だが、いくら自分に問うたところで、最初から答えは一つしかない。


 カナンという人間を支えている根本、彼女にとって絶対の正義。




「力は、弱者を虐げるためにあるのではない。守るために使うのが、力を持つ者の責務です」




 ――それを曲げたら、私は私でなくなる。




 カナンは全てを受け入れ、呟くように詠唱を始めた。


 それを見たマスィルが叫ぶように詠唱を終わらせる。他の継火手達も、つられるように術を放ち、そうしてから呆然とした表情でカナンを見やる。


 三十近くの天火が、一斉にカナンに襲い掛かった。あるいは彼女を飛び越えて、その後ろの闇渡り達を焼こうと殺到する。


 それら全てを防ぐ術を、カナンはまだ一つしか使えない。二度目ともなると何が起きるか分からないが、カナンは迷わずその術を使った。




「……我が蒼炎よ、この天命を糧となし、至高の翼となりて御座に仕えよ。


 永遠とわの賛美の歌い手也。怨敵を見張る櫓也。


 尽きること無き栄光の元、ひるがえれ、熾天使の羽衣ラファエルズ・ローブ!!」

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