この世界が闇に覆われたのは、旧世界の人間の悪徳が神の怒りに触れたからだと信じられている。煌都を束ねる祭司階級の人々は、その罪に対する贖罪として、また権力の表現として、たびたび燔祭を行った。
その内容は、仔羊や仔牛を祭壇に捧げ、大燈台から分けられた天火で焼き尽くすというものである。罪に対する贖罪、天火を与えられたことに対する感謝、そして祈りを表すこの儀式は、継火に次ぐ重要な祭事として神聖視されている。
しかし、この生贄というのは、言うまでもなく人間の代理としてである。贖罪の主体、祈りの主体はあくまで人間であり、それを殺すわけにはいかないから、動物が代理として引き出されるのだ。
故にこの日、パルミラの公式文書に名無しヶ丘と記された丘陵で起きた出来事は、あるゆる意味において燔祭に他ならなかった。
◇◇◇
ウドゥグの剣の破壊と包囲網の完成を受けて、ラエドは温存していた継火手を全て戦場に投入した。彼は勝利を確信した。
時同じくして、包囲網の中で暴れまわっていたアブネルも、魔剣の破壊と王の敗走を知ると覚悟を決めた。
(奴は、生き残るだろうな)
長くサウルと共に戦ってきただけに、アブネルは彼の強さや強運を良く知っている。例え世界を飲み込む洪水が起きようと泳いで生き延びる……サウルは、そんな男だ。
そして、自分が彼に追いつくことなど決して無いのだと、良く分かっている。自分は波に飲まれる「その他大勢」の一人に過ぎない。
「将軍、俺たちは見捨てられたんですかい……?」
部下の一人が不安げな声で尋ねてくる。他の連中にしても、誰のものか分からない返り血に塗れながら、見捨てられた子熊のように震えている。百戦錬磨の闇渡りといえど法術の前では、いや、だからこそ、それがいかに恐ろしいかは良く分かっている。
ウドゥグの剣はその恐怖を打ち消す旗印だった。それが失われた今、彼らに残されたのは絶望のみだった。
「……そのようだな」
アブネルの言葉に男達は肩を落とす。それは今や、揺るがざる事実となってしまった。
だが、事実だから何だと言うのか。
アブネルは頭を撫でた。そこには以前、煌都の兵士に拷問された時の傷が残っている。
「見捨てられたから何だって言うんだ。俺達は元々そういう物だろうが。
肩を落とすな、顔を上げろ。死ぬまで戦うぞ」
そう吐き捨て、アブネルは一人、前進してくる都軍の戦列に向かって突撃した。
それが未来の無い行動だと誰もが分かっている。しかしもう、それ以外に採れる道など残っていない。自然と彼らは顔を歪ませ、剣を振り上げ一人また一人と駆け出して行く。
死を覚悟しているだけに、彼らの形相は凄まじかった。隣で仲間が吹き飛ぼうと、あるいは自身の身体が抉られようと、剣を振りかざし襲い掛かっていく。轟音と爆炎を掻い潜り戦列に辿り着いた闇渡り達は、思う様伐剣を振り回し、斬れるだけ斬ってから死んで行く。
誰がどう見ても悪足掻きにしか見えないその行動は、しかしある一握りの人間に強い恐怖を焼き付けた。
他でもない、パルミラの継火手達に。
◇◇◇
一般に、煌都の女性は十八歳で成人として扱われるが、これは継火手の独り立ちに合わせるための配慮という面が強い。大多数の女性は風習に合わせて十八歳まで結婚を待つのだが、それより若く婚約することは珍しくないし、十五や、時には十四歳で嫁いでいく娘もいる。
煌都の上流階級、特に継火手の家系は早い段階で家同士の婚約を済ませ、実際の婚儀は十八歳になってから行うのが通例である。しかし中には、成人に先んじて
しかし、たとえ有名無実化していようと、継火手の成人年齢は十八歳であるし、それに達するまではどれほど優秀であっても継火手として権力を振るうことは許されない。
何故なら、継火手の独立とは戦場に出ることを意味し、その最前列で夜魔に……あるいは闇渡りに法術を使うことを意味するからである。
だからこそ、分別と覚悟が備わったと判断されるまで彼女達は正式な継火手としては扱われないのだ。
そしてこの日、名無しヶ丘に集められた継火手達はいずれも成人を済ませていた。
だが、その大多数は実戦経験を持たない素人ばかりだ。戦場の恐ろしさも敵を殺すことの意味も良く分かっていない。それらは、実際に体験しなければ分からない性格のものだが、煌都という安寧の揺り籠の中で育った彼女達には到底縁の無い話である。もしウドゥグの剣が現れなければ、サウルが王位を名乗らなければ、彼女達が戦場に出向く機会など一生無かっただろう。
だから、彼女達は誰よりも強く恐怖し、誰よりも過敏に反応した。
襲い掛かる悪鬼のような闇渡り達に対して、法術を使うことに一片の迷いも無かった。無論それは覚悟を決めたからでなく、むしろ正反対の理由に依る。彼女達は狂気に呑まれていた。
戦場のあちこちで、叫ぶような詠唱と共に法術が放たれる。
土煙や炎と共に人間の身体が飛び散り、死の痕跡も生々しいまま、目の前に落ちてくる。
それでも闇渡り達は突進をやめない。死に物狂いで食らいついてくる彼らを目の当たりにした乙女達は、恐怖に駆られ一層強い術を放った。混乱は戦線の各所に伝播し、泣きながら術を唱える者や、中には失禁して立てなくなる者まで現れた。
そんな凄惨な戦場より、カナンは傷ついた仲間達を連れて後退していた。突撃してきた敵の最精鋭を迎い討っただけに損害が大きく、手当ても虚しく生き絶えた者もいる。それでもカナンは、一人でも多くの仲間を助けるために駆けずり回り、
「カナン、少し休みな」
「え、ええ……」
負傷者に包帯を巻いていたペトラが声を掛ける。複雑な思いに苛まれつつも、カナンはその言葉にしたがった。難民団だけでなく、すでに数十人の兵士に天火を分け与えている。そうでもしていないと落ち着かなかったのだが、さすがに彼女の消耗も激しかった。何より、戦場にいる緊張感が、彼女の精神を磨耗させた。
主戦場からはいくらか距離を置いたが、爆発の閃光はここまで届いてくる。悲鳴や怒号は鳴り止むことなく続いている。
(イスラ……)
野戦病院から離れながら、カナンは敵の首領を追って森に消えたイスラのことを想った。
彼以外に、あの闇渡りに追いつける者はいない。実際に相対して思い知らされたが、王を名乗ったあの男は魔剣よりも危険な存在だ。そんな人間に
(それでも今は……一緒にいて欲しかった……)
凄惨ではあるが、戦いそのものは終結に向かっている。
しかし何故だろうか、カナンは大きな胸騒ぎを覚えていた。これから何かとんでもないことが起きるような……これまでのことなど全て前触れに過ぎず、一番重大なことが今から始まるような、そんな気がした。
「怖い…………」
戦火に炙られる野原に一人佇み、カナンは人知れず己の肩を抱いた。
怖いと思うことなど、この旅の中で何度も掻い潜ってきた。
瘴土の中で初めて夜魔と戦った時は緊張したし、リダの町では人の悪意に触れた。
アラルト山脈では危うく強姦されかけ、ウルクに辿り着いてからは波乱に次ぐ波乱にひたすら翻弄された。
砂漠を歩いている時は皆を導けるか常に不安だったし、パルミラに流れ着いてからも心配の連続だった。
そして闇渡りのサウルの底なしの戦意に圧倒され、人を斬る感触に慄いた。
しかし今覚えている恐怖は、そのどれとも違う。
もっと遠い場所からやってきたような、得体が知れず測ることも出来ない、運命的な恐怖だった。例えるなら、全焼の生贄に捧げられる仔羊が、薪の積まれた祭壇を目にした時のような……。
「カナン、おい、カナン!」
ハッと振り返ると、頭に包帯を巻きつけたサイモンが走ってくるのが見えた。カナンは、自分の心臓が大きく跳ね回っているのを感じた。
どうか良い知らせであって欲しい……しかし、そんな願いは容易く破られた。
「マスィルが居なくなった!」